2015年11月3日火曜日

なにごともなかったように

COP21国連気候変動会議が11月30日から12月11日までパリで開かれる。原子力大国であるそのフランスでやっと「エネルギー移行法」が成立したようだが、いったいどの程度まで「本気」なのだろうか。原子力エネルギーを悪とするドイツの風潮と違い、フランスの原子力神話も原子力ロビーの力も相変わらず強いからだ。ツァイト紙にちょうどそれに関する記事が載ったので、訳した。(ゆう)


2015年10月29日付け ツァイト紙 
なにごともなかったように
Als wäre nichts geschehen
DIE ZEIT Nr. 44 vom 29. 10. 2015

フランスでもやっとエネルギー移行法ができた。原子力からの移行を約束する法律だが、電気会社も市民も、それを本気にはしていないようだ。

Georg Blume報告

一見した限りでは、あたかもフランスもやったか、という感じを与える。国連気候変動会議を開催する国として、フランスが原子力大国から一挙に風力発電や太陽光発電の国に生まれ変わりでもするように。国民議会が夏に長年の約束だったエネルギー移行法を成立させたときのことである。「我々は皆、地球に対し責任がある。だから我々は世界に対し例を示す必要がある」とフランスの大統領フランソワ・オランドは言った。

11月にパリで、新しい気候変動枠組条約を話し合うために集まるその世界はしかし、オランドのビジョンを目の当たりにすることはないだろう。フランスのエネルギーシフトは、その最初の段階で留まってしまっているからだ。新しい太陽発電設備や風力発電設備を建てる代わりに、フランスはまた原発を建設しようとしている。昔のように勇ましく独力でローヌ川やロワール川沿いに建てるわけではなく、中国の財力を使って、イギリスに建てようとしているとは言っても、である。

フランスのエネルギー政策に関する2015年の大きな出来事は、この新しいエネルギー移行法の成立ではない。フランスの電気会社EDFが中国のパートナーと最近交わした契約である。EDFは発電量から言えば、今でも世界最大の電気会社だ。EDFの社長ジャン=ベルナール・レヴィはロンドンでこのたび、中国の建設会社2社と原発建設契約に署名した。これは、イギリスの西南部に2基の原子炉を建設する融資契約だ。

こうして、中国の取引相手の尽きることのない資金を頼りに、財政的に行き詰っていたEDFはフランスの新エネルギー移行法がもたらす束縛から同社の原子力ビジネスのコンセプトを救済したい考えだ。レヴィのメッセージはこうである。「恐竜はまだ生きているぞ!」

フランスの現在エネルギー政策にまつわる戦いは、ドイツではちょっと想像しがたい。先週レヴィと環境大臣セゴレーヌ・ロワイヤルは公開文書ですら攻撃しあっていた。レヴィが大臣に、フランスのフラマンヴィルにあるプロトタイプの原子炉の建設期間延長を申し入れたところ、ロワイヤル環境大臣は、その代わりにドイツとの国境沿いフェッセンハイムにあるEDF最古の原発を廃炉にするよう求めたのである。しかしレヴィは、フラマンヴィルの新原子炉が稼動してからしかフェッセンハイムの原子炉を廃炉にはしたくない。オランドはしかし、2017年までの彼の大統領任期中にフェッセンハイムを廃炉にすることを選挙の公約にしてしまっている。この争いがどう落ち着くかは、まだ誰にもわからない。

EDFは命令を与えられてそれを実行する家来ではない。ドイツではフクシマ事故とメルケル首相が原発の運命を決定した。それ以来E.onやRWEなどのドイツ電気供給会社の上にはなんの星も輝いていない。フランスはしかし、EDFの意向でフクシマ事故後原子力エンジニアを派遣した。あたかもフクシマ最悪事故が日本人の無知によってのみ起こされたかのように演出したのだ。チェルノブイリ事故のあとも同じだった。ソ連の原子炉事故後も、フランス人は自国の放射線量が上がったことを認めようとはしなかった。EDFはチェルノブイリ後もフクシマ後も、なにごともなかったかのように平然とそれまでどおりを続けていくことができたのだ。

EDFは730億ユーロの売上金と15万5千人の従業員を誇るフランスの例外企業だ。1946年に創業以来企業としての誇りは高く、労働組合も強い。70年代から80年代にかけてEDFは約60基もの原発をフランス国内に建設した。競合会社など事実上誰もいなかった。
これらの原子炉のうち58基が現在でも稼動している。旧式原子炉の現代化や放射能廃棄物の処分など、結果として生ずる費用は実際には組み込まれて計算されていないので、フランスの1キロワットごとの電気料金はヨーロッパで一番安い。今でも原発電気会社EDFはフランス国内で一番好かれている企業である。2000年以降ヨーロッパで新しく作られたエネルギー関係の法律ができて初めて、EDFはその独占企業の地位を返上しなければならず、新しい私経済的構造を押し付けられ、株式市場に上場したが、その核心では何も変わっていないのが実情だ。現在でもEDFの株の80%以上を国が所有しており、フランス国内の90%以上の電力を - そのうちほぼ75%が原子力発電だ - それも比較的安い電力料金で供給している。レヴィはすでに2050年までに、古い原子炉に取って代わるべき新原発を40基建設するという計画を出している。

風力や太陽による再生可能エネルギーではしかし、フランスはヨーロッパの中でも後れを取っている。国内の電力需要の5%も満たしていない。それはことに、EDFのせいだ:パリのエリート学校を卒業したEDFのトップマネージャーたちや労働組合のリーダーたちはこぞって、「すべてを原発エネルギーで賄う」企業方針をパリの政府だけに留まらず、小さな田舎の村一つ一つに至るまで浸透させるだけの影響力を持ち続けてきたからだ。

グローバルにこの分野をリードするカリフォルニアの太陽エネルギー企業サンパワー社ですら、フランスでは成功できなかった。彼らはフランスの石油マルチ企業トタルを2011年に買収してEDFをつまずかせようと思ったのだが、目論見どおりにならなかったのだ。「原子力ロビーはいまだに強力だ。国中で彼らの原発があらゆる税金を使って政党や市庁舎に金を出している」とパリのサンパワーのマネージャーフランソワ・ル・ニーはEDFに対する彼の長年の戦いを説明している。「公式には再生可能エネルギーを推進しているが、実際には1%以上にはならないのだ」と。

新しいエネルギー移行法は、それをこそ変えるつもりのようだ。ここにははっきりと目標が書かれてある。2030年までにフランスの発電の40%が再生可能エネルギーで満たされること、2025年には遅くとも、フランスの国内電力の50%しか原発による発電であってはならない、としている。しかしそのためにはフランスでは「文明変換」が必要だと、国立太陽エネルギー研究所の所長ジャック・ル・セニュールは認めている。EDFだけでなく、あらゆる市庁舎、そして市民たちが電力の消費と生産について新しい考え方をするようにならなくてはならない、と大統領が研究所を訪れた際に、ついでのように述べている。

しかし、誰がフランス人に考え方を改めるよう強制するのだ? 「我々が陥っている罠は、安い電力料金です」とジャック・ル・セニュールは語る。再生可能エネルギーが電気料金を高くした場合に、フランス人の誰がそれをよしとするだろうか?

