2016年2月16日火曜日

フクシマ訪問記

2015年11月に白河のアウシュヴィッツ平和博物館と同じ場所にある原発災害情報センターでのお話会に招いていただき、フクシマ事故後初めて東北を訪れた。そしてその翌日は、原発事故で線量が高くなって住めなくなり、白河に避難して新しい生活を始めていらっしゃるお二人の男性に、被災地を見せてもらう機会に恵まれた。私にとっては、それまで頭で理解していたはずのことが、実際に自分の目で見て衝撃を受けることばかりで衝撃的だった。その話をベルリンに帰ってから友人に話すと、放射線テレックス(Strahlentelex)にぜひ書いてみないかと薦められ、自信はなかったが自分の印象と気持ちを素直に書いてみることにした。それが2016年2月号の放射線テレックスに掲載されたわけだが、お世話になった白河のアウシュヴィッツ平和博物館の小渕さん、私たちに付き合って自分の故郷を見せてくださった横山さん、菅野さんにもう一度感謝の気持ちを伝えるためにも、ここに日本語に訳すことにした。思いがけないすばらしいおもてなしをしていただいただけなく、私たちのために時間をかけて故郷を一緒に回っていただいたことには、言葉では言い表せないほどの贈り物だった。また、今回私はつくづく自分がジャーナリストには向いていないと自覚した。ちゃんとした記録も残さず、メモも走り書きばかりでゆうきさんと雅子さんにあとからいろいろ私の記憶の穴ぼこを埋めてもらった。皆さん、本当にありがとうございました。
(ゆう)

Strahlentelex2016年2月号
本文はこちら:http://www.strahlentelex.de/aktuell.htm#aktuell


フクシマ訪問記
前の晩、雪がしんしんと降り始めた。初雪だそうだ。2015年11月25日。パリに長く住んでいる、バイタリティあるゆうきさんに同伴する形で、私は事故後初めて東北に足を踏み入れた。あの三重の災害があってもうすぐ五年だ。ゆうきさんは寒がりで、あちこちに使い捨てカイロを貼り付けている。白河にある原発災害情報センターの集いの部屋に、お話会の後交流会が行なわれるということで場所を移したが、石油ストーブが燃えている。子供時代を髣髴とさせる石油ストーブの独特の暖かさだ。とりあえず私は、ストーブに張り付いているしかなかった。部屋の中央に置かれた長い机には、次から次へと皿や鉢に盛られたご馳走が並べられていく。参加者がそれぞれこの集まりのために自宅で作り、持ち寄ってくれたものだ。お酒や飲み物、お茶が加わり、予想していなかったご馳走つきの「交流会」が始まった。およそ20人くらいだろうか、白河近郊からこの原発災害情報センターに集まってきたこの人たちが、ことにこの5年来、どのような生活を送り、なにを経験してこられたのだろうか、私には詳しく知る術もない。この情報センターはアウシュヴィッツ平和博物館と同じ土地に建っている。博物館の館長を務める小渕さんは、以前は町から町へと移動してナチの犯罪を伝える展示会を催していたということで、それから展示会を催していた場所が閉鎖になったところ、白河で土地を無償で提供してくれる人が現われ、それでここで博物館を開くことになったという。小渕さんがそこに江戸時代中期の古民家を移築させてさらに建て増したのが、アウシュヴィッツ平和博物館のかわいい建物だ。中に入れば、ドイツの収容所跡や博物館などで見てよく知っているナチスのおぞましい過去の事実を証言する写真や資料、遺品などが展示されている。奥には特別企画の展示室があって、これまでにパレスチナの写真展や世界ヒバクシャ展、チェルノブイリ写真展などが催されてきた。さらに建物の隅にある図書室で、私は生まれて初めて本物のドイツ語の『我が闘争』を手にした(ドイツでは禁止されていたからだが、著作権が切れて、このたび歴史家コメント入りの本が発売されたばかりだ)。どうやら結婚のお祝いに花嫁花婿に町の市長から贈られた本らしい。恥ずかしいことに、私はここに招かれるまで、アウシュヴィッツ平和博物館が日本にあることすら、知らなかった。

招待はゆうきさんを通じて回ってきた。彼女は以前から小渕さんと知り合いで、本当は彼女一人が情報センターで話をするように招かれていたのだ。でも、原発大国であるフランスのあまり幸先のよくない反原発運動の話をしても気が重くなるだけだからと、ちょうどベルリンから東京に来ている私を一緒に招いてはどうか、と推薦してくれたのだった。ドイツの脱原発に至った状況や、エネルギーシフトについて話してほしいということだった。小渕さんはさらに、1泊してくれれば次の日に被災地を見せる、とまで言ってくださった。私はでも、なかなか決心がつかなかった。大体、私などそんなところに行って皆さんの期待に応えられるような話ができるだろうか? ドイツに関するエキスパートであるようなフリはしたくなかったし、そもそもいわゆるダークツーリズムをしたくなかった。被災地をちょっと訪れただけで「私は被災地を見て、被災者たちに会ってきた」というのはいやだったのだ。でも、最終的に行くのを決めたのは、これまでメールや電話でしか話したことのなかった飛幡祐規(たかはたゆうき)さんに実際に会って話がしたかったことと、ドキュメンタリー映画監督の坂田雅子さんが同行するといってくれたこと、そして、いったいどんな人が白河でアウシュヴィッツ平和博物館を営んでいるのか知りたかったからである。

菅野さんはユーモアのある気さくな男性で、年金生活者とは思えぬ若さだ。彼が今回、自分の車で突然失われてしまった故郷を見せてくれるという。もう一人の物静かな同伴者は横山さんといい、高校で日本史の先生をしていたそうだ。実直でとてもまじめそうな男性で、彼は私たちのためにすでに巡回ルートを考えて準備してくれており、その周辺の地図までコピーしてくれていた。私たちが宿泊していた旅館に翌朝迎えに来てくれると約束していたが、ぴったり9時半に部屋の電話が鳴った。受話器をとると、旅館の女性があまりにシュールなことを言ったので、私はあまりに驚いてその言葉を一人胸のうちにしまった。彼女はこういったのである。「アウシュヴィッツからお迎えが来ました」

白河はいわゆる「中通り」にある。奥羽山脈と阿武隈高地に挟まれ、宇都宮の北、郡山の南に位置し、東北新幹線を使えば東京から新白河まであっという間だ。迎えに来ていただいた旅館からまず二本松まで北上し、それから菅野さんの故郷である川俣を通って東へ進み、飯舘を通って南相馬まで行き、そこから太平洋沿岸を東に浪江、双葉、大熊、富岡、楢葉を走る。福島第一原発の事故さえなければ、私はこれらの小さな町の名前を知ることはおそらくなかっただろうが、今ではこの名前はどれも、毎日のように日本から入るニュースで馴染み深くなっている。

菅野さんは農家の出身で、通学に毎日長くかかった、と控えめに語ってくれた。小さいときはバスで、少し大きくなってからは自転車で通ったそうだ。すると行きはよいよいで帰りは大変だったに違いない。彼の家は川俣でも山木屋地区にあり、ここは汚染がことに激しかった地域だ。山木屋は海抜約500メートルほどの山の奥にある。ここでは線量があまり高かったため、町全体が避難する権利を得られるよう町長が奮闘したという。菅野さんの土地からは谷の向こう側に別の部落が見えるが、ここは二本松に属していて、線量は同じくらい高いにもかかわらず、二本松の住民たちは避難の対象とならなかったため、子供を含む住民がすべてここに残った。

菅野さんの家は典型的な日本家屋の黒い屋根瓦を持つ立派な家で、玄関の前に立つ大きな柿の木には、大きな柿がオレンジ色に生っている。まるで絵本のようだ。車寄せ付近に二十個近いブルーの「フレコンバッグ」が並んでいる。おぞましい「フレキシブルコンテナーバッグ」の略だが、これはこの地域の平らな場所にはいたるところに今やあふれかえっている。ほとんどは黒い色で、この袋にはいわゆる「除染作業」で削り取った土が入っている。菅野さんに、ここも除染したのかと聞くと、想像もしていなかった答えが返ってきた。「いや、ここにはうちの家財道具が入っています」町長が住民と一緒になって運動したため、国はここを田んぼも含め除染することを決定した。2013年の8月には、避難指示解除準備区域に指定されたので、家にあるものすべてをフレコンバッグに入れて家の前に出し、収集できるようにしておくようにとのお達しがあったのだが、何カ月経った今もこのままだ、と菅野さんは語る。この目の前に置かれた十数個の水色のフレコンバッグを見て、今菅野さんが話した言葉の意味を理解したとたん、涙が思わずこみ上げてきた。彼の家は大きな地震にも持ち堪え、津波にも襲われなかったのに、目に見えない放射線が、彼の住居を、愛着のあったもの、彼の人生に何らかの意味を持っていたもの、彼と生活をともにしてきたものと一緒にあっという間に汚染し、住めなくしてしまったのだ。彼はあたふたとすべて持っているものをそのままに去らなければならなかったのだ。私は息が詰まる思いがした。原発の最悪事故というのは、そういうことだったのだ。菅野さんは、自分が建てた家、何年も住み、本職の傍ら農業も営んでいた土地が荒れ果て、自分の人生を具象化したすべてがこうして放射性廃棄物と宣言されてプラスチックの袋の中で荒れ朽ちていくのを、傍観していなければならないのだ。私は唖然として言葉も出ないのと同時に怒りがこみ上げてきてたまらなかった。フクシマからの話をたくさん聞いてきたはずなのに、自分には十分想像力がなかったということか。

