2014年6月2日月曜日

ドイツの脱原発

ドイツの脱原発
他人に迷惑をかけた者が
その責任を取る「事態を招いた者の責任者原則」
原発解体の費用と責任問題
Ausstieg aus der Atomenergie
Wer anderen Kosten aufhalst, muss dafür gerade stehen
南ドイツ新聞2014年6月1日付け
ミヒャエル・バウフミュラー報告(Michael Bauchmüller)


フクシマ原発事故後、ドイツでは脱原発を決定したのはいいが、それですべてが終了したわけではない。これから操業を終えることになる原発をいくつも解体していかなければならないが、それは容易なことではない。原発を運営してきた大手電気会社は、廃炉のための積立金をすることが義務付けられていたため、その資金があるとはいえ、それで解体や残った放射性廃棄物の処理の費用が済む保証はどこにもない。大手電気会社は、それでその積立金をすべて国に渡し、解体と放射性廃棄物処理の責任を全部国に任せたいという希望を出している。長年原発で甘い汁を吸ってきた電気会社が、脱原発が決定され、厄介者となったこの「無用の長物」を国に渡してしまい、自分たちは責任逃れをしようとする、この「責任者原則」をへとも思わぬ態度はモラル的に見てもおかしい。すべて、原発建設から運営に関してなんの責任もない、原発で作られた電気のなんの恩恵も受けないこれからの世代へと、負の遺産だけを残していく、この無責任で非モラル的態度を見るだけで、いかに原発というものが非人道的、非建設的なものかわかる。脱原発を決定するまで、ドイツには経済的な計算だけでなく、倫理上の問題を論議する倫理委員会というものがあった。日本は、あれほどの事故を起こしてもなお、倫理どころか、責任を追及することもない。脱原発を決定したドイツでは、その問題をどう扱っていくのか。     (ゆう)
またこの問題に関しては、みどりの1Kwhのこの報告も大変参考になる:http://midori1kwh.de/2014/05/25/5512#more-5512

本文はこちら:http://www.sueddeutsche.de/wirtschaft/ausstieg-aus-der-atomenergie-wer-anderen-kosten-aufhalst-muss-dafuer-gerade-stehen-1.1979306

金稼ぎにはよいが、処分は費用がかさみすぎる:長年ドイツの電気会社は原子力でいい思いをしてきたが、脱原発決定以来、原子炉は彼らにとって厄介なお荷物となってしまった。現在、「やった者が片付ける」という責任者原則はどれだけ適用されるのだろうか? 企業の責任というテーマでの大きな教訓となろう。

金のなる木がいくらお金をつぎ込んでも足りない底なし沼になるまで、時として数年しかかからないことがある。ダルムシュタットからあまり離れていないライン川沿いの原発施設がいい例だ。灰色の鋼鉄でできたフェンスがビブリス原発を周囲の世界から切り離しているが、3年前からはここでは、あまり何も起きていない。最後使われた使用済み燃料が燃料プールで冷却されている。その脇のホールでは、キャスター容器が、いつか最終処分場に運ばれるのを待機して横たわっている。鋼鉄製の、放射能で汚染された巨大な原子炉容器2台が解体され、安全に包装されるのを待っている。

電気会社RWE が45年前に世界最大の原子力発電所を建設させたあの当時と同じ「緑の野原」がまたここにいつか甦るはずである。しかし今はただただ「大問題」、これに尽きる。
金のなる木が底なし沼に - これはこれからどんどん増えていくだろう。クリュメルで、ブリュンスビュッテルで、ウンターヴァッサーで、ネッカーヴェストハイムで。連邦政府の脱原発計画によれば、2022年までに原発17基が廃炉となる。それはしかし、これまでになかった実地試験、産業界の約束が本当に果たされるかどうかが試される試みである。企業はこの底なし沼に対する責任をちゃんと果たすのだろうか? 自分たちがしでかしてしまったものを、自分たちでちゃんと始末するだろうか? それともお金儲けにはよかったが、処分するのが高すぎるこの重荷に耐えられず、破滅するだろうか? それでは、その費用は誰が払うのか?