ここにEDFのごり押しの権力がある。EDFは、かかる費用に合わせて電力料金を値上げする代わりに、原子力経済の結果かかる費用を消費者に請求書の枠内で払わせる代わりに、借金をするのである。国家が所有者として保証をするので、EDFはそれが可能だ。債務は370億ユーロに膨れ上がった。これは年間の売上高の約半分に相当する。 

これは本来ならスキャンダルのはずだ。というのも、借金は税金を払う市民がいつの日か払わせられることになるからだ。しかし、この自己欺瞞に終わりを告げようとする人は誰もいない。大統領ですら、同じだ。そして約束のエネルギー移行法を実現するためには、電力料金は上がらざるを得ない、さもなければどんな刺激策や補助金を持ってきてもEDFと競合しようとする会社が市場占有率を上げるのは難しい。しかし、電力料金を極端に値上げすれば、反対運動が高まるだろう。そんなことはオランドはできっこない。エネルギー移行法はどうあれ、だ。

2015年10月11日日曜日

これで日本は滅亡するか、という問題だった

フクシマ事故発生当時総理大臣だった菅直人が今ドイツに来ている。秋恒例のフランクフルトブックフェアで、ドイツ語訳された彼の著書「東電福島原発事故 - 総理大臣として考えたこと」を紹介するために招かれたのだ。それに伴い、ベルリンでは、ベルリン日独センター主催で緑の党の財団ハインリッヒ・ベル財団の会場で講演をおこなうことになっている。シュピーゲル・オンラインが菅直人とおこなったインタビューをここに訳した。 (ゆう)

菅元首相、フクシマ事故について語る
これで日本は滅亡するか、
という問題だった
インタビュー:ヴィーラント・ヴァーグナー
本文はこちら:http://www.spiegel.de/politik/ausland/ex-premier-ueber-fukushima-die-frage-war-ob-japan-untergeht-a-1056836.html

フクシマの原発事故は、もっとひどいことになっていた可能性がある。単に偶然が重なり、日本全体が崩壊せずに済んだのだ」と当時首相だった菅直人氏は語る。彼は巨大都市東京を避難させることも考えたという。

シュピーゲルオンライン:菅さんは首相として2011年3月11日とそれからの数日間、福島第一原発の事故とその影響に対処していたわけですが、世界が想像していたより事態は深刻だったのでしょうか?

菅直人:私たちは、間一髪のところでもっとひどいカタストロフィーになることから逃れたと言っていいでしょう。もし当時、東京とその周辺の約5千万人の人間を避難させなければならなかったとすれば、日本という国の壊滅となっていたでしょう。首都東京はフクシマから250キロしか離れていません。そうならなかった理由としては、結果として2つの点が挙げられます。1つは、東電の社員が献身的にわが身を犠牲にして残ってくれたこと、もう1つは、幸運が偶然にも重なったことです。これはまさに神の加護としか言いようがない。

シュピーゲル:日本の原発はそれまで、まったく安全と思われてきました。それなのに、実際は偶然しか頼りにならなかったわけですか?

:はい。例えば、4号機の燃料棒を入れておく貯蔵プールにまだ水があったというのは、まさに幸運であったというほか説明のしようがありません。また、1号機から3号機までの格納容器には穴が開いていたため、圧力の抜け道がありました。もし格納容器が爆発していたら、被害者の数はもっと多くなっていたことでしょう。それに原発敷地はもっと汚染がひどくなっていて、救助隊が近寄れない状態だったはずです。

シュピーゲル:どうして東京を避難させなかったのですか?

:東京が危険になる可能性があることは、すぐに考えました。しかし、首相としてそれを公に話してしまえば、パニックを招くことになったでしょう。それに、そういうことになれば避難計画があることが必要だったでしょう。その代わり私がおこなったのは、避難の範囲を福島第一原発から徐々に広げていったことです。まず3キロから5キロ、そして10キロ、最終的には20キロまで半径を広げました。今知っていることを当時の私が知っていたとしたら、その半径をいっぺんに広範囲に広げていたと思います。しかし、こういうことの決断はとても難しいのです。半径を倍に広げれば、その分多くの人間を安全な場所に避難させなければいけないからです。

シュピーゲル:当時知らなかったことで、現在わかっていることとは何ですか?

:例えば、当時言われていたように、地震があった次の日ではなく、地震があってからわずか2時間半後に炉心溶融が始まっていたことです。すべてがものすこいスピードで進んでいくので、その事態の発展に私たちはあとからもたもたとついていくだけだった。高線量の下で作業しなければならないので、東電は3月12日の午後、格納容器から水素を放出するため、2つのベントを開くことに成功しました。でも、それまでにかなりの水素が出てしまっていたのです。それで原子炉のタービン建屋が爆発してしまいました。

シュピーゲル:原子炉建屋は次から次へと爆発しましたが、そのとき無力感を感じませんでしたか?

:1号機の爆発を、私はなんとテレビで初めて知ったのです。そのときにはすでにもう2時間が経っていました。私は何の情報も渡されていなかったのです、省庁からも、東電からも一切なにも、です。

シュピーゲル:それでも菅さんは3月15日の早朝に車で東電本社まで行き、東電の菅理職たちを一喝したということで、日本のマスコミから非難されましたね。総理大臣としての権限を越える行為だと。

:あの時、東電の社長は経産大臣に「福島第一原発に残っている作業員を撤退させたい」と言っていたのです。私にとってはそれは、日本が滅亡するかという問題だった。だから私は、自分で東電に行って幹部とどうしてもそこに残るようにと説得するよりなかったのです。もし本当に5千万人もの人間を避難させなければならない事態が生じていたら、誰が責任をとったでしょう、東電ですか?

シュピーゲル:日本のような産業大国が原子力発電事故を想定して準備していなかったというのは、ちょっと信じられないのですが。

:私は以前に厚生大臣や財務大臣も勤めましたが、専門家の助言を信頼して受けることが出来ました。しかしフクシマ事故後、原子力安全保安院長に事態を聞いてみても、彼が何を言っているかさっぱり分からない。それで「あなたは原子力の専門家なのですか?」と聞いたのです。すると彼は「いいえ、私の専門は経済です」と答えたのです。官庁の人事ですら、原子力発電の事故は原則としてないものと考えていたのです。

シュピーゲル:菅さんも首相として、始めは原発安全神話を信じていらっしゃったのではないですか?

:フクシマを経験してから、私の考えは180度変わりました。私は日本だけでなくできれば世界中で原子力エネルギーを放棄することを求めています。

シュピーゲル:フクシマではいまだに汚染水が太平洋に流れ込んでいます。同時に、今の安倍総理大臣はフクシマ事故後停止されていた日本の原発をまだ再稼動しようとしています。

:これは私に言わせれば完全に間違っています。原発がどれだけ大きい危険をはらんでいるか知った今となっては、ドイツが決定したように、我々も原発はすべて停止し、別のエネルギー源を開発すべきです。

シュピーゲル:市民の大多数が反対しているにもかかわらず、日本政府はなぜ今も原発に固執しているのでしょうか?