菅野さんの家に行くには、車道から脇に入った急な坂を昇らなければならないが、その道には格子のついた金属の蓋が乗った下水路と思われる溝が横に走っている。ここに入ったとき、菅野さんがわざわざ車を降りて、コンクリートで舗装された道の上に外して寝かせてあったそのがっしりした格子を溝に戻すのを私たちは見ていた。また車に乗って出発するときに、菅野さんはこれと反対の動作をした。黙ってその様子を見守る私たちに、理由を説明してくれた。「空き巣狙い対策です」

私たちはさらに東に向かう。菅野さんは口数は少ないが時折車窓から「あそこが私の母校の中学です」とか「これが私の通学路でした」と語ってくれる。川俣から飯舘に入ったところにあるモニタリングポストは毎時0.6マイクロシーベルトを示していたが、予想通り私たちが借りて持っていたガイガーカウンターが示すのはそれより高い値だった。浪江の立ち入り禁止の警戒区域に入るところでは毎時0.8マイクロシーベルト。どこをみてもパワーショベルと除染作業員ばかりだ。道路沿いに「除染作業中」と書いた旗がはためいていて、あたり一面、黒いフレコンバッグがぎっしり並んでいる。夏の終わりにはこうして削り取った汚染土を入れた袋が嵐で阿武隈川に流されてしまいスキャンダルとなったので、それ以来通し番号を通すことになったそうで、黒い袋に番号が書いてあるのだが、これだけ信じられない量の数字で果たして意味があるのか、私にはわからない。信じられないほど広範囲の土地、おそらく田んぼだったに違いない平らな土地の表面が削り取られ、フレコンバッグに詰め込まれて何重にも重なって並べられている。このプラスチック容器はもちろん放射能に汚染された土を入れるために作られているわけでも、長期間野外で保管するようにできているわけでもない。フクシマ事故があってから比較的すぐ詰められた袋はすでに風雨にさらされて破け、壊れ始めている。菅野さんは言う。「除染できているのは大体10%くらいです。山はほら、除染しようがないでしょう」

常磐自動車道を通って浪江に向かう。車中で毎時0.5マイクロシーベルトを測定した。それから私たちはつい最近開通された沿岸沿いの国道六号線を走る。国道六号線は事故以来ずっと閉鎖されたままになっていて、津波で残された自動車を運び去ることもできないまま放置されてきた。ちょうど数日前に私は東京で、この地方に住むとても気持ちのよい話し方をする、私たちのお話会にも出席してくれた武藤類子さんの講演に出かけたのだが、その時武藤さんがちょうど、政府寄りの団体が推進して実現した国道六号線の清掃ボランティア活動「みんなでやっぺ! きれいな6国」について話してくれたばかりだった。スキャンダルは、この清掃活動の実行委員会が若者たちをボランティアとして参加させたことだった。約200人ほどの地元の中高生たちが10月10日に、まだ場所によって高線量のこの国道で「ボランティア」としてゴミを拾い、清掃活動に携わった。当然だがたくさんの団体や市民たちがこの「郷土の復興」という名においてなされる無責任な計画ややり方に反対し、抗議した。武藤さんは講演参加者に新聞「福島民友」に掲載された、開沼博(かいぬまひろし)なるいわき市出身の人物が書いた記事をコピーして配ってくれたが、これは、罪なき市民を攻撃し、根拠ない偏見を助長し、殺人者扱いするヘイトスピーチを行なっている、という、この市民団体等の抗議を非難する文章だった。

この国道六号線を南に下り、事故のあった原発に近づく双葉と大熊の間の約14キロほどを進んでいくと、線量計は最高毎時4.8マイクロシーベルトまで上がった。ゆうきさんは約10分ほどはコンスタントに2マイクロシーベルト以上で下がらなかった、と記録している。私はその場で自分の目で見ることと、同時にたとえば若者による清掃活動がここで行なわれたという話を飲み込むことができない。どうして中高生がここでわざわざ道路に立って落ちているゴミを拾わなければならなかったのだ? このプロジェクトはもともと、原発事故が行なわれる前に計画されていたそうで、「ハッピーロード構想」といって桜の木を植える予定だったらしいが、3.11があって延期になったそうだ。このアイディアはだから延期はされたものの中止にはならなかったのだ。誰のためのハッピーロードだろう?

車でさらに進んでいくが、約5年前に津波に呑みこまれたとは信じられないほどの活気だ。ここにはまた元のように生活し、仕事をする人がいて、遊ぶ子供もいるのが、制服を着た中高生や子供の姿で分かる。南相馬では列になって並んで建っている、なんとも殺風景で哀しい仮設のプレハブ住宅を見た。これはもともとは一時的な応急住宅として建てられたはずだが、ここにまだいる人たちにとっては、それが長期の住まいになってしまったわけだ。警戒地区の入口ではユニフォームを着た男の人たちが立って見張っているが、彼らは簡単なガーゼのマスクをつけているだけだ。菅野さんも横山さんも通行許可書を持っていなかったが、横山さんが車を降りて交渉すると、通ってもいいという合図が出て、私たちはゴーストタウンにゆっくり入っていった。浪江だ。地震でつぶれた家屋がまだそのままの形で残っている。歪み、潰れ、傾いたまま、生気なく取り残されている。それでも、あの強い地震に持ち堪えた家屋もかなり多くあったことに驚く。それなら、もちろんここでもう一度復興することはできたはずだ、放射性物質という目に見えない毒がこの土地を半永久的に汚染しないでいたならば。

私たちに同伴してくれた菅野さんと横山さんは、確かに恵まれている方なのかもしれない。お二人ももちろん故郷を、家財道具を一切失ったわけだが、彼らには年金も入り貯金もあり、あの哀れな仮設住宅に留まることなく新生活を白河で始めることができた。きっとそれよりもっとひどい悲劇が、不幸が、絶望的で未来の見えない状況があるに違いない。でも、それでもみんなに共通することが一つある。それは、彼らが皆人生の真っ只中で引き裂かれた、ということだ。それも単に大地震や津波によってではなく、目に見えない、おぞましく気味の悪い毒によって。しかもその毒は一度だけ拡散したのではなくて、今も続いて水に、空気に、食物に、土に流れ込み、家族、友人関係、社会に大きな溝を掘り、傷を深くしているのだ。そういう意味で原発事故というのは戦争と同じだ、これは無作為に与えられる暴力だからである。そしてその暴力に人間は長い時間にわたって絡めとられ、それを耐えることを余儀なくされる。核の脅威といえば普通は核戦争を指すが、核戦争と原発事故はどこが違うのだろう? 私にはその違いが分からない。

横山さんは双葉の出身で、車窓から指してこう言った。「あそこに海が見えます。前はここからは海は見えなかったんですが、津波でみんな倒されてしまったので、今はここから海が見えるんです」確かに遥か向こうに太平洋が光って見える。双葉を通る道路から、横山さんが指で国道の反対側を指した。「あそこに私の自宅があります」私が、家の様子を見に、定期的にお戻りになるんですか、と聞くと、彼は口数少なく語る。「いえ、もう長いこと帰ってないです」以前は何度か戻って最低限のことを済ませていたが、今ではもう長い間帰っていないという。哀しいとか、つらいとかいう形容詞を使わずに、ただ淡々と行動や状況を説明するに留まる彼の口調に、私はでも底なしの哀しさを感じてしまう。もう生きている間にここに戻れることはないと思っています、と横山さんは語った。

いわゆるファミリーレストランで遅い昼食を摂ったが、思いがけず満員だった。ここで私たちは軽食を食べながら横山さんと菅野さんにいろいろ質問した。たとえば原発災害情報センターがどのように設立され組織されているのか、なにをしているのか、などだ。私たちがお話会をしたホールも、それからお食事会となった集いの場所も、両方とも古民家様式と校倉(あぜくら)造で、寄付された木や梁、屋根で有志によって手作りで建てられたものだそうだ。この近辺に住む、自分の居場所ではなかなか自由に発言することのできない人たちがここに集まり、交流する場所、不安、悩み、問題を語りあい、体験や意見を交換する場所となっているのだ。ここで人々は情報を集め、勉強し、話し合い、議論し、どういう問題があるか、なにができるか考えあったり、時にはお酒とおいしいご馳走を持ち合って、生の喜びをわかちあう場所なのである。