本来は、このような問いかけは一切関係がないはずだ。文明社会における共同生活には、原則というものがある。「経済行為で他者に迷惑をかけた者は、その責任を自分で負う」というものだ。そして自分の行為で環境を汚染したものは、その自分が招いた事態の始末をつけるべきである。それにはビブリスの緑の野原だけでなく、放射性のゴミを安全に保管できる最終処分場を探し、建設することまで含まれる。それも百万年以上にわたって、である。

崖っぷちでの駆け引き
彼らの秘密の計画は破綻してしまった - それにより、原子力経済の廃炉費用を納税者にもたせようとする電気会社の計画も失敗した。少なくとも今のところは。というのは、国は彼らに、いまだに抜け道を許しているからである。

この背後には「やった者の責任原則」がある。脱原発を通じて、この原則がまだどれだけ適用されるのかどうかが示されることになるといえる。

原子力アドベンチャーの最後の始末をどうつけるかという問題で、原発を操業してきた電気会社にとってその事態の重さをどんどん自認せざるを得なくなっているという兆候が増加してきている。原子力ビジネスをすべて公益法人に委ね、その法人基金に残りの原子力操業を管理させ、最終的には解体から最終処分までを任せようという考えが来ているのだ。

計算は明らかである。この原子力技術が算定が極めて難しいコストリスクとなってきている今、リスクを含めたすべてを、できるだけ早く簿記から消してしまいたい。何十年もの間原子力発電所はドイツの電気会社の中でも一番見返りの大きい設備だった。今ではそれが、彼らにとって一番重荷な負担となっている。

この背後にあるのは、歴史の皮肉とでも言えるものである。原子力が他者の犠牲の上に成り立つビジネスであることは、これまでも常に明らかだった、それは空間的な意味でも、時間的な意味においてもである。第一世代の原発を作った設計者、エンジニア、建設者たちは、最終処分場を探す仕事を将来の世代に任せてきた。原子力事故が起きた場合の影響は、原発が建っている敷地のフェンス内には収まらないだけでなく、国境さえも越えてしまう。今になってやっと、電気会社のマネージャー世代が、前世代の残した遺産に手を焼き始めているというわけだ。こうしてかつての金の卵が現在の呪いとなってしまった。

疑いがある場合、空想家には責任などあまり問題にしない
現在の所見は、まったくもって安心などできない状態だ。「やった者の責任原則」や企業の責任などという意図は簡単に口に出し、理由付けもできるが、少しでも疑問が出るとすぐに犠牲にされるものである。聞こえのいい原則など、企業としての経済行為にあっては常に緊張状態にあるものだからである。

利益が得られることがはっきりすると、チャンスが増大しリスクは遠くにかすむ。原子力廃棄物の処分?まだ時間はある。原子力事故の危険性?数学的に見て、可能性は低い。疑いがある場合には、空想家は責任のことなど問題視せず、株主にいたってはまったく問題にしない。彼らは自分の持っている株を、遅くならないうちに売り渡してしまえばいいのだ。

このようにして膨れ上がり、ついには底なしの金食い虫になってしまった。これまでとは別の種類の残留リスクに関する教訓でもある。つまり、最後に数え切れないほどの問題が残るにもかかわらず、誰も自分の責任だと感じない、というそういう残留リスクだ。そして、次のことも問題の1つだ:「やった者」がシステマチックにリスクを過小評価してきたために、責任そのものが「やった者」を滅ぼしてしまう、という形で「やった者の責任原則」自体が不可能になるということである。

かつてのディープウォーターホライズン炎上沈没事故でもBPがそうなり得たように、日本のフクシマ原発事故後、東京電力もそうなり得た(国が穴埋めをしなければ)。それと同じことが、脱原発の克服において、ドイツの電力会社でも起きる可能性がある、今回は大事故を起こさないまでも。彼らは確かに解体と処分のためにこれまで360億ユーロを積み立ててきた。この積立金は、それらの企業が参加している事業や株、発電所出資などに投資しても税金がかからなかった。

しかし、この積立金の考えは、これらの企業が将来にわたり持続していく、経済的にも政治的にもこれという切れ目や損害なしに続いていくことを前提としてできていた。しかし今や、原子力から脱退してエコ電力へ変換するという極端な方向転換により、切れ目が生じてしまった。この方向転換はフクシマ原発事故後、突然訪れたが、それはこの問題を根本的になにも変えてはいない。

この切れ目により、自分がしでかしたことの後始末を自分でつけるという企業能力が壊されてしまった。この方向転換は企業の収支決算に深い傷跡を残すこととなり、「後始末」の費用として蓄えてあったはずの何十億ユーロという投資資金の価値が長期にわたって脅かされている。さらに、ビブリスを始め、その他の原発施設で実際に買いたいと処分にどれだけ費用がかかることになるのか、あるいは原子力をめぐる冒険が一体、いつになったら終わりになるのか、誰にもわからない、という事実がある。資金がまったくなくなって、これらの電気会社の1つや2つがそれまでに消滅してしまう可能性も皆無ではない。

電気会社は原発のためのバッドバンクを作るべきだ
大手電気会社3社であるEon、RWE、EnBWは、ドイツの原子力ビジネスそのものを国に委ねたい意図を示している。この計画が実現されれば、リスクはすべて、国に転嫁されることになる。