:電力会社、官僚、産業の利権が主な原因です。

菅直人:69歳。2011年3月11日に福祉まで最悪原発事故が起きた答辞に日本の総理大臣だった。太平洋沖で地震が発生した後、福島第一原発で複数の原子炉で炉心溶融が起きた。2011年9月、危機管理を非難されて辞任した。総理大臣就任後、わずか15ヵ月後のことであった。フランクフルトのブックフェアで菅氏は、原子力発電事故を巡る彼の体験をつづった『東電福島原発事故 ─ 総理大臣として考えたこと』のドイツ語訳を紹介する。

2015年10月10日土曜日

安倍話法

「市民の意見30の会」に依頼され、安倍が終戦から70年の今年8月に出したいわゆる「安倍談話」に関し執筆し、10月号に掲載された文章。(ゆう)


安倍話法
梶川ゆう

 戦後70年を記念したやたらに長い安倍話法の談話に関しては、日本でもかなり分析され、批判があった。この談話を「評価する」とか「評価しない」という表現が目立ったが、評価より前に根源的な問題は、この「談話」がいったい何のために出され、誰に向かって出されたかがもとより不明であることだ。「侵略」や「植民地支配」、「お詫び」に「反省」といった言葉があるかないか以前に、総理大臣がなにを意図してどういう内容のメッセージを出すかが問題だ。しかしこののらりくらりの作文は、キーワードは散りばめたか知らないが、自分を主語とする意見表明を一切避けた、掴みどころのない空のおしゃべりになってしまった。それはまず、この談話を発信する対象である「相手」がないからだ。そればかりか「自分」すらそこにいない。

 どこかで見覚えがあると思ったが、文章は文科省認定の歴史の教科書と同じだ。表面的には「過去」の出来事が描写されているようで、そこには主語がない。「飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々」「たくさんの市井の人々が無残にも犠牲になりました」「将来ある若者たちの命が、数知れず失われました」「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」と、あたかもすべて天災などの不可抗力であったかのような言い方だ。飢えや病に苦しませ、殺す原因を作ったのは誰か、たくさんの人々を無残に犠牲にしたのは誰か、若者たちの命を数知れず奪ったのは誰か、女性の名誉と尊厳(この表現もあまりに無責任だが)を傷つけたのは誰か、はここでは一切問われていない。もちろん問いたくないからである。まして「歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです」にいたっては、これが一国の総理が戦後70年という節目に公表する談話の内容だとはとても思えない戯言だ。取り返しがつかないから何も言わないというのが、この国の総理というわけか。

 それでも、世界で初めて原爆を落とされた犠牲国であることに関しての意識は相変わらず高い。今年5月にニューヨークで開催された核不拡散条約再検討会議で日本は、各国の指導者は広島・長崎の被爆地を訪問すべきだという素案を出し、中国の反発を受けてその提案は丸ごと削除された。日本が「被害者」に徹し「加害者」としての意識をさらに捨て去ろうとしているのが認められなかったのは当然だ。

 同じく5月、中国・韓国でかつて日本に強制労働を強いられた被害者の賠償訴訟や慰安婦問題で活躍している日本人弁護士グループがドイツの例を勉強しに訪れ、それに通訳として同行する機会があった。通訳をしたのはドイツの「記憶・責任・未来基金」(以下EVZ)と、ナチスドイツの強制労働者賠償問題に被害者側に立って携わってきたハンブルクの弁護士2人との話し合いだ。「EVZ」は、ナチスによるかつての強制労働者に対する賠償を行う目的で2000年に設立された基金で、基本資金の52億ユーロの半分は国が、残りの半分は経済界が出し、2007年に賠償金支払いを終えている。100カ国に散らばる合計166万人の元強制労働者に合計44億ユーロが払われ、現在は歴史を伝え、人権擁護を訴え、ナチス被害者を支援することを主な活動目的に、教育、若者の理解・交流振興、人権アピールのプロジェクト等を支援したり、奨学金を出したりしている。EVZとはその名が示すとおり、ナチスが行ったあらゆる犯罪、迫害、暴力、強制を記憶し、その規模、実態、状況、結果をはっきりと理解し、今と未来に伝える責任と、同時にその過去を償う責任がドイツにはあるとして、それを行動に示した基金だ。興味深いのは、資金を出した企業には、ナチス時代に強制労働者を雇っていた古い企業だけでなく、戦後できた企業も入っていたことだ。若い会社も「過去の清算を共に負担する」ことでイメージアップを図ったわけである。また強制労働者を雇っていた企業が、その下請け会社にも参加を要求した。実際は、この基金に寄付すればその分税金免除になったため、企業は免税の理由もあって金を出したともいえるし、その分国家が半分以上資金を出したのだともいえる。それでも「過去の清算」をする努力をアピールする意志があり、それを「望ましい態度」として受け入れる社会があったのだ。

 補償を行うにあたり、EVZは調査を丹念に行い、元強制労働者を見つけ出して登録し、強制労働の程度(収容所に入れられた人を最高レベルとして)に応じて賠償金を支払った。しかし期限内に登録できなかった人は、これでもう賠償金を受領する権利がなくなったし、受領した人たちもそれ以上に請求することは不可能になった。その次に私が通訳をしたハンブルクの弁護士2人は、ことにそのことを手厳しく批判していた。つまり、ドイツ国家は「要するにこれだけのことをしたから、もうそれ以上は要求するな」と言えるために、このような方法を選んだのだと。ナチスの負の遺産リストは長く、叩けばいくらでもぼろが出てくるようだ。それでもドイツはまがりなりにも向き合う姿勢を見せ、主語で謝り、「謝る」相手を定義してきている。

 安倍は「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言ったが、安倍が岸の孫であるように、私たちの子や孫は「あの戦争」をしてきた国で生まれ育つ以上、現在に続く関わりを否定することはできない。そこで思い出すのが1998年に小説家マルティン・ヴァルザーがドイツ書籍平和賞を受賞した際、アウシュヴィッツの罪については疑う余地はなくとも、その過去を毎日のように突きつけられては目を背けたくなる、過去の克服が儀式的になり単に道徳的な懲らしめとなっている、記憶の想起、罪の意識、償いは個人的なものであるべきだという主旨を謝辞で述べ、大論争になったことだ。当時のユダヤ人中央評議会議長ブービスはこれを「精神的な放火魔」と糾弾し、いわゆる「ヴァルザー・ブービス論争」に発展した。加害者は「これだけ償いをしたからもういいだろう」という権利はない、ということがこの時盛んに言われたが、謝罪をせざるを得ない宿命を作り出した根本が何なのかを見据えない限り、何も始まらない。謝罪というなら、その罪の内容を把握、分析、理解しなくては謝ることはできない。その罪を誰が誰に与えたのかをはっきりさせない限り、誰が誰に謝ることも、誰が誰を赦すこともできない。しかし発信相手も発信する主語もない安倍の空虚な談話では、お詫びや反省という言葉があろうがなかろうが誰の胸にも入りはしない。彼は主語で何も語っていないし、誰に対しても語りかけていないからだ。このような虚言を敗戦70年の談話として総理大臣がもったいぶって話したのだから、なんとも情けない国である。

2015年9月19日土曜日

なにがなんでもあっては困る ── フクシマの子どもたちの甲状腺ガン

IPPNWアレックス・ローゼン博士による、
福島県の小児対象2巡目甲状腺スクリーニング検査の
結果についてのコメント

今年8月末に福島医科大学が、小児対象の2度目の甲状腺スクリーニング検査の新結果を発表した。またもやたくさんの子どもたちに甲状腺ガンが見つけられたわけだが、これでもまだ国も福島県も「フクシマ事故」との因果関係は認めたくないらしい。IPPNWドイツ支部の小児科医師アレックス・ローゼン博士が、それについてコメントしているので、それを訳した。                     (ゆう)