高速を通ってとうとう出発点である新幹線の新白河駅まで送っていただいた。丸一日私たちのために割いて案内してくださったお二人を昼食に招くことも許されなかった私たちは、せめてガソリン代だけでも、と言ったが、二人とも頑なに受け取ってくれなかった。「遠くからわざわざ来ていただいたお客様からそんなものはお受取りできません」それではせめて災害情報センターへ寄付としてお受け取りください、と何度も言って、頼むように封筒を受け取ってもらった。

もうすぐあの三重の災害から5年が経つ。恐ろしいニュースはあの時、何段階にも分けて私のもとに届いた。最初は地震、それから津波、そして福島第一原発の爆発だった。津波と爆発後画像で見た、あれほどショッキングな図はこれからはもうあまり出てこないかもしれない。しかし脅威で不安を与えるニュースはこれからも続いていくだろう。傷の深い、不吉な余波は静かにやってきて長く留まり、どんどんひどくなっていく。その間に、それらを近くで見ない人たちはフクシマを日々忘れ去っていくのだ。私がこの短い滞在の間に見たもの、聞いたことは長く余韻となって残った。今でも、菅野さんの家の前の木になっている見事なオレンジ色に熟れた柿が目に見える。そして、その横で菅野さんの人生を形作っていたものが放射性廃棄物となって水色のプラスチックの袋に入れられ、置きっ放しにされていたのを、私は忘れることができない。これらの静かな悲劇を理解するよう努力し、このようなことが二度とあってはならないと思いを噛み締めるのが、私たちのような「外部者」の役目ではないだろうか。この短い滞在で信じられないほどたくさんのことを授かった私は、ここに来ることができたことを本当にありがたく思う。そして今一度思いを新たにしたのは、本当に百聞は一見にしかず、ということであった。

2015年11月3日火曜日

なにごともなかったように

COP21国連気候変動会議が11月30日から12月11日までパリで開かれる。原子力大国であるそのフランスでやっと「エネルギー移行法」が成立したようだが、いったいどの程度まで「本気」なのだろうか。原子力エネルギーを悪とするドイツの風潮と違い、フランスの原子力神話も原子力ロビーの力も相変わらず強いからだ。ツァイト紙にちょうどそれに関する記事が載ったので、訳した。(ゆう)


2015年10月29日付け ツァイト紙 
なにごともなかったように
Als wäre nichts geschehen
DIE ZEIT Nr. 44 vom 29. 10. 2015

フランスでもやっとエネルギー移行法ができた。原子力からの移行を約束する法律だが、電気会社も市民も、それを本気にはしていないようだ。

Georg Blume報告

一見した限りでは、あたかもフランスもやったか、という感じを与える。国連気候変動会議を開催する国として、フランスが原子力大国から一挙に風力発電や太陽光発電の国に生まれ変わりでもするように。国民議会が夏に長年の約束だったエネルギー移行法を成立させたときのことである。「我々は皆、地球に対し責任がある。だから我々は世界に対し例を示す必要がある」とフランスの大統領フランソワ・オランドは言った。

11月にパリで、新しい気候変動枠組条約を話し合うために集まるその世界はしかし、オランドのビジョンを目の当たりにすることはないだろう。フランスのエネルギーシフトは、その最初の段階で留まってしまっているからだ。新しい太陽発電設備や風力発電設備を建てる代わりに、フランスはまた原発を建設しようとしている。昔のように勇ましく独力でローヌ川やロワール川沿いに建てるわけではなく、中国の財力を使って、イギリスに建てようとしているとは言っても、である。

フランスのエネルギー政策に関する2015年の大きな出来事は、この新しいエネルギー移行法の成立ではない。フランスの電気会社EDFが中国のパートナーと最近交わした契約である。EDFは発電量から言えば、今でも世界最大の電気会社だ。EDFの社長ジャン=ベルナール・レヴィはロンドンでこのたび、中国の建設会社2社と原発建設契約に署名した。これは、イギリスの西南部に2基の原子炉を建設する融資契約だ。

こうして、中国の取引相手の尽きることのない資金を頼りに、財政的に行き詰っていたEDFはフランスの新エネルギー移行法がもたらす束縛から同社の原子力ビジネスのコンセプトを救済したい考えだ。レヴィのメッセージはこうである。「恐竜はまだ生きているぞ!」

フランスの現在エネルギー政策にまつわる戦いは、ドイツではちょっと想像しがたい。先週レヴィと環境大臣セゴレーヌ・ロワイヤルは公開文書ですら攻撃しあっていた。レヴィが大臣に、フランスのフラマンヴィルにあるプロトタイプの原子炉の建設期間延長を申し入れたところ、ロワイヤル環境大臣は、その代わりにドイツとの国境沿いフェッセンハイムにあるEDF最古の原発を廃炉にするよう求めたのである。しかしレヴィは、フラマンヴィルの新原子炉が稼動してからしかフェッセンハイムの原子炉を廃炉にはしたくない。オランドはしかし、2017年までの彼の大統領任期中にフェッセンハイムを廃炉にすることを選挙の公約にしてしまっている。この争いがどう落ち着くかは、まだ誰にもわからない。

EDFは命令を与えられてそれを実行する家来ではない。ドイツではフクシマ事故とメルケル首相が原発の運命を決定した。それ以来E.onやRWEなどのドイツ電気供給会社の上にはなんの星も輝いていない。フランスはしかし、EDFの意向でフクシマ事故後原子力エンジニアを派遣した。あたかもフクシマ最悪事故が日本人の無知によってのみ起こされたかのように演出したのだ。チェルノブイリ事故のあとも同じだった。ソ連の原子炉事故後も、フランス人は自国の放射線量が上がったことを認めようとはしなかった。EDFはチェルノブイリ後もフクシマ後も、なにごともなかったかのように平然とそれまでどおりを続けていくことができたのだ。

EDFは730億ユーロの売上金と15万5千人の従業員を誇るフランスの例外企業だ。1946年に創業以来企業としての誇りは高く、労働組合も強い。70年代から80年代にかけてEDFは約60基もの原発をフランス国内に建設した。競合会社など事実上誰もいなかった。
これらの原子炉のうち58基が現在でも稼動している。旧式原子炉の現代化や放射能廃棄物の処分など、結果として生ずる費用は実際には組み込まれて計算されていないので、フランスの1キロワットごとの電気料金はヨーロッパで一番安い。今でも原発電気会社EDFはフランス国内で一番好かれている企業である。2000年以降ヨーロッパで新しく作られたエネルギー関係の法律ができて初めて、EDFはその独占企業の地位を返上しなければならず、新しい私経済的構造を押し付けられ、株式市場に上場したが、その核心では何も変わっていないのが実情だ。現在でもEDFの株の80%以上を国が所有しており、フランス国内の90%以上の電力を - そのうちほぼ75%が原子力発電だ - それも比較的安い電力料金で供給している。レヴィはすでに2050年までに、古い原子炉に取って代わるべき新原発を40基建設するという計画を出している。

風力や太陽による再生可能エネルギーではしかし、フランスはヨーロッパの中でも後れを取っている。国内の電力需要の5%も満たしていない。それはことに、EDFのせいだ:パリのエリート学校を卒業したEDFのトップマネージャーたちや労働組合のリーダーたちはこぞって、「すべてを原発エネルギーで賄う」企業方針をパリの政府だけに留まらず、小さな田舎の村一つ一つに至るまで浸透させるだけの影響力を持ち続けてきたからだ。

グローバルにこの分野をリードするカリフォルニアの太陽エネルギー企業サンパワー社ですら、フランスでは成功できなかった。彼らはフランスの石油マルチ企業トタルを2011年に買収してEDFをつまずかせようと思ったのだが、目論見どおりにならなかったのだ。「原子力ロビーはいまだに強力だ。国中で彼らの原発があらゆる税金を使って政党や市庁舎に金を出している」とパリのサンパワーのマネージャーフランソワ・ル・ニーはEDFに対する彼の長年の戦いを説明している。「公式には再生可能エネルギーを推進しているが、実際には1%以上にはならないのだ」と。

新しいエネルギー移行法は、それをこそ変えるつもりのようだ。ここにははっきりと目標が書かれてある。2030年までにフランスの発電の40%が再生可能エネルギーで満たされること、2025年には遅くとも、フランスの国内電力の50%しか原発による発電であってはならない、としている。しかしそのためにはフランスでは「文明変換」が必要だと、国立太陽エネルギー研究所の所長ジャック・ル・セニュールは認めている。EDFだけでなく、あらゆる市庁舎、そして市民たちが電力の消費と生産について新しい考え方をするようにならなくてはならない、と大統領が研究所を訪れた際に、ついでのように述べている。

しかし、誰がフランス人に考え方を改めるよう強制するのだ? 「我々が陥っている罠は、安い電力料金です」とジャック・ル・セニュールは語る。再生可能エネルギーが電気料金を高くした場合に、フランス人の誰がそれをよしとするだろうか?

