2012年2月21日火曜日

Harald Welzerとのインタビュー

Wir sind nicht nett:
基金「FuturZwei(未来形その2、とでも訳すか)
新設した社会心理学者Harald Welzer
(ハラルド・ヴェルツァー)とのインタビュー
(Die Zeit紙、2012年1月19日号)

現在の資本主義の成れの果てにあって、これではいけない、別の方法、別の未来のあり方、別の共存の道を探さなければいけないと思っている人はたくさんいるはずである。このツァイト紙の記事を読んだとき、これも一つの試みである、と思えた。日本でも「しょうがない」という表現に表されるように、仲間うちで文句を言い合うだけで、失望して諦め、積極的な抵抗やオルタナティブな試みをせずにメインストリームに結局は呑まれていく人たちが多いと思う。それは、しかし日本だけのことではない。どういうあり方が可能か、大多数の人を説得できるだけの答えはまだ見つかっていないかもしれないが、ただ手をこまねいているだけでなく、できるところから「実行」している人たちは確かにいる。そうした例として、このインタビュー記事も訳したいと思った。「私たちは社会に対してボトルメールを出すのだ」という発言は、とても気に入った。
もう一つ面白いのは、このインタビューをしたツァイトの聞き手(Christiane GrefeとElisabeth von Thadden)がかなりシビアで辛辣なつっこみで質問をしていることだ。そして当然ながら、ヴェルツァー氏もその懐疑的な質問に真っ当から答えている。記者がこういうつっこみができ、またそれにまっすぐ回答できる人間がいるというだけで、当たり前なことではありながら、ドイツと日本の、言語を媒介とした人間同士のコミュニケーションの違いを感じてしまう。こういうインタビュー記事を日本で読むことはないように思う。
(ゆう)


あと数日もすれば、この新しい試みが始まる。大災害のニュースを、ほかの話で対抗していくという試みである。つまり、すでに別の生き方を、未来のあり方に充分対応できる生き方をすでに始めている人物に関する話をもって、対抗しようというのだ。2月1日にベルリンで新設される基金Futurzwei がインターネット公開される。この基金を発明したのは著名な社会心理学者であり、これまでに気候変動について多数の著書を発表してきたHarald Welzer氏だ。彼は自分のプレイグランドを替えようというのだろうか。

ツァイト:社会学者であるヴェルツァー氏はこれで実践的になって、この世にFuturzweiというプロジェクトを産み出そうというわけですね。どうしてこう複雑なんでしょうか、なぜ未来を単に未来と呼ぶことができないのでしょうか?

ハラルド・ヴェルツァー:この未来形という文法の時制は、すばらしい技が可能でしてね、想像上の未来を過去のものとして捉え、現在の時点でこう言うことが可能だからです、「我々はなにかをし終えているであろう」と。私たちの基金は、未来を違う風に築いていきたいという野心を持っています、それは、浪費とゴミや汚染物生産の現在の文化に未来があるとは思えないからです。

2012年2月16日木曜日

福島を覆う何重もの忘却のベール

ドイツ公共放送の記者であるデシュナー氏が日本を取材して、記事を書きました。内容は新しいことは特別ありませんが、一応、訳しました。
http://www.tagesschau.de/ausland/fukushima642.html

日本からの報告
福島を覆う何重もの忘却のベール
(海外特派員レポート・ターゲスシャウ)

最悪の事故となった原発事故から約1年が経過する中、フクシマの原発に関する報道は新聞の見出しから消えてしまった。それでも原子炉の状態は依然として微妙である。第2号機では温度がまた上がっているという。東電は温度計が故障したためと説明している。そして北日本の住民たちが怖れているのは単に放射能がもたらす結果だけではなく、「忘れ去られること」でもあるようだ。
WDR(西ドイツ放送)ユルゲン・デシュナー