原文:http://www.fukushima-disaster.de/deutsche-information/super-gau/artikel/c0954b1c87134eef0b3444d988c2d152/da-nicht-sein-kann-was-nicht-sein-da.html 

なにがなんでもあっては困る
  ── フクシマの子どもたちの甲状腺ガン

【2015年9月8日付け】
2015年8月31日に福島医科大学は福島甲状腺ガン検査の最新データを発表した。過去4年間、合計30万人以上の18歳未満の小児・若者たちが調査対象となり、それぞれ異なる時期に2回にわたり、検査を受けた。

いわゆるスクリーニング検査の1巡目では、537人に超音波検査で異常が発見され、穿刺細胞診断が必要となった。病理診断で、この中から113人にガンの疑いがあるとされた。これらの子どもたちのうち99人は転移または腫瘍が危険な大きさまで成長したということで手術を受けなければならなかった。手術後、一人が良性の腫瘍と判明したが、手術を受けたその他の98人では、すべてガンが確認された。

2巡目のスクリーニング検査で、対象の子どもの数が最初のスクリーニング検査の対象より多かったのは、フクシマ事故後に生まれた子どもたちも対象に含まれたからである。

2巡目のスクリーニング検査では、2014年4月から2016月3月まで合計37万8778人の小児を対象に、これまでに16万9445人が検査を受けている。この二度目のスクリーニング検査からはまだ、15万3677人の小児(40.5%)の分しか結果が出ていない。このうち88人は穿刺細胞診断が必要となり、病理診断で合計25人に新しくガンの疑いがもたらされた。このうち6人は転移または腫瘍が危険な大きさまで成長したということで手術を受けなければならなかった。そして全員にガンが確認された。

ということは、これで合計104人の子どもたちに甲状腺ガンが診断されたことになる。その全員が転移またはガン腫瘍が危険な大きさまで成長したことで手術を余儀なくされている。さらに33人の小児において甲状腺ガン発症の疑いがもたれており、手術を受けることになっている。

2巡目のスクリーニング検査では58.4%に結節や嚢胞が発見された。1巡目のスクリーニング検査では、その率は48.5%だった。ということは、最初のスクリーニングで甲状腺異常がまったくみられなかった28,438人の小児に、今回結節や嚢胞が確認されたということである。そのうちの270人の結節や嚢胞はしかもあまりに大きかったため、さらなる検査が必要となったほどである。最初のスクリーニング検査で小さい結節や嚢胞が確認されていたさらに553人の子どもたちにおいては、いちじるしい成長が見られたため、さらに踏み入った診断をしなれければならなくなったほどである。甲状腺ガンが確認された症例の6人は、初回のスクリーニング検査と2巡目のスクリーニング検査の間にガンが発生している。

初回と2巡目のスクリーニング検査の間に言われているとおり二年が経過しているとすれば、一年間の発生率は10万人の小児に対し年間2人ということになる。日本の小児甲状腺がんの発生率は、フクシマ炉心溶融事故以前は10万人の小児に対し年間0.3人だった。この増加はもはや「スクリーニング効果」では説明できるものではない。さらに、被ばくした福島県の子どもたち6万7千人が検査対象に入っていないこと、そして20万9千人以上の子どもたちがまだ2度目のスクリーニング検査の順番を待っている状態であることを忘れてはならない。これにより、甲状腺ガン症例の数がこれから数ヶ月のうちにまだ増加するであることを憂慮する根拠が十分あるということだ。ガンには潜伏期間があるため、放射能被ばくによる影響が最も顕著に現れるのは、今後数年の間だと予測される。

福島医科大学が甲状腺検査の新しい数字を公表したその日、福島県の行政はこの警戒すべきデータに反応を示した。予測以上に高い数字で小児甲状腺ガン発症が検出されたことが、福島第一原発の複数の炉心溶融により放射性ヨウ素が放出されたことと関係があるかどうかを調査するよう、ある研究チームに要請したのである。この調査の結果はしかし、始める前からすでに決まっていたようである。「福島県で発生している甲状腺ガン症例が原発事故が原因であるとは考えられない」というものだ。このような発言を研究が始まる前にすでに行なってしまうのは、検査の重大さそのものを疑うことにもつながり、驚きを隠せない。

こうして、福島県も日本政府と同じように、国内の原子力産業と実に癒着構造にあり、いわゆる「原子力ムラ」の影響は今も巨大であるということが確認されるだけだ。「原子力ムラ」とは日本では、原子力経済、原発推進派の政治家、金で言いなりになっているメディア、腐敗しきった原子力規制当局等から成り立っている集合体を指し、これらが日本国内の原子力産業を存続すべく推進している。これでは、放射線被ばくによる甲状腺ガン発生に関する、信頼できるまじめな検査を福島県が行なうとは考えられず、今年中には発表されるという結果も、前もって彼らが行った明言と同様であろう。すなわち、「甲状腺ガン発症例が著しく増加したことと、2011年3月に起きた何重もの最悪規模の事故にはなんの因果関係もみあたらない」というものに違いない。それは、なにがなんでもあっては困るからだ。

アレックス・ローゼン医学博士
ドイツIPPNW

2015年8月15日土曜日

原子力 ── 最後の生き残り

ツァイト紙2016年8月11日付け
川内原発再稼動に関連した記事

2015年8月11日、川内原発一号機が再稼動した。これについては、書くのも不愉快なのでこれ以上コメントしないが、これはドイツでも話題になり、どの新聞・ニュースでも報道された。
ARTEのニュースはこちら:https://youtu.be/Bpm6BLRTlsU
どの報道にも出てくるのが「日本の市民の大半は反対しているのにもかかわらず」ということと、安倍政権が市民の言うことなどに耳を貸していない、ということだ。この記事では、さらにアメリカの原子力ロビーからの圧力があったことがはっきり書かれているので、訳した。まあ、新しいことではないけど。        (ゆう)

本文はこちら:

原子力 ── 最後の生き残り

KERNENERGIE
Die Letzten ihrer Art

世界の中でも、アメリカは日本の原子力技術に依存している。だからこそ、脱原発をしないようにという日本政府へのアメリカからの圧力も大きかったのだ。

Marlies Uken報告
世界中の原子力産業の心臓部は、日本の北海道の南部、人口約10万人のあまり有名とはいえない工業都市室蘭にある。世界のどこでも作られないものがここで製造されている。室蘭にある日本製鋼所は1万4千トンのプレスで、原子力産業の鍵となるコンポーネントの、いわゆる圧力容器を鍛練しているのだ。圧力容器は溶接による継ぎ目なしに一体成形で製造される。

この巨大な鋼鉄でできた容器は非常に重宝されている。たとえばフランスのアレヴァ社のEPR原子炉などの第三世代の原子炉は、この室蘭で作られるモンスター容器が必要だ。溶接の継ぎ目がないということは、それだけ安全性が高いことを示す。そのためにこの鋼鉄の巨大な塊を買おうとする客は、何ヶ月という納期遅延も我慢して受け入れるのだ。

原発を建設しようとすれば、日本と取引せざるを得ない。日本の大企業、日立、東芝、三菱重工などは原子力発電の重要な原子力関連メーカーだ。同時に、これらの企業はアメリカの企業と密接に結びついている。日本の東芝グループは2006年に米企業ウェスティングハウスを54億米ドルで買収した。日立はまた、何年も前から米国のシーメンスといえる、ジェネラルエレクトリック社と提携している。