ここにEDFのごり押しの権力がある。EDFは、かかる費用に合わせて電力料金を値上げする代わりに、原子力経済の結果かかる費用を消費者に請求書の枠内で払わせる代わりに、借金をするのである。国家が所有者として保証をするので、EDFはそれが可能だ。債務は370億ユーロに膨れ上がった。これは年間の売上高の約半分に相当する。 

これは本来ならスキャンダルのはずだ。というのも、借金は税金を払う市民がいつの日か払わせられることになるからだ。しかし、この自己欺瞞に終わりを告げようとする人は誰もいない。大統領ですら、同じだ。そして約束のエネルギー移行法を実現するためには、電力料金は上がらざるを得ない、さもなければどんな刺激策や補助金を持ってきてもEDFと競合しようとする会社が市場占有率を上げるのは難しい。しかし、電力料金を極端に値上げすれば、反対運動が高まるだろう。そんなことはオランドはできっこない。エネルギー移行法はどうあれ、だ。

2015年10月11日日曜日

これで日本は滅亡するか、という問題だった

フクシマ事故発生当時総理大臣だった菅直人が今ドイツに来ている。秋恒例のフランクフルトブックフェアで、ドイツ語訳された彼の著書「東電福島原発事故 - 総理大臣として考えたこと」を紹介するために招かれたのだ。それに伴い、ベルリンでは、ベルリン日独センター主催で緑の党の財団ハインリッヒ・ベル財団の会場で講演をおこなうことになっている。シュピーゲル・オンラインが菅直人とおこなったインタビューをここに訳した。 (ゆう)

菅元首相、フクシマ事故について語る
これで日本は滅亡するか、
という問題だった
インタビュー:ヴィーラント・ヴァーグナー
本文はこちら:http://www.spiegel.de/politik/ausland/ex-premier-ueber-fukushima-die-frage-war-ob-japan-untergeht-a-1056836.html

フクシマの原発事故は、もっとひどいことになっていた可能性がある。単に偶然が重なり、日本全体が崩壊せずに済んだのだ」と当時首相だった菅直人氏は語る。彼は巨大都市東京を避難させることも考えたという。

シュピーゲルオンライン:菅さんは首相として2011年3月11日とそれからの数日間、福島第一原発の事故とその影響に対処していたわけですが、世界が想像していたより事態は深刻だったのでしょうか?

菅直人:私たちは、間一髪のところでもっとひどいカタストロフィーになることから逃れたと言っていいでしょう。もし当時、東京とその周辺の約5千万人の人間を避難させなければならなかったとすれば、日本という国の壊滅となっていたでしょう。首都東京はフクシマから250キロしか離れていません。そうならなかった理由としては、結果として2つの点が挙げられます。1つは、東電の社員が献身的にわが身を犠牲にして残ってくれたこと、もう1つは、幸運が偶然にも重なったことです。これはまさに神の加護としか言いようがない。

シュピーゲル:日本の原発はそれまで、まったく安全と思われてきました。それなのに、実際は偶然しか頼りにならなかったわけですか?

:はい。例えば、4号機の燃料棒を入れておく貯蔵プールにまだ水があったというのは、まさに幸運であったというほか説明のしようがありません。また、1号機から3号機までの格納容器には穴が開いていたため、圧力の抜け道がありました。もし格納容器が爆発していたら、被害者の数はもっと多くなっていたことでしょう。それに原発敷地はもっと汚染がひどくなっていて、救助隊が近寄れない状態だったはずです。

シュピーゲル:どうして東京を避難させなかったのですか?

:東京が危険になる可能性があることは、すぐに考えました。しかし、首相としてそれを公に話してしまえば、パニックを招くことになったでしょう。それに、そういうことになれば避難計画があることが必要だったでしょう。その代わり私がおこなったのは、避難の範囲を福島第一原発から徐々に広げていったことです。まず3キロから5キロ、そして10キロ、最終的には20キロまで半径を広げました。今知っていることを当時の私が知っていたとしたら、その半径をいっぺんに広範囲に広げていたと思います。しかし、こういうことの決断はとても難しいのです。半径を倍に広げれば、その分多くの人間を安全な場所に避難させなければいけないからです。

シュピーゲル:当時知らなかったことで、現在わかっていることとは何ですか?

:例えば、当時言われていたように、地震があった次の日ではなく、地震があってからわずか2時間半後に炉心溶融が始まっていたことです。すべてがものすこいスピードで進んでいくので、その事態の発展に私たちはあとからもたもたとついていくだけだった。高線量の下で作業しなければならないので、東電は3月12日の午後、格納容器から水素を放出するため、2つのベントを開くことに成功しました。でも、それまでにかなりの水素が出てしまっていたのです。それで原子炉のタービン建屋が爆発してしまいました。

シュピーゲル:原子炉建屋は次から次へと爆発しましたが、そのとき無力感を感じませんでしたか?

:1号機の爆発を、私はなんとテレビで初めて知ったのです。そのときにはすでにもう2時間が経っていました。私は何の情報も渡されていなかったのです、省庁からも、東電からも一切なにも、です。

シュピーゲル:それでも菅さんは3月15日の早朝に車で東電本社まで行き、東電の菅理職たちを一喝したということで、日本のマスコミから非難されましたね。総理大臣としての権限を越える行為だと。

:あの時、東電の社長は経産大臣に「福島第一原発に残っている作業員を撤退させたい」と言っていたのです。私にとってはそれは、日本が滅亡するかという問題だった。だから私は、自分で東電に行って幹部とどうしてもそこに残るようにと説得するよりなかったのです。もし本当に5千万人もの人間を避難させなければならない事態が生じていたら、誰が責任をとったでしょう、東電ですか?

シュピーゲル:日本のような産業大国が原子力発電事故を想定して準備していなかったというのは、ちょっと信じられないのですが。

:私は以前に厚生大臣や財務大臣も勤めましたが、専門家の助言を信頼して受けることが出来ました。しかしフクシマ事故後、原子力安全保安院長に事態を聞いてみても、彼が何を言っているかさっぱり分からない。それで「あなたは原子力の専門家なのですか?」と聞いたのです。すると彼は「いいえ、私の専門は経済です」と答えたのです。官庁の人事ですら、原子力発電の事故は原則としてないものと考えていたのです。

シュピーゲル:菅さんも首相として、始めは原発安全神話を信じていらっしゃったのではないですか?

:フクシマを経験してから、私の考えは180度変わりました。私は日本だけでなくできれば世界中で原子力エネルギーを放棄することを求めています。

シュピーゲル:フクシマではいまだに汚染水が太平洋に流れ込んでいます。同時に、今の安倍総理大臣はフクシマ事故後停止されていた日本の原発をまだ再稼動しようとしています。

:これは私に言わせれば完全に間違っています。原発がどれだけ大きい危険をはらんでいるか知った今となっては、ドイツが決定したように、我々も原発はすべて停止し、別のエネルギー源を開発すべきです。

シュピーゲル:市民の大多数が反対しているにもかかわらず、日本政府はなぜ今も原発に固執しているのでしょうか?

:電力会社、官僚、産業の利権が主な原因です。

菅直人:69歳。2011年3月11日に福祉まで最悪原発事故が起きた答辞に日本の総理大臣だった。太平洋沖で地震が発生した後、福島第一原発で複数の原子炉で炉心溶融が起きた。2011年9月、危機管理を非難されて辞任した。総理大臣就任後、わずか15ヵ月後のことであった。フランクフルトのブックフェアで菅氏は、原子力発電事故を巡る彼の体験をつづった『東電福島原発事故 ─ 総理大臣として考えたこと』のドイツ語訳を紹介する。

2015年10月10日土曜日

安倍話法

「市民の意見30の会」に依頼され、安倍が終戦から70年の今年8月に出したいわゆる「安倍談話」に関し執筆し、10月号に掲載された文章。(ゆう)


安倍話法
梶川ゆう

 戦後70年を記念したやたらに長い安倍話法の談話に関しては、日本でもかなり分析され、批判があった。この談話を「評価する」とか「評価しない」という表現が目立ったが、評価より前に根源的な問題は、この「談話」がいったい何のために出され、誰に向かって出されたかがもとより不明であることだ。「侵略」や「植民地支配」、「お詫び」に「反省」といった言葉があるかないか以前に、総理大臣がなにを意図してどういう内容のメッセージを出すかが問題だ。しかしこののらりくらりの作文は、キーワードは散りばめたか知らないが、自分を主語とする意見表明を一切避けた、掴みどころのない空のおしゃべりになってしまった。それはまず、この談話を発信する対象である「相手」がないからだ。そればかりか「自分」すらそこにいない。