この業界では今、必死で逃れ道を画策している。そして実際に、電気会社は基金などの方法を使って、リスクを自分たちの簿記から閉め出すことが可能かもしれない様子だ。もちろん彼らは積立金をその基金の資金として差し出さなければならないが、この金額が実際にかかる解体・処分費用をカバーするかどうかに関して、企業はもう関知しなくてよくなる - 責任がなくなるからだ。

その代わり、解体にまつわる計り知れない金銭上の問題は公共の手に渡る。これと同時に待ち受けているのが、金銭的、そして倫理的破滅だ:第一次世界大戦勃発と同じくらい、原発エネルギー導入になんら関与しなかった世代の納税者が、処分を賄うことになるわけだ。彼らはそして原発による電気の恩恵にも至らなかった世代だ。ゴミだけが彼らに残される。

すでに同じようなシナリオで動いているのが石炭である。ここでも何十年もの間坑道が掘られては地下水の水位を下げ続けてきた。これも、石炭の成功の歴史が限りなくずっと続いていくに違いないという希望的観測の上に続けられてきたことだ。世界市場で石炭に代わるエネルギーが石炭を完全に追い抜いてしまってから、有価証券とリスクが RAG 基金へと譲渡された。

この基金の持っている資金から、これまでの鉱山の「無限費用(訳注:鉱山を閉鎖した後も長期にわたって残る費用のことを指すドイツ語のEwigkeitskostenの訳)」が賄われることになっている。これにより鉱害を調停し、地下水を牽制する。基金の資金が足りるかどうかは、誰にもわかっていない。それでも、石炭鉱山の残す後遺症など、原子力経済が残す何百億ユーロ規模の溝に比べ、まだ小さい方だ。

どの企業も、自分の行為の始末を自分で責任もって行う
電気会社は言い逃れをすることを特別気まずくは思っていない様子だ。つい先日、RWEの社長Peter Teriumは「この業界は当時、政治的に原子力エネルギーをやるようにいわば強制されたようなものです」と文句を言っている。だからこそ、責任は企業だけにあるのではない、というわけだ。実際、当時政治の方が電気会社よりずっと原子力エネルギーに興味があった。ことにこのRWEは褐炭の火力発電で利益を十分に上げていたし、原子力発電が市場に出るようになれば、過剰生産となり利益が下がってしまうのではないかと業界は恐れていたのである。

代わりのコンセプトができ、どんどん見本を作った:我が死後に洪水よ来たれ!
しかし政治は強制の代わりに味をつけた。利息の低い貸付をし、申請許可をスムーズにできるようにし、政治が関与した。ニーダーアイヒバッハでの原子炉事故や、カールスルーエの再処理工場などで、原発操業を始めて早期に、企業が事故負担費用を担わなければならなくなると、企業が費用を負担しなくていいようにする方法が常に可能だった。

例えば、ニーダアイヒバッハの研究原発施設は、初めて原発を解体した例となったわけだが、すぐにこれが「研究プロジェクト」であると宣言された。このような政治的歩み寄りと、それよりさらにはRWEと競合会社プロイセン・エレクトラとの競争により、ドイツは60年代、原子力時代を迎えた。

そのことから考えれば、RWEの社長のこのやり口は、この業界の得意の手口といえよう。かつて政治に便利な枠組みを用意させて原発へのお膳立てをしてもらい、今となっては政治がまた、責任の一部を負うべきだ、というのは、なんとも悲しいがその伝統に則った歴史の続きなのである。企業責任などというのはもちろん、ここではなにも証明されない。

だからこそ、いかなる公共の歩みよりも今現在では禁じられるべきである。それが電気会社であろうと化学工場であろうと洗濯屋であろうと、会社というものは自分の行為に対して責任を負うべきだ。発電所の解体であろうが、褐炭の露天掘り採掘後の再開墾であろうが、汚染された土壌浄化であろうが。

かつて利益を上げた経済活動の結果としての費用を企業が負わなければならなくなったその時点で、その企業から責任逃れを許せば、「やった者の責任原則」がまったく無意味に帰されてしまう。その代わりのコンセプトはすでにできあがり、どんどん見本が作られた:我が死後に洪水よ来たれ、だ。

一方で原子力エネルギーの経験が、技術進歩の扱い方に関し、教訓を与えてくれている。新しい技術に踏み込んでいく者は、結果として起こり得る事態にかかる経費を情け容赦のない分析を含め、どうやってそこから撤退するかということを具体的に想像することが必要である。そして企業が自分の行為に責任を取ろうと、引当金を積み立てるならば、この引当金の価値は、原子力であろうが褐炭であろうが、はたまたフラッキングによる従来とは違うガス採掘法促進であろうが、そのビジネスモデルの成功に依存したものであってはならない。

責任を持って行動するということは、まず始めに着陸用滑走路を作ってから飛び立つ、という意味である。