2013年11月1日金曜日

フェアフォン ── 似て非なるスマートフォン

フェアフォン ─ 似て非なるスマートフォン
Stefan Schmitt報告
2013年10月17日付けツァイト紙

私があれだけはしたくないといまだに頑固に持たないでいるのが、いわゆるスマホ(なんというおぞましき略語!)だ。どこに行っても、誰もがあの小さい平らなディスプレイをフェティッシュのように撫で回している。誰と一緒に話をしていようと、何をしていようと、この奇妙な機械がなにか音を発信すると、真っ先に手にとってご機嫌を取る。情報源もコミュニケーションも、すべてそれ任せだ。そして、これがなければ「今の世界では通用しない」ことをなんの疑いもなく皆が受け入れている。それで、私はできる限り、そういう電子産業、情報通信機器産業のいいなりにはなりたくないとがんばっているのだが、そういう私だって旧型の携帯は持っている。こうやって「仕方がない」「そういう時代だから」と根本的な問いかけをせずに受け入れていることがなんと多いことか。でも、それはまったくの思考停止である以上に、敗北とそれをごまかす言い訳に過ぎない。それでは、どう「仕方がない」とせずに自分で考え、意思を貫いていくことができるかは、一人一人にかかっている。市場の流れに乗らされ、従順な消費者に成り切らずに、市場の独裁からなるべく自分を解放するというのは、難しい問題である。その中で、この記事を見つけた。こういう話は気持ちがよくて、こういう試みがあることをうれしく思ったので(私がそのフェアフォンを買いたいと思うかどうかは別として)、訳すことにした。(ゆう)

フェアフォン ── 似て非なるスマートフォン
Keines wie alle andern

スマートフォンをエシカル(倫理的に正しく)に製造することは可能か? 電子産業より納得できるものを作ろうと、「フェアフォン」を作り出したスタートアップがある。
Stefan Schmitt報告

見知らぬ民族のもとで暮らしてみる民族・人類学者もいれば、匿名で社会の底辺の職にもぐりこんでレポートするジャーナリストもいる。石器時代に使われていた道具を作ってみる実験考古学者もいる。これらに共通なのは、一風変わった方法で、なにかを見つけ出してみようとする好奇心だ。あれこれと試しながら、なにかを知ろうとする好奇心。そのためには、できれば内部に入り込んでやってみるのがいい。これと同じ好奇心で携帯製造会社をつくった好奇心の旺盛な人たちがいる。彼らはグローバルな電子産業の今の状況 - というよりは今の悪状況 - を見極めてみようと思ったのだ。

これから語るのはフェアな携帯、「フェアフォン」の話である。始めはキャンペーンだったのがスタートアップに成長し、そして実験としての道を歩み始めた。小さないい「お手本」として、この産業に物言うためである。

驚くことに、この話はこれまで、サクセスストーリーでもある。初夏にはすでにオンラインによる注文も開始した。「倫理的価値を大切にした、本当にクールなスマートフォン」という宣伝文句だ。たくさんの人たちがお金を前払いして、この携帯電話の製造を可能にし、おそらくクリスマス前にはそれを手にすることになるという。このような共同の前払いのシステムは、クラウドソーシングと呼ばれる方法だ。そして目標注文数の5000件をはるかに上回る注文が集まった。5000という数字は、大量生産を開始できるかどうかの境目だ。

このような資金調達も変わっているなら、この会社の自己認識も変わっている。「当社にとって、これはただの製品という以上のものです。これは私たちにとって、研究プロジェクトです」とフェアフォンの広報担当、Tessa Wwernink氏は語る。しかし秘密のプロジェクトではない。フェアフォンは開発のプロセスをウェブサイトで公表し、回り道をしてしまった場合や学びとった経験を詳しく報告している。彼らの勘定計算はオンラインで詳細に見ることができる。最後の1ユーロに至るまで、丁寧にリストアップされているのだ。

Wernink氏はアムステルダムの中央駅からわずかなところにある、倉庫を改造した建物の中の、とても長い机に座っている。まわりでは十数人の仲間が働いている。そのほか社員としてロンドンにSean、中国にMulanがいる。これがこの会社のすべてだ。携帯は大体、世界企業が製造しているのが普通ではないか?

サッカーチームくらいの頭数の人間が揃えばスマートフォンの製造には事足りる、というのがフェアフォンが語るキャッチフレーズだ。これを裏付けるのは、電子産業が数十年かけて確立した、極端なアウトソーシングである。計画と組織はアムステルダムで行い、それ以外の作業を引き受けるのは、アジアのサービス業者だ。

この秋、オランダのメインオフィスにプロトタイプが届いた。フェアフォンは緑色でもないし、麻でできているわけでもなく、禁欲的な感じもなければエコ調を装っているのでもない。普通のどこにでもあるスマートフォンと大して変わらない外見(ボタンがほとんどなく、大きなタッチパネルで角が丸まっている)で、アンドロイドで動くし、今日売られている平均的な新型モデルが普通できて当然なことはすべてできる。iPhoneほど薄くも強力でもないが、その代わり値段は約半分といったところだ。

技術的なディテールについては、その長所短所に関して長々と議論が可能だろう。しかし、これだけ「普通」の体裁で、それでいて「全然違う」ものであろうとする携帯電話というと、どうしても知りたいことがある。それのなにがフェアなのか、ということだ。なにを「改善」しようとしているのか? それでなにを結果として得ようというのか?