 どこかで見覚えがあると思ったが、文章は文科省認定の歴史の教科書と同じだ。表面的には「過去」の出来事が描写されているようで、そこには主語がない。「飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々」「たくさんの市井の人々が無残にも犠牲になりました」「将来ある若者たちの命が、数知れず失われました」「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」と、あたかもすべて天災などの不可抗力であったかのような言い方だ。飢えや病に苦しませ、殺す原因を作ったのは誰か、たくさんの人々を無残に犠牲にしたのは誰か、若者たちの命を数知れず奪ったのは誰か、女性の名誉と尊厳(この表現もあまりに無責任だが)を傷つけたのは誰か、はここでは一切問われていない。もちろん問いたくないからである。まして「歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです」にいたっては、これが一国の総理が戦後70年という節目に公表する談話の内容だとはとても思えない戯言だ。取り返しがつかないから何も言わないというのが、この国の総理というわけか。

 それでも、世界で初めて原爆を落とされた犠牲国であることに関しての意識は相変わらず高い。今年5月にニューヨークで開催された核不拡散条約再検討会議で日本は、各国の指導者は広島・長崎の被爆地を訪問すべきだという素案を出し、中国の反発を受けてその提案は丸ごと削除された。日本が「被害者」に徹し「加害者」としての意識をさらに捨て去ろうとしているのが認められなかったのは当然だ。

 同じく5月、中国・韓国でかつて日本に強制労働を強いられた被害者の賠償訴訟や慰安婦問題で活躍している日本人弁護士グループがドイツの例を勉強しに訪れ、それに通訳として同行する機会があった。通訳をしたのはドイツの「記憶・責任・未来基金」(以下EVZ)と、ナチスドイツの強制労働者賠償問題に被害者側に立って携わってきたハンブルクの弁護士2人との話し合いだ。「EVZ」は、ナチスによるかつての強制労働者に対する賠償を行う目的で2000年に設立された基金で、基本資金の52億ユーロの半分は国が、残りの半分は経済界が出し、2007年に賠償金支払いを終えている。100カ国に散らばる合計166万人の元強制労働者に合計44億ユーロが払われ、現在は歴史を伝え、人権擁護を訴え、ナチス被害者を支援することを主な活動目的に、教育、若者の理解・交流振興、人権アピールのプロジェクト等を支援したり、奨学金を出したりしている。EVZとはその名が示すとおり、ナチスが行ったあらゆる犯罪、迫害、暴力、強制を記憶し、その規模、実態、状況、結果をはっきりと理解し、今と未来に伝える責任と、同時にその過去を償う責任がドイツにはあるとして、それを行動に示した基金だ。興味深いのは、資金を出した企業には、ナチス時代に強制労働者を雇っていた古い企業だけでなく、戦後できた企業も入っていたことだ。若い会社も「過去の清算を共に負担する」ことでイメージアップを図ったわけである。また強制労働者を雇っていた企業が、その下請け会社にも参加を要求した。実際は、この基金に寄付すればその分税金免除になったため、企業は免税の理由もあって金を出したともいえるし、その分国家が半分以上資金を出したのだともいえる。それでも「過去の清算」をする努力をアピールする意志があり、それを「望ましい態度」として受け入れる社会があったのだ。

 補償を行うにあたり、EVZは調査を丹念に行い、元強制労働者を見つけ出して登録し、強制労働の程度(収容所に入れられた人を最高レベルとして)に応じて賠償金を支払った。しかし期限内に登録できなかった人は、これでもう賠償金を受領する権利がなくなったし、受領した人たちもそれ以上に請求することは不可能になった。その次に私が通訳をしたハンブルクの弁護士2人は、ことにそのことを手厳しく批判していた。つまり、ドイツ国家は「要するにこれだけのことをしたから、もうそれ以上は要求するな」と言えるために、このような方法を選んだのだと。ナチスの負の遺産リストは長く、叩けばいくらでもぼろが出てくるようだ。それでもドイツはまがりなりにも向き合う姿勢を見せ、主語で謝り、「謝る」相手を定義してきている。

 安倍は「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言ったが、安倍が岸の孫であるように、私たちの子や孫は「あの戦争」をしてきた国で生まれ育つ以上、現在に続く関わりを否定することはできない。そこで思い出すのが1998年に小説家マルティン・ヴァルザーがドイツ書籍平和賞を受賞した際、アウシュヴィッツの罪については疑う余地はなくとも、その過去を毎日のように突きつけられては目を背けたくなる、過去の克服が儀式的になり単に道徳的な懲らしめとなっている、記憶の想起、罪の意識、償いは個人的なものであるべきだという主旨を謝辞で述べ、大論争になったことだ。当時のユダヤ人中央評議会議長ブービスはこれを「精神的な放火魔」と糾弾し、いわゆる「ヴァルザー・ブービス論争」に発展した。加害者は「これだけ償いをしたからもういいだろう」という権利はない、ということがこの時盛んに言われたが、謝罪をせざるを得ない宿命を作り出した根本が何なのかを見据えない限り、何も始まらない。謝罪というなら、その罪の内容を把握、分析、理解しなくては謝ることはできない。その罪を誰が誰に与えたのかをはっきりさせない限り、誰が誰に謝ることも、誰が誰を赦すこともできない。しかし発信相手も発信する主語もない安倍の空虚な談話では、お詫びや反省という言葉があろうがなかろうが誰の胸にも入りはしない。彼は主語で何も語っていないし、誰に対しても語りかけていないからだ。このような虚言を敗戦70年の談話として総理大臣がもったいぶって話したのだから、なんとも情けない国である。

2015年9月19日土曜日

なにがなんでもあっては困る ── フクシマの子どもたちの甲状腺ガン

IPPNWアレックス・ローゼン博士による、
福島県の小児対象2巡目甲状腺スクリーニング検査の
結果についてのコメント

今年8月末に福島医科大学が、小児対象の2度目の甲状腺スクリーニング検査の新結果を発表した。またもやたくさんの子どもたちに甲状腺ガンが見つけられたわけだが、これでもまだ国も福島県も「フクシマ事故」との因果関係は認めたくないらしい。IPPNWドイツ支部の小児科医師アレックス・ローゼン博士が、それについてコメントしているので、それを訳した。                     (ゆう)

原文:http://www.fukushima-disaster.de/deutsche-information/super-gau/artikel/c0954b1c87134eef0b3444d988c2d152/da-nicht-sein-kann-was-nicht-sein-da.html 

なにがなんでもあっては困る
  ── フクシマの子どもたちの甲状腺ガン

【2015年9月8日付け】
2015年8月31日に福島医科大学は福島甲状腺ガン検査の最新データを発表した。過去4年間、合計30万人以上の18歳未満の小児・若者たちが調査対象となり、それぞれ異なる時期に2回にわたり、検査を受けた。

いわゆるスクリーニング検査の1巡目では、537人に超音波検査で異常が発見され、穿刺細胞診断が必要となった。病理診断で、この中から113人にガンの疑いがあるとされた。これらの子どもたちのうち99人は転移または腫瘍が危険な大きさまで成長したということで手術を受けなければならなかった。手術後、一人が良性の腫瘍と判明したが、手術を受けたその他の98人では、すべてガンが確認された。

2巡目のスクリーニング検査で、対象の子どもの数が最初のスクリーニング検査の対象より多かったのは、フクシマ事故後に生まれた子どもたちも対象に含まれたからである。

2巡目のスクリーニング検査では、2014年4月から2016月3月まで合計37万8778人の小児を対象に、これまでに16万9445人が検査を受けている。この二度目のスクリーニング検査からはまだ、15万3677人の小児(40.5%)の分しか結果が出ていない。このうち88人は穿刺細胞診断が必要となり、病理診断で合計25人に新しくガンの疑いがもたらされた。このうち6人は転移または腫瘍が危険な大きさまで成長したということで手術を受けなければならなかった。そして全員にガンが確認された。

ということは、これで合計104人の子どもたちに甲状腺ガンが診断されたことになる。その全員が転移またはガン腫瘍が危険な大きさまで成長したことで手術を余儀なくされている。さらに33人の小児において甲状腺ガン発症の疑いがもたれており、手術を受けることになっている。

2巡目のスクリーニング検査では58.4%に結節や嚢胞が発見された。1巡目のスクリーニング検査では、その率は48.5%だった。ということは、最初のスクリーニングで甲状腺異常がまったくみられなかった28,438人の小児に、今回結節や嚢胞が確認されたということである。そのうちの270人の結節や嚢胞はしかもあまりに大きかったため、さらなる検査が必要となったほどである。最初のスクリーニング検査で小さい結節や嚢胞が確認されていたさらに553人の子どもたちにおいては、いちじるしい成長が見られたため、さらに踏み入った診断をしなれければならなくなったほどである。甲状腺ガンが確認された症例の6人は、初回のスクリーニング検査と2巡目のスクリーニング検査の間にガンが発生している。

初回と2巡目のスクリーニング検査の間に言われているとおり二年が経過しているとすれば、一年間の発生率は10万人の小児に対し年間2人ということになる。日本の小児甲状腺がんの発生率は、フクシマ炉心溶融事故以前は10万人の小児に対し年間0.3人だった。この増加はもはや「スクリーニング効果」では説明できるものではない。さらに、被ばくした福島県の子どもたち6万7千人が検査対象に入っていないこと、そして20万9千人以上の子どもたちがまだ2度目のスクリーニング検査の順番を待っている状態であることを忘れてはならない。これにより、甲状腺ガン症例の数がこれから数ヶ月のうちにまだ増加するであることを憂慮する根拠が十分あるということだ。ガンには潜伏期間があるため、放射能被ばくによる影響が最も顕著に現れるのは、今後数年の間だと予測される。