「フクシマは核技術の信頼性を示す証拠です。いいですか、フクシマで起きたのはまったく恐ろしいと考えられる事故でした。しかし、それでどうしました? なんにも起きていないではないですか!それで死んだ人は一人としていません。専門家たちも、誰一人として放出された放射能により病気になったり、早死にしたりすることがないことを確認してくれるでしょう」。
立ち入り禁止区域まであと400メートル。フクシマ地方で出会う案内板だ。世界原子力協会(WNA)の理事長であるジョン・リッチが去年の9月に、私がロンドンでインタビューした際にマイクに向かって言った上記の言葉が、今回の日本での取材旅行に初日からついて回ることとなった。
2001年9月11日の不幸な事件と同じようにかけて3.11と日本では呼んでいるこの歴史的日から約1年、私はチェルノブイリ以来最大級といえる原発事故がこの国でどのような痕跡を残しているか、原子炉周辺の町にある道で、野原で、屋根もそうだが、ことにそこで住む人々の頭や心の中ではどんな足跡を残しているのか、自分の目で見たいと思った。

最悪事故にぴったりのちらつきと雑音
東京に着いた時の第一印象は、まったく興ざめといった感じだった。この大都会の住民たちにとっては、フクシマなど、まるでケルンやベルリンに住んでいる人間と同じようにまったく遠い場所の出来事のようなのだ。写真や映画でよく知っているような賑やかな雰囲気に街は包まれている。私が到着した日は、代々木公園の入り口で原発反対運動の小さい団体がデモ行進をしていた。しかし、ほとんどの人は無関心に通り過ぎていく。夜になると街はネオンや照明に照らし出される。停電する様子などまったくないようだ、日本国内にある54基の原発のうち、現在たった3基しか操業していないにもかかわらず、である。

2012年2月13日月曜日

フクシマに見る日本の縮図

反天皇制運動「モンスター」16号(2011年5月10日)より

3月11日以来、私たちの人生は一転した。被災者が置かれている状況もまだまだひどいが、フクシマの状況は目も当てられない。原発が崩壊して放射能を吐き出しているのに、責任ある態度も取らず、きちんと責任追及もされぬ罪深き原発一族に、日本の社会の縮図を見ている。自分の故郷がこれほどだめな国か、と実感するのはなんとも悲しい。

ドイツに来てから22年、日々ドイツ語を話し、ドイツ人と接し、仕事もしていくためには、日本語を母国語とし日本人として育った自分のメンタリティや思考・感情回路を分析することが、私には避けて通れない道だった。日本人のままではドイツ人と話せない自分に絶えずぶつかってきたからである。それで、自分を基本としながら私の「日本人論」ができたのだが、それが今再び痛感されることとなった。

フクシマ原発の事故発生以来、政治家や東電社員の演説、記者会見、説明を聞いて、まず「このほとんど意味をなさぬ日本語は何だ」と絶望感を覚えた。西欧語では余計な敬語や回りくどい表現はなくて、情報は濃密だがニュートラルかつ簡潔に、物事や状況を説明できるし、日々実践されている。誰でも自分の意見を堂々と説明し、論理が曖昧ならすぐに指摘され、誰が何の立場でどういう態度表明を行うか絶えず問われている。そういう慣習に慣れた目で日本人の話を聞くと、あのーや、えーが多いのは大目に見ても、くどいほどの敬語(させていただいております、という次第でございます)が耳障りで、肝心の内容は長々と喋る言葉の約二割に要約できるのではないか、と思えるほどだ。日本語の美しさは確かにあるし、母国語なのだからこれで表現をするしかないが、建設的で実質的な議論、分析、批判が普通に行える日本語を作り出す必要があると切実に思う。しかし言葉を作るのはそれを喋る人間で、その意識が大勢で変わらなければ、表現方法も変わるわけはない。

ドイツ「ツァイト」紙2011年10月27日付

ドイツ「ツァイト」紙2011年10月27日付に、ベルスコーニをめぐるイタリア情勢について、現在注目されているジャーナリスト、ロベルト・サヴィアーノ(Roberto Saviano)の記事が載りました。私がこれを読んでことに驚いたのは、彼が批判的な鋭い眼で観察している内容が、イタリアの状況であるにもかかわらず、それが「イタリア」という箇所を「日本」に置き換えてみてもまったく不思議なくらいに当てはまると思えたことです。
10月末の記事なので、それ以降、ベルスコーニも退陣し、情勢は変わっていますが、日本に対してはまだまだ同じことが言えるのではないかと思うので、それをここに訳します。
本文はここで読むことができます: 
http://www.zeit.de/2011/44/Italien

Die Krise bin ich「危機とは私のこと」
(『国家とは私のことだ』と語ったルイ14世のことばにかけて、訳注)