新原発の建設はすごく高価で手間がかかるため、世界で四つの企業しかこのセクターでは活動していない。フランスのアレヴァ社、ウェスティングハウス/東芝、ロシアのロスアトム、そして中国核工業集団公司がそうである。ドイツのシーメンスグループは2011年の3月にフクシマで原発事故が起きてから、原発新建設事業から撤退した。とはいっても、ミュンヘンに本社を持つシーメンスは今でも従来の原発で使用される蒸気タービンなどに必要な部品はまだ製造している。

しかし、このビジネスは世界中で後退しつつある。あらゆる国が原発の部品を調達するのが困難だったり、納期が遅れたりして奮闘している。フクシマ原発事故で投資者は弱気になり、再生可能エネルギーのブームで電気市場は、かなり混乱状態だ。世界中で投資者も、政権も、市民も原発建設には乗り気でない。フランスのアレヴァグループの株価は、ここ数年来低迷状態だ。格付け機関であるStandars &Poor’s に及んでは、同社の株をハイリスク資産とすら評価している。

フクシマ事故の起きる前の年の2010年、世界各地ではまだ15基の原発建設が始まっていた。原発業界に批判的なWorld Nuclear Reports(世界の原子力産業現状報告)の発表によると、去年はそれがたったの3基だったそうである。新建設はそれに、これまで以上に国による補助が必要になった。最近の例では、イギリスのヒンクリーポイントCがそうだ。フランスの電気会社EdFは何年もキロワット時単位の電気料金を高く設定して法的に保証させてきた。現在、競合電気会社が欧州裁判所で競争法に反するとして訴えている。

原子力ルネッサンスは起こりそうにない。原子力エキスパートのマイケル・シュナイダー氏がハインリッヒ・ボル財団の支援で年に一度発表しているWorld Nuclear Report(世界の原子力産業現状報告)では、現在世界で建設中の第三世代の原発として18基をリストアップしている。その中でもトップを切っているのが日本である。ウェスティングハウス/東芝の原子炉モデルAP100 は、その内8基で建造中で、その後続くのが、あまり驚くことではないが、アメリカが占める3基だ。

日本のノウハウに依存
それだけに、日本が原発から撤退するのではないかとのアメリカの懸念は大きかった。アメリカは日本のノウハウに依存しているからだ。というのも、世界中でアメリカほどたくさんの原発が稼動している国はない。現在のところ99基が稼働中だ。それに応じて米国の原子力ロビーの力は大きい。シュナイダー氏の言うことを信じるとすれば、アメリカのリーダー格にある政治家たちが福島原発事故直後に、日本が原発を固持するよう圧力をかけたというのは公然の秘密らしい。日本政府が原発の未来を信じないで、どうやって東芝・ウェスティングハウスのような日本企業が信憑性高く製品を販売すればいいのだ? 「脱原発するという合図が日本から出されたときは、アメリカの原子力産業からそれこそカタストロフィと見られたのです」とシュナイダー氏は語る。

そしてその通りに、首相安倍晋三率いる保守政権は180度の方向転換を行なった。この火曜日にほぼ4年の中止期間を経て、日本の原発が初めてまた再稼動されたのである。原子力ロビーは胸をなでおろしたことになる。日本の原子力産業は国際的にこのセクターで欠かせない担い手なのだ。「この第1号が再稼動したことを、世界の原子力産業が声を合わせて歓迎する」と世界原子力協会の会長Agneta Rising氏が火曜日にコメントを出している。

シュナイダー氏の言うことを信じるとすれば、この喜びはでもつかの間かもしれない。というのは、原子力分野でまだ未来がある部門があるとすれば、それは原発廃炉ビジネスだ、と彼は言う。世界各地にある原発はどれも老巧化し、これを現在の安全基準に適合するように再装備する価値があるだけのケースはごくわずかしかない、と彼は語っている。

2015年5月18日月曜日

ダイヴェストのすすめ

どうやったら気候温暖化を本当に止めることができるのか? 新しく各地で始まったダイヴェストメント(Investment、投資の逆、すなわち投資した資本を撤回すること)運動は資本家に石炭・石油・ガス企業から資本を撤退することを訴え、成功している例がいくつもあるという。世界各地で2月13日と14日にグローバル・ダイヴェストメント・デーとしてあらゆるアクションが行なわれたそうだ。私の住むベルリンでもアクティビストがいろいろ活躍していることを知った。彼らがベルリン市に提出した公開状Fossil Free Berlinには、私が好きなHarald Welzer氏もサインをしていた。
最新のツァイト紙の「経済」欄に大きくこの行動についての報告が載ったので、それを訳した。(ゆう)

Holt das Geld da raus!

Die Zeit vom 13.05.2015

記事はまだオンラインで読めないがこちらを参考:https://fossilfreeberlin.wordpress.com/2015/05/13/fossil-free-in-der-zeit-vom-13-mai/

報告:フェリックス・ロアベック(Felix Rohrbeck)

金を取り上げろ!

マティアス・フォン・ゲミンゲンがベルリンの市庁舎で必要としたのは、三人の偵察隊だ。23時47分に偵察メンバー第1号から携帯に連絡が入る。「今こっちに来た」。来たというのは市庁舎を警護している制服を来た警察官たちで、彼らは自分たちが巡回の間監視されていることを知らない。

39歳のフォン・ゲミンゲンは残りのチームと市庁舎の後ろで待機する。警察官たちが彼のそばに来るまで、残るは10分あまりだ。60キロもある赤いホンダの発電機のエンジンがかかる。この発電機につながっているのは、車のトランクルームに隠してある巨大なプロジェクターだ。

マティアス・フォン・ゲミンゲンが合図をする。「行くぞ!」

グループの一人がプロジェクターのスイッチを入れる。瞬く間に市庁舎の正面に大きく、白い文字が照らし出される。「Divest!」と書いてある。「渡した金を取り上げろ」とでもいえばいいか。

グループのカメラマンがシャッターをパチ・パチ、パチと何度か切る。それから次の文字だ。「石炭、石油、ガスから撤退しろ」。またパチ、パチとシャッターの音。ぐずぐずしている暇はない。警官たちがすぐそばまで来ている。ゆっくり映写された文字を見ている暇はない。

しかし次の日、ここで撮った写真が世界を駆け巡る。運動家たちはこれらの写真をフェースブックやその他のソーシャルメディアで拡散する。彼らには世界中にヘルパーがいる。ベルリンの小さいグループの背後には、グローバルな、大きく成長しつつある運動が潜んでいるのだ。

イギリス、フランス、ルクセンブルク、米国、カナダ、フィリピン、ニュージーランドと、各地でこのベルリンのようなアクションが行なわれている。企業、大学、市、年金基金、保険会社、教会などに送られるメッセージは常に同じだ。「石炭、石油、ガスから撤退しろ!」

具体的に言えば、こうだ。このメッセージを受け取った団体は、最大級の化石燃料のたくわえをもっている、株式市場に上場されている企業200社に投資をするな、というのである。Gazpromもここにリストアップされているし、同じくExxon、BP、Statoil、PetroChina、Coal India、RWE、BASFがそうだ。これらの企業の株や公債を持っているものは、それを売り払うべきだというのである。