福島医科大学が甲状腺検査の新しい数字を公表したその日、福島県の行政はこの警戒すべきデータに反応を示した。予測以上に高い数字で小児甲状腺ガン発症が検出されたことが、福島第一原発の複数の炉心溶融により放射性ヨウ素が放出されたことと関係があるかどうかを調査するよう、ある研究チームに要請したのである。この調査の結果はしかし、始める前からすでに決まっていたようである。「福島県で発生している甲状腺ガン症例が原発事故が原因であるとは考えられない」というものだ。このような発言を研究が始まる前にすでに行なってしまうのは、検査の重大さそのものを疑うことにもつながり、驚きを隠せない。

こうして、福島県も日本政府と同じように、国内の原子力産業と実に癒着構造にあり、いわゆる「原子力ムラ」の影響は今も巨大であるということが確認されるだけだ。「原子力ムラ」とは日本では、原子力経済、原発推進派の政治家、金で言いなりになっているメディア、腐敗しきった原子力規制当局等から成り立っている集合体を指し、これらが日本国内の原子力産業を存続すべく推進している。これでは、放射線被ばくによる甲状腺ガン発生に関する、信頼できるまじめな検査を福島県が行なうとは考えられず、今年中には発表されるという結果も、前もって彼らが行った明言と同様であろう。すなわち、「甲状腺ガン発症例が著しく増加したことと、2011年3月に起きた何重もの最悪規模の事故にはなんの因果関係もみあたらない」というものに違いない。それは、なにがなんでもあっては困るからだ。

アレックス・ローゼン医学博士
ドイツIPPNW

2015年8月15日土曜日

原子力 ── 最後の生き残り

ツァイト紙2016年8月11日付け
川内原発再稼動に関連した記事

2015年8月11日、川内原発一号機が再稼動した。これについては、書くのも不愉快なのでこれ以上コメントしないが、これはドイツでも話題になり、どの新聞・ニュースでも報道された。
ARTEのニュースはこちら:https://youtu.be/Bpm6BLRTlsU
どの報道にも出てくるのが「日本の市民の大半は反対しているのにもかかわらず」ということと、安倍政権が市民の言うことなどに耳を貸していない、ということだ。この記事では、さらにアメリカの原子力ロビーからの圧力があったことがはっきり書かれているので、訳した。まあ、新しいことではないけど。        (ゆう)

本文はこちら:

原子力 ── 最後の生き残り

KERNENERGIE
Die Letzten ihrer Art

世界の中でも、アメリカは日本の原子力技術に依存している。だからこそ、脱原発をしないようにという日本政府へのアメリカからの圧力も大きかったのだ。

Marlies Uken報告
世界中の原子力産業の心臓部は、日本の北海道の南部、人口約10万人のあまり有名とはいえない工業都市室蘭にある。世界のどこでも作られないものがここで製造されている。室蘭にある日本製鋼所は1万4千トンのプレスで、原子力産業の鍵となるコンポーネントの、いわゆる圧力容器を鍛練しているのだ。圧力容器は溶接による継ぎ目なしに一体成形で製造される。

この巨大な鋼鉄でできた容器は非常に重宝されている。たとえばフランスのアレヴァ社のEPR原子炉などの第三世代の原子炉は、この室蘭で作られるモンスター容器が必要だ。溶接の継ぎ目がないということは、それだけ安全性が高いことを示す。そのためにこの鋼鉄の巨大な塊を買おうとする客は、何ヶ月という納期遅延も我慢して受け入れるのだ。

原発を建設しようとすれば、日本と取引せざるを得ない。日本の大企業、日立、東芝、三菱重工などは原子力発電の重要な原子力関連メーカーだ。同時に、これらの企業はアメリカの企業と密接に結びついている。日本の東芝グループは2006年に米企業ウェスティングハウスを54億米ドルで買収した。日立はまた、何年も前から米国のシーメンスといえる、ジェネラルエレクトリック社と提携している。

新原発の建設はすごく高価で手間がかかるため、世界で四つの企業しかこのセクターでは活動していない。フランスのアレヴァ社、ウェスティングハウス/東芝、ロシアのロスアトム、そして中国核工業集団公司がそうである。ドイツのシーメンスグループは2011年の3月にフクシマで原発事故が起きてから、原発新建設事業から撤退した。とはいっても、ミュンヘンに本社を持つシーメンスは今でも従来の原発で使用される蒸気タービンなどに必要な部品はまだ製造している。

しかし、このビジネスは世界中で後退しつつある。あらゆる国が原発の部品を調達するのが困難だったり、納期が遅れたりして奮闘している。フクシマ原発事故で投資者は弱気になり、再生可能エネルギーのブームで電気市場は、かなり混乱状態だ。世界中で投資者も、政権も、市民も原発建設には乗り気でない。フランスのアレヴァグループの株価は、ここ数年来低迷状態だ。格付け機関であるStandars &Poor’s に及んでは、同社の株をハイリスク資産とすら評価している。

フクシマ事故の起きる前の年の2010年、世界各地ではまだ15基の原発建設が始まっていた。原発業界に批判的なWorld Nuclear Reports(世界の原子力産業現状報告)の発表によると、去年はそれがたったの3基だったそうである。新建設はそれに、これまで以上に国による補助が必要になった。最近の例では、イギリスのヒンクリーポイントCがそうだ。フランスの電気会社EdFは何年もキロワット時単位の電気料金を高く設定して法的に保証させてきた。現在、競合電気会社が欧州裁判所で競争法に反するとして訴えている。

原子力ルネッサンスは起こりそうにない。原子力エキスパートのマイケル・シュナイダー氏がハインリッヒ・ボル財団の支援で年に一度発表しているWorld Nuclear Report(世界の原子力産業現状報告)では、現在世界で建設中の第三世代の原発として18基をリストアップしている。その中でもトップを切っているのが日本である。ウェスティングハウス/東芝の原子炉モデルAP100 は、その内8基で建造中で、その後続くのが、あまり驚くことではないが、アメリカが占める3基だ。

日本のノウハウに依存
それだけに、日本が原発から撤退するのではないかとのアメリカの懸念は大きかった。アメリカは日本のノウハウに依存しているからだ。というのも、世界中でアメリカほどたくさんの原発が稼動している国はない。現在のところ99基が稼働中だ。それに応じて米国の原子力ロビーの力は大きい。シュナイダー氏の言うことを信じるとすれば、アメリカのリーダー格にある政治家たちが福島原発事故直後に、日本が原発を固持するよう圧力をかけたというのは公然の秘密らしい。日本政府が原発の未来を信じないで、どうやって東芝・ウェスティングハウスのような日本企業が信憑性高く製品を販売すればいいのだ? 「脱原発するという合図が日本から出されたときは、アメリカの原子力産業からそれこそカタストロフィと見られたのです」とシュナイダー氏は語る。

そしてその通りに、首相安倍晋三率いる保守政権は180度の方向転換を行なった。この火曜日にほぼ4年の中止期間を経て、日本の原発が初めてまた再稼動されたのである。原子力ロビーは胸をなでおろしたことになる。日本の原子力産業は国際的にこのセクターで欠かせない担い手なのだ。「この第1号が再稼動したことを、世界の原子力産業が声を合わせて歓迎する」と世界原子力協会の会長Agneta Rising氏が火曜日にコメントを出している。

シュナイダー氏の言うことを信じるとすれば、この喜びはでもつかの間かもしれない。というのは、原子力分野でまだ未来がある部門があるとすれば、それは原発廃炉ビジネスだ、と彼は言う。世界各地にある原発はどれも老巧化し、これを現在の安全基準に適合するように再装備する価値があるだけのケースはごくわずかしかない、と彼は語っている。

2015年5月18日月曜日

ダイヴェストのすすめ

どうやったら気候温暖化を本当に止めることができるのか? 新しく各地で始まったダイヴェストメント(Investment、投資の逆、すなわち投資した資本を撤回すること)運動は資本家に石炭・石油・ガス企業から資本を撤退することを訴え、成功している例がいくつもあるという。世界各地で2月13日と14日にグローバル・ダイヴェストメント・デーとしてあらゆるアクションが行なわれたそうだ。私の住むベルリンでもアクティビストがいろいろ活躍していることを知った。彼らがベルリン市に提出した公開状Fossil Free Berlinには、私が好きなHarald Welzer氏もサインをしていた。
最新のツァイト紙の「経済」欄に大きくこの行動についての報告が載ったので、それを訳した。(ゆう)

Holt das Geld da raus!

Die Zeit vom 13.05.2015

記事はまだオンラインで読めないがこちらを参考:https://fossilfreeberlin.wordpress.com/2015/05/13/fossil-free-in-der-zeit-vom-13-mai/

報告:フェリックス・ロアベック(Felix Rohrbeck)

金を取り上げろ!