イタリアの外から見れば、「イタリアの病気」ははっきりしている。外国のメディアは、今ヨーロッパの注目の的である、あまりに重大で解決しないわけには行かぬ大問題として、イタリアの病気について語っている。しかしイタリアでは、見方がまったく違う。政府と野党はどうやらまともに行動を起こす気がないようだ。彼らはベルスコーニの後継者にしか関心がない。そしてそのベルスコーニといえば、絶え間なく続く反対運動にもかかわらず首相ポストを降りるつもりがまったくない。そしてベルスコーニが首相をやることを、イタリア人は望んできた、少なくとも今までに何度もそれは証明されてきたのだ。しかし、2008年以来、情勢は変わった。ことに、権力維持に躍起となる政府が手をこまねく経済危機が始まってからは、おそらく彼の所属するPDL(イタリアの政党、自由の人民)の支持者たちも、である。

ヨーロッパが我々に対して秩序を取り戻せと呼びかける前は、なにがなんでも権力を死守しようと必死な政府にとっては、それより重要で差し迫った問題がたくさんあった。例えば、イタリア国立テレビ放送RAIの監督官庁がワンマンショーの中止を提案した。これは言い換えればこうである。ある特定の人間とのインタビューや芸人(ことに政治や時勢を風刺するような)のモノローグなどには将来、一切番組が与えられないことになる。その代わり、どんな番組やどんな討論会、どんなインタビュー番組にも、必ず反対意見、別の立場を持つ人間を用意するように、というのである。これはしかし、おかしな民主主義の解釈とはいえないだろうか。それでは、まるで本の作家に自分の本の中で自分の意見に対立する観点を述べよ、というのと同じだ。民主主義とコミュニケーションは、アイディアの総体の中から生まれる。政府はしかし、特定のものの見方や分析が持つ強大な説得力を恐れ、それでわかりにくくさせ、戸惑わせ、思考停止させ、ブレーキを踏ませようと応答信号を送っているのである。

ドイツから見る福島原発事故

ドイツから見る福島原発事故
梶川ゆう

市民の意見30の会「市民の意見」No.126(2011年6月1日)より


3月11日から2ヶ月が過ぎた。ドイツでは日本の原発事故に関する報道は少なくなったが、福島をきっかけに起きた原発撤退の動きが具体化しつつあり、2021年までには全原発が停止する見込みだ。もちろん大手電力会社はあらゆる手を尽くして時間稼ぎをし、「二酸化炭素排出削減には原発は不可欠」「電力不足でフランスから原発電力を輸入しなければならなくなる」などと利権を守ろうとしている。それでも「資源のない日本では原発が不可欠」と思考停止して、再生可能エネルギーの普及を回避してきた日本と比べると、ここ数年で大きく差がついた。代替エネルギー政策でソーラーパネル設置に対する補助金制度や、太陽・風力・水力・バイオマスによる電力の有利な買取条件規定が徹底し、1998年の電力市場自由化以来、ドイツにおける再生可能エネルギーの普及は進み、去年で再生可能エネルギーの占める割合は全体の17%となった(日本は2020年までに10%を目標)。10年後には電力の40%、2050年までに80%を再生可能エネルギーで賄うことを目標としている。なによりも、原発には未来がないと世論が認めている。そしてこの福島の事故で恐怖感はさらに募った。隣のフランスには50基以上の原発があるから危険は変わらないが、どこかが率先して原発撤退を始めるしかない。ドイツ人がこれだけ危機感を持ち、それが政治にも反映しているのは、私にはとても「健康的な反応」に映る。日本が余りに「不健康」に見えるからだ。

福発は6基もあり、この先いつまで危険な状態が続くのか見通しがついていない。しかも大地震はいつまたどこで起きるかわからないのに、まだ20数基も原発が稼動している。政府が子供の被爆量を年間20ミリシーベルトまで許容し、批判を浴びながらもその決定を覆さずにいる様子を見ても、外国人やフリーの記者を記者会見から締め出す様子を見ても、今の日本は、孤立して戦時体制に突入していったかつての姿と重なって見える。政府は今や、汚染地域から住民を避難もさせずに、国民に無理・我慢を強要する不条理な「お上」であるだけでなく、放射能を「安全」と暴言して国民を見殺しにする殺人国家になってしまった。信じられないのは、個人で怒っている人は多いはずなのに、これらの恐ろしい事態がどうして社会的に糾弾されないかだ。九千キロ離れたドイツでさえ原発撤退がすぐに政治課題に上ったのに、原発事故が現実に起きている日本ですぐに原発停止とならないのは、理解しがたい。