活動家たちは石油、ガスや石炭を使って商売をしている企業を、この方法で金銭的に「干上がらせよう」としているのだ。これらの企業も投資家が見つからなくなれば、化石エネルギー源は地中に埋もれたままで燃やされることはない、というのが彼らの計算だ。地球温暖化をもたらすビジネスはもう利益を上げないようになるべきなのだ。

2012年以来、これを支持する投資家の数が増えている。自ら確信して進んで始めた人もいれば、ベルリンの運動家たちがやっているように運動家の圧力に負けて、考え直したという人たちもいる。

アメリカではサンフランシスコやシアトルなどの市がダイヴェストメントすることを公言した。オーストラリアのブリスベン、イギリスのオックスフォード、スウェーデンのエレブルーもそうだ。70以上の教会系団体も、スカンディナヴィアの年金基金、カレッジや大学もそこに並んでおり、ことに大学では名声の高いスタンフォード大学がダイヴェストメントを公言している。創立者がかつてその石油帝国をもって巨大な財産をつくりあげたロックフェラー・ブラザーズ基金ですら、ダイヴェストメントを自らに義務付けている。ほとんど毎日、新しい団体がそのリストに名を連ねる。Amundiのような大きな資産管理会社ですら、ダイヴェストメント運動の条件にはまるような投資のプログラムを用意しているのだ。

本当にそんなことがありだろうか? ほぼ二十年来、あらゆる国や政府の代表者たちがサミットで世界の二酸化炭素排出量を減らし、将来の温度上昇を二度に制限しようとしながら大した成功をあげていない。そこに大して金も専門的構造もないわずかな活動家たちが現れて、それをやってのけるというのだろうか?

ベルリン市庁舎でのアクションの1時間半前、フォン・ゲミンゲンはアレキサンダー広場にある壁に腰掛けて、グループと待ち合わせしていた。彼は灰色のキャップを被り、フード付きのトレーナーを着込み、茶色のメガネをかけている、無精ひげを生やした若々しいタイプの男性だ。彼は仕事では、インターネットでの食料品オーダーを専門とするベルリンのスタートアップ会社のマーケティングをしている。彼は自分のことを、市民運動家としては「別世界から入り込んだ新参者」と称している。彼はこれまでの15年間、熱心に仕事をし、バンドでサクソフォンを弾き、結婚し、リュックサックを背負ってメキシコ、ブラジル、南アフリカなどに旅行していたという。政治的にはしかし、全く運動などしたことがなかった。せいぜい、オンラインの請願書に署名したくらいだった。

ところが、サンパウロに住むフォン・ゲミンゲンの友人たちが急に水がなくて困っている話を聞いた。南アフリカで彼がキャンプファイヤーをして楽しんだ砂浜がもうじきなくなりそうだ、というニュースが入った。気候変動はそれからというもの、彼にとって抽象的な危険ではなくなってしまったのだ。彼がそれまで知っていた世界がすでに変わり始めているのである。フォン・ゲミンゲンはこれに対抗してなにかをしたいと思った。ただ請願書にデジタル署名をする以上のことがしたいと。

フォン・ゲミンゲンはダイヴェストメント運動のことをインターネットで知った。彼は勇気を出して、ベルリンでの最初の集会を組織した。「ここでは本当になにかができる」と彼は言う。「署名を集める紙をボードに挟んで、何年も歩行者天国をうろうろする必要はない」と。政治的にもっと大きなテーマに取り組んでいる古典的な市民運動より、この運動のテンポはずっと早い、と彼は言う。世界のどこかで常に小さな勝利を勝ち取っている、と。フォン・ゲミンゲンの解釈はこうだ。「お金は回転が速いので、疑いがあればそれを撤退させるのは簡単だ。」

議会外でグループが集会に集会を重ね、ビラを配って議論をしている間、ダイヴェストメント運動は敵の資本論的ロジックを都合よく利用し、それをさらに倫理的プレッシャーに結び付けている。例えばダイヴェストメント運動家たちはハーバード、オックスフォードやメルボルン大学の運営管理部にこう質問するのである。「教授たちが講義室で気候変動に関する厳しい内容の講義を行っているというのに、その大学が同時に気候変動で金儲けをしているというのは分裂症的ではないのか?」大きな大学では何百億ドルという資産がああって、それをファンドを通したり直接株を買ったりして石炭生産者の企業に投資しているところが多いのだ。国の政府も、聞かれたくない質問攻めにあっている。なぜ、地球を救済する会議を催しておいて、同時に年金生活者のためのお金を石炭、石油、ガスで増やそうとするのだ? ヨーロッパの年金基金だけで、欧州緑の党の調査によれば、2600億ユーロが石炭、石油、ガスに投資されているという。慈善事業と謳う基金や財団などですら、怪しいものだ。慈善事業をするといいながら、どうして汚いエネルギーに資金を投資して増やそうとするんだ? というわけである。今攻撃の的となっているのは例えば、ビル&メリンダ・ゲイツ財団だ。

倫理的な圧力をかけるのに、運動家たちは経済的な論拠を用意している。ダイヴェストメント運動が要求していることは、投資家の利益にもつながると証明しようとしているわけだ。

アメリカの作家ビル・マッキベンが2012年に初めて、こうした論拠をローリングストーン誌で大衆向けに発表した。本当は、彼はただロンドンのNGOカーボン・トラッカー・イニシアチブの無味乾燥な数字を分析評価しただけだったのだが、ソーシャルネットワークでこれが飛び火のように拡散された。ローリングストーン誌の編集者がマッキベンに電話をし、こんなことは今まで経験したことがない、と言ったそうだ。なんと雑誌の出た二ヵ月後にはこの記事は11万2千件のフェイスブックの「いいね!」を記録し、1万2千件以上ツイッターで言及され、5千件以上の読者コメントがあったというのだ。

この記事の計算は、こうだ。もし気温上昇を二度に抑える目標をおざなりにもある程度守ろうとすれば、人類は2050年までに565ギガトンの二酸化炭素しか大気中に排出してはいけないことになる。それで終わりにならなければならないのだ。今日地中に眠っている石炭やオイル、ガスのリザーブはしかし、燃やせばその5倍以上を大気に排出することになってしまう。と言うことは、このリザーブのほとんどは企業がすでに確保しているが、これらは決して燃やされることがあってはならないと言うことになる。でなければ気候が過熱するからだ。

マッキベンの説が正しければ、これは投資家にとって恐ろしいニュースとなるはずである。将来、政治が本気でこの気温上昇を二度に抑えることになって、たくわえのほとんどを燃やすことができなくなれば、それらは無価値のもの、ということになるからだ。私欲からだけ考えても、化石エネルギーへの投資からお金を撤退するのが投資家にとってはベストだ、と彼は主張した。この論理で行けば、化石エネルギー原料で金儲けをしている企業への投下資本は今日、予想しているよりずっと価値が低いことになる。こういうのをバブル、と呼ぶのだ。

この説はエコロジー運動家の空想の産物ではない。金融界でもいわゆる「カーボン・バブル」を真剣に受け止め始めている。石油会社は彼らの株価の60%を失う可能性がある、とイギリスの最大銀行HSBCが2013年の調査で警告している。保険会社のマネージャーたちも懸念している。英国銀行の総裁は先日、政治が機構保護措置を厳しくした場合には、化石エネルギーへの投資が「多大なる打撃」をこうむることになる可能性がある、と警告したばかりだ。機関投資家専門の大手証券ブローカーであるケプラー・シュブルーのリサーチチームは、エネルギー業界の損失は28兆ドルになると予測している。カーボン・バブルがはじければ、2007年の金融危機でバブルがはじけたときと同じくらい大変なものになる可能性があるのだ。