マティアス・フォン・ゲミンゲンがベルリンの市庁舎で必要としたのは、三人の偵察隊だ。23時47分に偵察メンバー第1号から携帯に連絡が入る。「今こっちに来た」。来たというのは市庁舎を警護している制服を来た警察官たちで、彼らは自分たちが巡回の間監視されていることを知らない。

39歳のフォン・ゲミンゲンは残りのチームと市庁舎の後ろで待機する。警察官たちが彼のそばに来るまで、残るは10分あまりだ。60キロもある赤いホンダの発電機のエンジンがかかる。この発電機につながっているのは、車のトランクルームに隠してある巨大なプロジェクターだ。

マティアス・フォン・ゲミンゲンが合図をする。「行くぞ!」

グループの一人がプロジェクターのスイッチを入れる。瞬く間に市庁舎の正面に大きく、白い文字が照らし出される。「Divest!」と書いてある。「渡した金を取り上げろ」とでもいえばいいか。

グループのカメラマンがシャッターをパチ・パチ、パチと何度か切る。それから次の文字だ。「石炭、石油、ガスから撤退しろ」。またパチ、パチとシャッターの音。ぐずぐずしている暇はない。警官たちがすぐそばまで来ている。ゆっくり映写された文字を見ている暇はない。

しかし次の日、ここで撮った写真が世界を駆け巡る。運動家たちはこれらの写真をフェースブックやその他のソーシャルメディアで拡散する。彼らには世界中にヘルパーがいる。ベルリンの小さいグループの背後には、グローバルな、大きく成長しつつある運動が潜んでいるのだ。

イギリス、フランス、ルクセンブルク、米国、カナダ、フィリピン、ニュージーランドと、各地でこのベルリンのようなアクションが行なわれている。企業、大学、市、年金基金、保険会社、教会などに送られるメッセージは常に同じだ。「石炭、石油、ガスから撤退しろ!」

具体的に言えば、こうだ。このメッセージを受け取った団体は、最大級の化石燃料のたくわえをもっている、株式市場に上場されている企業200社に投資をするな、というのである。Gazpromもここにリストアップされているし、同じくExxon、BP、Statoil、PetroChina、Coal India、RWE、BASFがそうだ。これらの企業の株や公債を持っているものは、それを売り払うべきだというのである。

活動家たちは石油、ガスや石炭を使って商売をしている企業を、この方法で金銭的に「干上がらせよう」としているのだ。これらの企業も投資家が見つからなくなれば、化石エネルギー源は地中に埋もれたままで燃やされることはない、というのが彼らの計算だ。地球温暖化をもたらすビジネスはもう利益を上げないようになるべきなのだ。

2012年以来、これを支持する投資家の数が増えている。自ら確信して進んで始めた人もいれば、ベルリンの運動家たちがやっているように運動家の圧力に負けて、考え直したという人たちもいる。

アメリカではサンフランシスコやシアトルなどの市がダイヴェストメントすることを公言した。オーストラリアのブリスベン、イギリスのオックスフォード、スウェーデンのエレブルーもそうだ。70以上の教会系団体も、スカンディナヴィアの年金基金、カレッジや大学もそこに並んでおり、ことに大学では名声の高いスタンフォード大学がダイヴェストメントを公言している。創立者がかつてその石油帝国をもって巨大な財産をつくりあげたロックフェラー・ブラザーズ基金ですら、ダイヴェストメントを自らに義務付けている。ほとんど毎日、新しい団体がそのリストに名を連ねる。Amundiのような大きな資産管理会社ですら、ダイヴェストメント運動の条件にはまるような投資のプログラムを用意しているのだ。

本当にそんなことがありだろうか? ほぼ二十年来、あらゆる国や政府の代表者たちがサミットで世界の二酸化炭素排出量を減らし、将来の温度上昇を二度に制限しようとしながら大した成功をあげていない。そこに大して金も専門的構造もないわずかな活動家たちが現れて、それをやってのけるというのだろうか?

ベルリン市庁舎でのアクションの1時間半前、フォン・ゲミンゲンはアレキサンダー広場にある壁に腰掛けて、グループと待ち合わせしていた。彼は灰色のキャップを被り、フード付きのトレーナーを着込み、茶色のメガネをかけている、無精ひげを生やした若々しいタイプの男性だ。彼は仕事では、インターネットでの食料品オーダーを専門とするベルリンのスタートアップ会社のマーケティングをしている。彼は自分のことを、市民運動家としては「別世界から入り込んだ新参者」と称している。彼はこれまでの15年間、熱心に仕事をし、バンドでサクソフォンを弾き、結婚し、リュックサックを背負ってメキシコ、ブラジル、南アフリカなどに旅行していたという。政治的にはしかし、全く運動などしたことがなかった。せいぜい、オンラインの請願書に署名したくらいだった。

ところが、サンパウロに住むフォン・ゲミンゲンの友人たちが急に水がなくて困っている話を聞いた。南アフリカで彼がキャンプファイヤーをして楽しんだ砂浜がもうじきなくなりそうだ、というニュースが入った。気候変動はそれからというもの、彼にとって抽象的な危険ではなくなってしまったのだ。彼がそれまで知っていた世界がすでに変わり始めているのである。フォン・ゲミンゲンはこれに対抗してなにかをしたいと思った。ただ請願書にデジタル署名をする以上のことがしたいと。

フォン・ゲミンゲンはダイヴェストメント運動のことをインターネットで知った。彼は勇気を出して、ベルリンでの最初の集会を組織した。「ここでは本当になにかができる」と彼は言う。「署名を集める紙をボードに挟んで、何年も歩行者天国をうろうろする必要はない」と。政治的にもっと大きなテーマに取り組んでいる古典的な市民運動より、この運動のテンポはずっと早い、と彼は言う。世界のどこかで常に小さな勝利を勝ち取っている、と。フォン・ゲミンゲンの解釈はこうだ。「お金は回転が速いので、疑いがあればそれを撤退させるのは簡単だ。」

議会外でグループが集会に集会を重ね、ビラを配って議論をしている間、ダイヴェストメント運動は敵の資本論的ロジックを都合よく利用し、それをさらに倫理的プレッシャーに結び付けている。例えばダイヴェストメント運動家たちはハーバード、オックスフォードやメルボルン大学の運営管理部にこう質問するのである。「教授たちが講義室で気候変動に関する厳しい内容の講義を行っているというのに、その大学が同時に気候変動で金儲けをしているというのは分裂症的ではないのか?」大きな大学では何百億ドルという資産がああって、それをファンドを通したり直接株を買ったりして石炭生産者の企業に投資しているところが多いのだ。国の政府も、聞かれたくない質問攻めにあっている。なぜ、地球を救済する会議を催しておいて、同時に年金生活者のためのお金を石炭、石油、ガスで増やそうとするのだ? ヨーロッパの年金基金だけで、欧州緑の党の調査によれば、2600億ユーロが石炭、石油、ガスに投資されているという。慈善事業と謳う基金や財団などですら、怪しいものだ。慈善事業をするといいながら、どうして汚いエネルギーに資金を投資して増やそうとするんだ? というわけである。今攻撃の的となっているのは例えば、ビル&メリンダ・ゲイツ財団だ。

倫理的な圧力をかけるのに、運動家たちは経済的な論拠を用意している。ダイヴェストメント運動が要求していることは、投資家の利益にもつながると証明しようとしているわけだ。

アメリカの作家ビル・マッキベンが2012年に初めて、こうした論拠をローリングストーン誌で大衆向けに発表した。本当は、彼はただロンドンのNGOカーボン・トラッカー・イニシアチブの無味乾燥な数字を分析評価しただけだったのだが、ソーシャルネットワークでこれが飛び火のように拡散された。ローリングストーン誌の編集者がマッキベンに電話をし、こんなことは今まで経験したことがない、と言ったそうだ。なんと雑誌の出た二ヵ月後にはこの記事は11万2千件のフェイスブックの「いいね!」を記録し、1万2千件以上ツイッターで言及され、5千件以上の読者コメントがあったというのだ。

この記事の計算は、こうだ。もし気温上昇を二度に抑える目標をおざなりにもある程度守ろうとすれば、人類は2050年までに565ギガトンの二酸化炭素しか大気中に排出してはいけないことになる。それで終わりにならなければならないのだ。今日地中に眠っている石炭やオイル、ガスのリザーブはしかし、燃やせばその5倍以上を大気に排出することになってしまう。と言うことは、このリザーブのほとんどは企業がすでに確保しているが、これらは決して燃やされることがあってはならないと言うことになる。でなければ気候が過熱するからだ。