3月11日以降の世界──ドイツから

ピープルズ・プラン研究所「季刊ピープルズ・プラン」55号(2011年9月20日)より

3月11日以来、世界観、人生観そして人生そのものが変わってしまったと自覚している人は、私だけではないだろう。地震・津波の災害の画像に始まり、それから想像を絶する原発事故がニュース、新聞、ネットで9千キロ離れたドイツに伝わってきてから、日に何度もいくつかのサイトをチェックし、「故郷はまだ存在しているか」「故郷で今なにが起き続けているか」を確認するのが私の日課になってしまった。

災害発生から2、3週間はドイツのマスコミは毎日、惨禍を伝える記事、写真、映像にあふれかえった。原発事故に対するドイツの大衆による拒否反応は、実際に事故が起きている日本での反応より確かにずっと速く、大きかったと言える。事故発生後、反原発デモが全国各地で大規模に行われ、現政権の原発推進派であったメルケル首相は、「原発に対するこれまでの考えは改めざるを得ない」と「脱原発撤回」を覆す政策を打ち出した。3月末に私の住むバーデン・ビュルテンベルグ州(ちなみにここはベンツ本社のあるシュツットガルトが首都の、58年もキリスト民主党(CDU)政権下にあった、保守層が集まる裕福な州で、ここの州選挙は連邦議会選挙のバロメータとされている)の州選挙で、原発推進派であった現州知事マップス(CDU)を破り、緑の党のクレッチマンが当選した。チェルノブイリ後、脱原発を基本政策として作られた政党で、最初はまったく対等な政治家としてみなされず、「ナイーブな若者たちの政治ごっこ」くらいにしか思われていなかった緑の党が、今やCDUをひるませるだけの政党に成長したのは、注目に値する。約25万人もの人間をデモに繰り出させるほどの脱原発を訴える市民の波は、こうして、2002年に当時の社(SPD)・緑連合が成立させた「原発からの撤退」を覆す「原発からの撤退からの撤退」法律を、去年強行議決した現在の連合政権に、取り消させるにいたった(*注1)。そしてとうとう2022年までにドイツ国内の全原発を停止する法律が可決された。これに関しては、去年覆された原発からの撤退法律がそのまま機能していればもっと早い時期での全原発停止が可能であったこと

2012年2月5日日曜日

無限(夢幻)遠点を始めるにあたって

無限遠(限りなく遠いところ)にある点、平行なものを遠近法で描いていくとその線が交わり、消えていく消失点が無限遠点である。

絵巻物、浮世絵などに多く見られる日本の絵画手法には、奥行き、明暗など遠近法がなかった。この遠近法、あるいは透視図、パースのもととなる言葉はラテン語のperspicere、物事を透視するという意味の動詞から来ている。三次元の対象を二次元の紙上に空間的・立体的に見せる方法だが、遠近法には必ずその視線の根源となる表現者の眼がある。自分の眼から見て近いものを大きく、遠くにあるものを遠くなればなるほど小さく描いていって、点になって消えるまで描く。ドイツ語で(英語でもそうだが)パースペクティブを持つ、という表現は、将来の見通しがあるとか、展望がある、というような意味で使われる。つまり自分にとって大切なもの、向かっていく方向性が定まり、それに向けて歩みだしていける状態、という意味である。

でも、日本の視点はまったく違うようだ。典型的なのは春画で、性器が尺度を超えた大きさで描かれるが、対象を写実的に表すことなど画家の意図にはなく、自分の関心の対象、感情の対象を大きく、細密に描くことで、自分にとって見える普遍ではない、ある意味ではデフォルメされた主観の世界を表現しているといえる。鑑賞者は、その非論理的かつ極端に個人的な世界の描写を受け止めるとき、その描写が自分の関心や世界の見方が重なる限り、絵が理解できる。そこには対象を見る視点の根源、表現者の眼としての中心点は皆無だ。あるのは、関心の的であるディテールに注ぎ込まれた情熱的な洞察と驚くべき描写だけだ。私には、この視点と描写法の違いが、日本とヨーロッパの根本的なアプローチの違いを濃縮しているように思えてならない。日本の中で日本語を話していると、遠近法をもつ考えも、方向性も、ましてや将来の展望をもつのもきわめて難しいような感じがする。その思いは、2011年3月11日以降強まる一方である。