マッキベンは金融業界の論拠をエコロジー運動の世界にもたらしたのである。この記事を発表してからすぐ、彼は作家から気候運動家にすっかり成り変わり、ダイヴェストメント運動を始めて、今日でもその運動を代表する顔となっている。2014年の12月には彼は、それでもう一つのノーベル賞を受賞している。

その2年前の2012年11月、マッキベンは彼が作った小さな組織350.orgを率いてアメリカで初めてのダイヴェストメント・ツアーを開始し、全国のあらゆる集会ホールを埋め尽くした。ここに、当時学生として350.orgで研修をしていたティネ・ラングカンプ(Tine Langkamp) がいたわけだが、彼女が現在ドイツで唯一の専任の運動家だ。マッキベンの「公演」は2012年にはすでにただの啓蒙運動ではなくなっていて、太鼓を叩くものあり、DJあり、反グローバリゼーション運動家のナオミ・クラインなどのビデオ中継が入るような大イベントとなっていた。そしてマッキベンがビールを片手に舞台にのっそり登場すると、こう説明するのだ。二酸化炭素というのはアルコールのようなものだ。「ちょっとならいい。しかし両方とも限度というものがある」。

それからカーボン・バブルの数字を見せる。そして集会に来ていた人たちは誰でも納得するのだ。これではどこかおかしい、と。

集会が終わると、聴衆の多くが質問状を出し始める。自分が在籍する大学へ、自分が住む町へ、自分が所属する教会へ。彼らの質問はこうだ。化石エネルギーのビジネスにお金を投資しているか? もしそうなら、額はどれくらいだ? それからその金を撤退するようにという要求が続く。今ではアメリカでは500以上のこのようなキャンペーンがある。それに応じない者は、この運動の圧力を感じることになるわけだ。

イェール大学では例えば、大学の学長の事務所を学生たちが占領し、学長が将来大学の基金の240億ドルの内1ドルたりとも汚いエネルギーに投資しないことを要求している。4月にはデンマークでは、年金基金の6つがその株主総会でダイヴェストメント提議を審議しなければならなくなっている。ロンドンでは著名なガーディアン誌がジャーナリストの「一定間隔を置く」原則を破って、ビル&メリンダ・ゲイツ財団とイギリスのウェルカム・トラストに対する請願書で、化石エネルギー関係の投下資本から資金を撤退させることを求めている。この請願書にはすでに20万人以上の人が署名をしている。

それではドイツではどうだろう?

アメリカのマッキベンのもとでの研修を終えてドイツに帰ったラングカンプは、ミュンスター大学でキャンペーンを始めた。彼女は大学管理本部に書状を送り、化石燃料へ投資している資本があれば、そこから資金を撤退するよう求めた。当大学が管理する基金には、大手のエネルギー企業の株を持っているファンドに資金を入れているところがあるのだ。

しかし書状が何の効果ももたらさないので、2014年7月に行なわれた大学祭に、白黒の衣装を着たウェイトレスが登場することになる。このウエイトレスたちは唖然としている客に向かって「石油ドリンクはいかが?」と聞いて回ったのだ。シャンペングラスに入れられた液体は黒くてねばねばしているものだった。

それから運動家たちが大学長ウルスラ・ネレスの演説を中断し、白いポスターを舞台の上で広げて見せた。そこには赤い文字でこう書いてあった。「石炭、石油、ガスから撤退しろ!」ネレスは腕を組んで、グループに話をさせたが、要求内容に耳を貸すつもりはなかった。「あなた方のメールはもうスパムファイルに入るようになっています」と彼女は舞台の上で何百もの客の前で言い放った。そして大学際が終わる頃、誰もいないところでこう言った。「あんなごろつきに指図は受けない」。

ラングカンプにとってはしかし、このアクションは考え抜いたコンセプトの4つの段階のうちの、第一ステップに過ぎない。まず、ミュンスター大学のような小さな組織にダイヴェストするよう運動する。そこで問題となる資金の額は小さいが、これでマスコミが注目するようになるはずだ。二番目のステップでは、スウェーデン国教会やスタンフォード大学といった大きな組織や団体に賛同してもらい、この運動が広く認められるようになって大きく躍進する。そして三つ目の段階では、本当に大きな額が対象となる、銀行、保険会社やファンドに圧力をかける。そして最終的に四段階目で政治が切羽詰って賛同せざるを得ない状況に追い込まれる、というものだ。

しかし、ミュンスター大学の学長が賛同せず、第一段階目でもめていたらどうすればいいのだろう?

ミュンスターのグループはそれで、市に訴えた。そして市議会は本当に、市の公務員の年金のお金を石炭・石油・フラッキング産業の会社には投資しないことを決定したのである。これがドイツでの一番最初の小さな勝利だった。

2014年10月に、ラインハルト・ビューティコーファーの事務所がラングカンプに電話をしてきた。欧州緑の党の代表が彼女の運動について詳しく知りたいと言ってきたのだ。彼らはベルリンで食事を一緒にした。ラングカンプは最初は確信できないでいたが、それから得心した。「彼は本当に運動の一部になるつもりだ」と彼女は言う。

半年後の2015年4月、ミュンヘンのメッセ会場のホールを3000人以上の人が埋め尽くした。ミュンヘン・リュック保険会社の株主総会だ。ミュンヘン・リュック保険会社は、2730億ユーロの総合収支を計上する世界で最大級の再保険会社だ。株主総会の株主の中にビューティコーファーの顔もあった。批判的な株主には議決権を彼に委任している人もかなりいたので、彼は話す権利があった。ビューティコーファーはそれでマイクに向かった。「カーボン・メジャーへの投下資本に何百億ユーロの資金を再保険しているのか?」と彼は舞台の上の役員会に質問した。そして「化石エネルギーへの投資から段階的に撤退するつもりがあるか?」

役員会代表のニコラウス・フォン・ボムハルトは言葉を濁した。当社は2500億ユーロに相当する投下資本を持っているが、「そのうちどちらかといえば化石エネルギー分野に投資されているものはわずかだ」と言うのだ。ビューティコーファーはこのような曖昧な答えでは納得できず、質問を白い紙に書いて、書面で質問を提出した。数日後に届いた回答には、こう書いてあった。オイルとガス業界への投下資本は、当社の投下資本の1.2%にあたる。当社では、カーボン・ダイヴェストメントイニシアチブの目標を資本投資の上でも考慮すべきか検討するが、今のところ具体的なダイヴェストメントを行なう計画はない」。

ビューティコーファーは引き下がるつもりはない。「ダイヴェストメントほど気候保護に活力をもたらす運動は今のところ他にない」と彼は言う。自然科学的な論拠はすでに人が知るところである。「しかし、エコロジストたちが金融戦略的論拠を持ち出してくるとは、誰も全然予想していなかったことですからね」と。ビューティコーファーは欧州中央銀行の総裁マリオ・ドラギにも書状をしたためたほどだ。彼はそれで、カーボン・バブルについて科学的諮問委員会に調査させることにした。