マッキベンの説が正しければ、これは投資家にとって恐ろしいニュースとなるはずである。将来、政治が本気でこの気温上昇を二度に抑えることになって、たくわえのほとんどを燃やすことができなくなれば、それらは無価値のもの、ということになるからだ。私欲からだけ考えても、化石エネルギーへの投資からお金を撤退するのが投資家にとってはベストだ、と彼は主張した。この論理で行けば、化石エネルギー原料で金儲けをしている企業への投下資本は今日、予想しているよりずっと価値が低いことになる。こういうのをバブル、と呼ぶのだ。

この説はエコロジー運動家の空想の産物ではない。金融界でもいわゆる「カーボン・バブル」を真剣に受け止め始めている。石油会社は彼らの株価の60%を失う可能性がある、とイギリスの最大銀行HSBCが2013年の調査で警告している。保険会社のマネージャーたちも懸念している。英国銀行の総裁は先日、政治が機構保護措置を厳しくした場合には、化石エネルギーへの投資が「多大なる打撃」をこうむることになる可能性がある、と警告したばかりだ。機関投資家専門の大手証券ブローカーであるケプラー・シュブルーのリサーチチームは、エネルギー業界の損失は28兆ドルになると予測している。カーボン・バブルがはじければ、2007年の金融危機でバブルがはじけたときと同じくらい大変なものになる可能性があるのだ。

マッキベンは金融業界の論拠をエコロジー運動の世界にもたらしたのである。この記事を発表してからすぐ、彼は作家から気候運動家にすっかり成り変わり、ダイヴェストメント運動を始めて、今日でもその運動を代表する顔となっている。2014年の12月には彼は、それでもう一つのノーベル賞を受賞している。

その2年前の2012年11月、マッキベンは彼が作った小さな組織350.orgを率いてアメリカで初めてのダイヴェストメント・ツアーを開始し、全国のあらゆる集会ホールを埋め尽くした。ここに、当時学生として350.orgで研修をしていたティネ・ラングカンプ(Tine Langkamp) がいたわけだが、彼女が現在ドイツで唯一の専任の運動家だ。マッキベンの「公演」は2012年にはすでにただの啓蒙運動ではなくなっていて、太鼓を叩くものあり、DJあり、反グローバリゼーション運動家のナオミ・クラインなどのビデオ中継が入るような大イベントとなっていた。そしてマッキベンがビールを片手に舞台にのっそり登場すると、こう説明するのだ。二酸化炭素というのはアルコールのようなものだ。「ちょっとならいい。しかし両方とも限度というものがある」。

それからカーボン・バブルの数字を見せる。そして集会に来ていた人たちは誰でも納得するのだ。これではどこかおかしい、と。

集会が終わると、聴衆の多くが質問状を出し始める。自分が在籍する大学へ、自分が住む町へ、自分が所属する教会へ。彼らの質問はこうだ。化石エネルギーのビジネスにお金を投資しているか? もしそうなら、額はどれくらいだ? それからその金を撤退するようにという要求が続く。今ではアメリカでは500以上のこのようなキャンペーンがある。それに応じない者は、この運動の圧力を感じることになるわけだ。

イェール大学では例えば、大学の学長の事務所を学生たちが占領し、学長が将来大学の基金の240億ドルの内1ドルたりとも汚いエネルギーに投資しないことを要求している。4月にはデンマークでは、年金基金の6つがその株主総会でダイヴェストメント提議を審議しなければならなくなっている。ロンドンでは著名なガーディアン誌がジャーナリストの「一定間隔を置く」原則を破って、ビル&メリンダ・ゲイツ財団とイギリスのウェルカム・トラストに対する請願書で、化石エネルギー関係の投下資本から資金を撤退させることを求めている。この請願書にはすでに20万人以上の人が署名をしている。

それではドイツではどうだろう?

アメリカのマッキベンのもとでの研修を終えてドイツに帰ったラングカンプは、ミュンスター大学でキャンペーンを始めた。彼女は大学管理本部に書状を送り、化石燃料へ投資している資本があれば、そこから資金を撤退するよう求めた。当大学が管理する基金には、大手のエネルギー企業の株を持っているファンドに資金を入れているところがあるのだ。

しかし書状が何の効果ももたらさないので、2014年7月に行なわれた大学祭に、白黒の衣装を着たウェイトレスが登場することになる。このウエイトレスたちは唖然としている客に向かって「石油ドリンクはいかが?」と聞いて回ったのだ。シャンペングラスに入れられた液体は黒くてねばねばしているものだった。

それから運動家たちが大学長ウルスラ・ネレスの演説を中断し、白いポスターを舞台の上で広げて見せた。そこには赤い文字でこう書いてあった。「石炭、石油、ガスから撤退しろ!」ネレスは腕を組んで、グループに話をさせたが、要求内容に耳を貸すつもりはなかった。「あなた方のメールはもうスパムファイルに入るようになっています」と彼女は舞台の上で何百もの客の前で言い放った。そして大学際が終わる頃、誰もいないところでこう言った。「あんなごろつきに指図は受けない」。

ラングカンプにとってはしかし、このアクションは考え抜いたコンセプトの4つの段階のうちの、第一ステップに過ぎない。まず、ミュンスター大学のような小さな組織にダイヴェストするよう運動する。そこで問題となる資金の額は小さいが、これでマスコミが注目するようになるはずだ。二番目のステップでは、スウェーデン国教会やスタンフォード大学といった大きな組織や団体に賛同してもらい、この運動が広く認められるようになって大きく躍進する。そして三つ目の段階では、本当に大きな額が対象となる、銀行、保険会社やファンドに圧力をかける。そして最終的に四段階目で政治が切羽詰って賛同せざるを得ない状況に追い込まれる、というものだ。

しかし、ミュンスター大学の学長が賛同せず、第一段階目でもめていたらどうすればいいのだろう?

ミュンスターのグループはそれで、市に訴えた。そして市議会は本当に、市の公務員の年金のお金を石炭・石油・フラッキング産業の会社には投資しないことを決定したのである。これがドイツでの一番最初の小さな勝利だった。

2014年10月に、ラインハルト・ビューティコーファーの事務所がラングカンプに電話をしてきた。欧州緑の党の代表が彼女の運動について詳しく知りたいと言ってきたのだ。彼らはベルリンで食事を一緒にした。ラングカンプは最初は確信できないでいたが、それから得心した。「彼は本当に運動の一部になるつもりだ」と彼女は言う。

半年後の2015年4月、ミュンヘンのメッセ会場のホールを3000人以上の人が埋め尽くした。ミュンヘン・リュック保険会社の株主総会だ。ミュンヘン・リュック保険会社は、2730億ユーロの総合収支を計上する世界で最大級の再保険会社だ。株主総会の株主の中にビューティコーファーの顔もあった。批判的な株主には議決権を彼に委任している人もかなりいたので、彼は話す権利があった。ビューティコーファーはそれでマイクに向かった。「カーボン・メジャーへの投下資本に何百億ユーロの資金を再保険しているのか?」と彼は舞台の上の役員会に質問した。そして「化石エネルギーへの投資から段階的に撤退するつもりがあるか?」

役員会代表のニコラウス・フォン・ボムハルトは言葉を濁した。当社は2500億ユーロに相当する投下資本を持っているが、「そのうちどちらかといえば化石エネルギー分野に投資されているものはわずかだ」と言うのだ。ビューティコーファーはこのような曖昧な答えでは納得できず、質問を白い紙に書いて、書面で質問を提出した。数日後に届いた回答には、こう書いてあった。オイルとガス業界への投下資本は、当社の投下資本の1.2%にあたる。当社では、カーボン・ダイヴェストメントイニシアチブの目標を資本投資の上でも考慮すべきか検討するが、今のところ具体的なダイヴェストメントを行なう計画はない」。

ビューティコーファーは引き下がるつもりはない。「ダイヴェストメントほど気候保護に活力をもたらす運動は今のところ他にない」と彼は言う。自然科学的な論拠はすでに人が知るところである。「しかし、エコロジストたちが金融戦略的論拠を持ち出してくるとは、誰も全然予想していなかったことですからね」と。ビューティコーファーは欧州中央銀行の総裁マリオ・ドラギにも書状をしたためたほどだ。彼はそれで、カーボン・バブルについて科学的諮問委員会に調査させることにした。

権力者が行動に移すのだけを待っているつもりのない人はたくさんいる。ミュンスターからドイツ全体にラングカンプの与えた刺激は波及したのだ。いまや17の都市に自治的グループのネットワークが出来上がった。

ベルリンでも同じである。マティアス・フォン・ゲミンゲンは、同志と共にベルリンの市長宛に書状を書き送った。ドイツの首都には「約10億ユーロの投資可能な金融資産がある」。「経済的リスクと地球体系(Earth system)に対する破滅的な結果」を考慮し、ミュラー市長は化石燃料への投下資本から資金を撤退すべきだという内容である。市長からまだ回答はない。しかし、真夜中の12時ちょっと前、巡回の警察官たちがもうほんのそばまでやってきているとき、フォン・ゲミンゲンたちはもう一度督促状を送った。市庁舎の赤いレンガの上に照らし出された最後のメッセージには、こう書かれてあった。「ミュラーさん、早く!」