ヨーロッパの知の追求の根本、ことに言葉で世界を表現しようとする試みに濃縮されているのは、個人個人がまったく異なる存在でありながら、その中に普遍を求めようとすること、と捉えることができると思う。だから、誰もが理解、納得でき、疑いの余地のない共通の「真実」を言い当てよう、知ろう、と求める希求があり、言葉や写実による矛盾なき論理性を完成させようとしてきたのだ。自分自身の感情や思想を、他者と共有することで、自分のおぼつかない存在感を確かめたいのは人間的な行為として誰でも共感できるはずだ。でも、それは個人を超越した真実の「眼」を想定することで成り立つとも言え、その真実の眼は西洋ではずっと絶対神だった。その神の眼を追究し、そこに至る道へ導く論理を完成させようとするのが西洋のアプローチだった。

真実であり絶対である点に向かう道を切り拓こうとする西洋科学が、根本から切り離されてただその科学的方法だけが取り入れられ、西洋文明を真似始めて百年以上経つ日本では、その遠近法的「科学」は一般の思考や生き方にはまだまだ到達していないと思わざるを得ない。西洋のこうした「強い」論理はこれまでえてして、そうでない価値観、考え方、生き方を劣等扱いし、アジアやアフリカその他の文化を蔑んできたわけだし、私もドイツに住み始めてからさまざまな形で、西洋中心主義的な驕った思想に反感を覚えてきたので、ここで私が言おうとしているのは、日本の「未開化」ぶりや「遅れている」といった批判では決してない。西洋の論理にはそれなりの壁や障害があり、必ずしも彼らの誇る論理が真実を誰の眼にも明らかにし、完璧な世界を導くわけではないことは、言うまでもなく明白である。日本には日本の、西洋には西洋のアプローチがあって、山の頂上はきっとどちらの道を通ってもたどり着くのが難しいのだ。ただ、お互いから学びあうことはたくさんある。健全な好奇心、あふれる情報の中から本当に自分にとって必要なアイディア、知、教えを学び取ろうとする姿勢なしに、ただ受身となり、現実に文句を言い、不平を唱え、未来を悲観して絶望するだけなら、子供と同じだと私は思う。大人になるとは、自分の頭でこれまでの知と経験を駆使して「考え」「言動する」ことではないのかと思わずにいられないからだ。私は、国境を越え、西洋の言葉を学んできた人間として、それでも日本に生まれ育ち、日本語を母国語とする人間として、もしかしたら日本だけにいると見えにくいものが少し見えるようになったのかもしれない。それで、この遠近法の見方についても考えてみるに至ったのだ。

自我の形成が西洋のそれとはまったく異なる日本では、自分を中心とした視線のかわり、自分の置かれた社会が眼となって育ち、その眼の中に映る自分を見るようになるのが自意識の始まりだと思う。ほかの誰とも違う、唯一の個人としての意識を西洋では小さいときから発達させていくのと反対に、家族や仲間、村、学校、会社など社会の大勢が「普遍」であり、中心だから、その中に自分も溶け込んでいるはずであり、はっきりとした、誰とも異なる自我という輪郭をあまり意識せずに育つ。すると、自分の眼を中心として普遍を求めていくという構図はなかなか起こり得ず、その代わり、ある共同体の中にもともと組み込まれて自我を形成し、普遍であるはずの共同体の中に溶け込めない自分が意識され、そこに普遍性のない世界が見え隠れするので、それを表現するほうが主となる。つまり自分が置かれている普遍の中から異を見出し、言い当てていく作業だ。他人とは異なる個人の視点から始まって普遍を追求していこうとする西洋とは、アプローチがまったく逆なのだ。

ドイツ人の間で生活を始めてからもう20年以上が経つが、私自身の中では私の抱える日本とドイツの言語、価値観、生活様式が交じり合いながらも、現実にはドイツと日本は常にいつまでも交わることなく平行線にある、という思いをせずにはいられないできた。それでも自分の中でその接点をさぐろうとしてきたのが私のこの20年以上の努力であったとも言えるだろう。

2011年3月11日を境に私の人生はあらゆる意味で変わったといえるが(そしてそれは私だけではないと思うのだが)、その「平行線」に対する気持ちはもっと切迫したものとなって、平行どころか日本が急にぐっと私の居場所からさらに遠ざけられてしまったような感覚を、危機感として味わわずにはいられなくなった。自分が生まれ育ち、愛する家族の住む故郷に対して抱く感情は、肉体的な、心の底にある深いへその緒的なものであることが実感された。自分自身が引き裂かれてしまうような心の痛みだった。20数年のドイツでのドイツ語を通しての生活で私の中で育った眼や思考回路が今の故郷の状況を糾弾し、非難しながらかつ分析し、解明しようとすると同時に、いまだに日本を故郷とする心がどうにかその弱さ甘さを庇い、その破滅と地獄図を救いたいと願う気持ちで分裂している。本当は、ため息ばかりで、絶望に押しつぶされそう敗北感をかろうじて頭から追いやろうとしているのが実情だ。

1億2千万以上いる日本人のたった一人であるに過ぎない私が日本や日本人を理解しているとはとても思っていないが、知ったかぶりに日本人のメンタリティや社会を分析解釈したり、ヨーロッパ中心的な視点から日本人の原発災害後の対応について見下すような意見を耳にするたび、心が痛むのと同じように、日本で、これだけの被害が出ながら、いまだにその実態を過小評価し、被害者を孤立させるだけでなく被害の蔓延を傍観し、なりふりかまわず既存の経済構造を押し通そうとする権力者たちの厚顔無恥なあり様が明らかになればなるほど、どうにかこの政・官・法・学・報の癒着した利権システムを壊す道はないのか、どうしたら草の根で声を上げている市民たちを支援していくことができるのか、と悩まずにはいられない。

どうにかこの「展望の見えぬ」状況の中で、視野を変え、あまりに絶望に打ちひしがれることなく希望を繋いでいける道はないのか、どういう方法が私に残っているのか、それをずっと考えてきた。まだ方法は見つかっていない。

だからこそ、無限の闇の中に希望を見出すために、できる限りの分析、思考、情報、想像を駆使して道を探っていきたい。私がドイツの中で見知る、これはと思う記事や論説、または、すでに道を歩みだしてすばらしい仕事をしている人たちを紹介しながら、私の洞察を進めていきたい。それが、このブログを始める動機である。同じようなことをしている人がほかにもすでにたくさんいるのは承知である。私が紹介していきたいものは、単に「原発問題」でも「日本社会批判」でもない。日本に限らず世界の各地で資本主義の利益追求の成れの果て、環境破壊、福祉社会の崩壊、貧富の隔たり、政治の腐敗と行き詰まりが絶望的な局面を迎えてきた現在、無力感に襲われたまま、これではいけないと思いながらも、なにもできないで手をこまねいている人が多い中、自分のできるところで、別の世界観、別の未来観を提唱し、実行している人たちもまたたくさんいる。そういう人たちの文章などを紹介しながら、私はどう考えるのか、どう行動するのか、を図っていきたいと思う。

つまり私は、私にとってのドイツと日本の「無限遠点」を見つけたい、ということなのだと思う。消失点はドイツ語でFluchtpunktというが、Fluchtというのは消失であると同時に「逃避」でもある。私がやろうとしているのは、なにかをしないではいられない私の心の「逃避」でもあるのかもしれないという自己批判は持っている。無限は、夢幻とも聞こえる。遠近法の消失点と同じで、夢、幻に過ぎないのかもしれない。それでも、私の中では日本もドイツも一緒に生きている。私の中で接点を見つけずには、生きていかれない。それも、表面的な「日独交流」とか日本とドイツの共通点、というようなものを求めているのではない。ただ、その無限の彼方に私にとっての二つの文化が交わる場所を求めて歩んでいくしかないのだ、と思う。そのための私なりの試行錯誤をしていきたいと思ったのが、このブログを始める動機である。

ブログ作成に当たり、技術的なことはすべて、姉、梶川彩におんぶに抱っこであり、彼女の尽力なしには成たたない。ここで姉に改めてお礼を言わせていただく。このブログが遠くてなかなか会いにいけない家族の共通の場となること、そして試行錯誤を通じてなんらかの方向性を自分たちが探っていくことができればいいと思っている。