権力者が行動に移すのだけを待っているつもりのない人はたくさんいる。ミュンスターからドイツ全体にラングカンプの与えた刺激は波及したのだ。いまや17の都市に自治的グループのネットワークが出来上がった。

ベルリンでも同じである。マティアス・フォン・ゲミンゲンは、同志と共にベルリンの市長宛に書状を書き送った。ドイツの首都には「約10億ユーロの投資可能な金融資産がある」。「経済的リスクと地球体系(Earth system)に対する破滅的な結果」を考慮し、ミュラー市長は化石燃料への投下資本から資金を撤退すべきだという内容である。市長からまだ回答はない。しかし、真夜中の12時ちょっと前、巡回の警察官たちがもうほんのそばまでやってきているとき、フォン・ゲミンゲンたちはもう一度督促状を送った。市庁舎の赤いレンガの上に照らし出された最後のメッセージには、こう書かれてあった。「ミュラーさん、早く!」

2015年5月12日火曜日

ドリス・ドリー監督がフクシマの立ち入り禁止地区で映画撮影


ドイツ人映画監督ドリス・ドリー(Doris Dörrie)が今、南相馬の仮設住宅地で映画を撮っているという記事を南ドイツ新聞で読んだ。私は彼女が2008年につくった「花見」という映画が大好きで、しかもそこに登場する舞踏家の女の子の名前が「ゆう」であることや、私のふるさと井の頭公園がでてくることで、「これは私のふるさと映画」と勝手に決めているのだが、そのドリス・ドリーがフクシマの映画を作っているというので、見るのが楽しみだ。(ゆう)


南ドイツ新聞2015年5月9日付
ドリス・ドリー監督がフクシマの立ち入り禁止地区で映画撮影

本文はこちら:http://www.sueddeutsche.de/kultur/doris-doerrie-film-strahlung-im-hintergrund-1.2470988


放射能を背景に映画撮影

ドリー監督がカメラを回す。今回のストーリーは福島の立ち入り禁止地区での物語りで、避難者たちがテーマだ。セットを訪ねてみた。

Christoph Neidhart報告

背が高く金髪な美人。別世界から来た若い女性が南相馬の仮設住宅地の近所でフラフープを腰で回している。上下に体を揺らしながら、指が春の空高くくるくると回る。この若いドイツ人を演じているロザリー・トーマスが、日焼けした二十数人の女性にプラスチックの輪でフラフープの回し方を教えているのだ。「それじゃ今度は、もっと勢いよく!」
マリーの背は、生徒の女性たちよりずっと高い。そしてその生徒たちと言えばきっとマリーのおばあさんくらいの歳だろう。背の低いおばちゃんたち、「おばちゃん」というのは日本語で、もう若くない女性に親しみを込めて呼ぶ言い方だ。ドイツ語と英語をごちゃ混ぜにして、マリーはフラフープの回し方を教える。この非常用仮設住宅に住み始めてじき四年になろうとしているこのおばちゃんたちは、一生懸命だ。プレハブでの日常に訪れた気晴らしに喜んでいる。でも、彼女たちに才能はないようだ。マリーはため息をつきながら日本語でお礼をいい、今日はもう終わり、と告げる。色とりどりの輪を集めながら、サトミとけんかになる。サトミというのは、やはりこの仮設住宅に避難してきている、この土地最後の芸者だ。

サトミを演じるのは63歳の桃井かおりだ。彼女は日本では有名な俳優で、フラフープはしなかったが、隠れて皆が練習するのを見ている。実は彼女は4本も同時に回すことができるので、マリーに馬鹿にするように演じて見せる。それから面と向かって「Bullshit」とののしるのだ。もうたくさんだ、というのである。

映画監督のドリス・ドリーはもう先週からこの仮設住宅地で新映画「Grüße aus Fukushima フクシマからの便り」の撮影を続けている。ここにいるおばちゃんたちは俳優でもなければ担ぎ出されたエキストラでもなく、本当にこの約170もの灰色のプレハブ住宅に住んでいる避難民たちだ。地震と津波で車で半時間位南に行ったところにある故郷の村小高は壊滅されてしまった。さらに、この村は警戒区域に指定されて立ち入り禁止になっている。

これまでの作品と同じように、ドリス・ドリーと数人の撮影チームは、実際の撮影舞台で日常が変わらずにそのまま続けられるように話を展開している。ドリス・ドリーのストーリーの背後でも話が一人歩きをする。それで俳優たちもカメラのハノ・レンツを含むクルーも皆、アドリブで対応することを余儀なくされる。皆が驚くことも稀ではない。「でも小さいチームだから、私たちはとてもフレキシブルよ」とドリーは言う。彼女は、自分はアメリカ人がやるようには撮影できない、と語る。ロザリー・トーマスは、それが私には合っているの、と答える。「私はここにいる人たちの顔を見て、調子を合わせ、あまり演技をしようとしなければいいの」と。

「Grüße aus Fukushima」ではこれまでのドリーの映画と違って、撮影する舞台とそこの住民たちの運命が話の前面に置かれている。12万5千人の人がいまだに原発事故からの避難者として仮設避難住宅で暮らしている。彼らは世界から忘れ去れている。東京では「まるで原発事故などなかったように」政府が動いている、とドリーは言う。警戒地区の一部は立ち入り禁止が解除になり、政府が住民たちをそこに戻そうとしているという。しかし、そこに戻った者は、住居がどんなに被害を受けていても、買い物をする店などの周囲のインフラ整備がまだなくても、国からの援助を失うことになる。だからこの仮設住宅からでられなくなっている人がほとんどなのだ。ここでの生活に皆がもうずいぶん慣れてきてしまっている。お年寄りの中には、もうこのプレハブ住宅を離れたくないと言っている人もいる。もう二度と、慣れた生活から引き離されるのはいやだというのだ。日本人の中でまだ誰もここで映画を撮ろうとした人がいないのが不思議で仕方がない、とドリーは語る。
避難所での生活が耐え切れずにすさんでいく人もいる。ことに年取った男性がそうだ。鬱病になり、自殺をする人もあり、酒に溺れたり、パチンコに通い詰めになったりする。それに引き換え女性は、踊りや編み物のグループを始めたり、なにか催し物を企画したりして持ちこたえようと努力する。

「災害のあった後で医療設備が整い、きれいな水が与えられ、世話を受けて仮設でも眠れる場所が出来たら、その次に必要なのは魂の救済です」と語るのはピエロのモシェ・コーエンだ。「そこから私たちの出番です」。「国境なきピエロ団」の創立メンバーの一人である彼がドリーの映画でピエロとしてこの仮設住宅村に登場する。「このごろでは救援組織からお呼びがかかることすらあります」。津波のあった年の夏、コーエンは北日本を何ヶ月も避難所から避難所と巡回した。ドリーの映画ではミュンヘンに住むミュージシャンのカマタナミさんと共演している。苦しみをくぐりぬけてきた家族一家が一緒に笑っているのを見るのが一番うれしい、とコーエンは語る。マリーもフラフープの授業で避難住民たちの気持ちをほぐそうとしている。

おばちゃんたちは喜んでいる。ドリス・ドリーは皆をじっと見守りながらもほとんど指示は与えず、かえっておばちゃんたちを元気づけようとしているようだ。彼女が演出しているのは仮設住宅での娯楽だけではない。映画の撮影事態が、ここでは大きな気晴らしだ。そういうものをこの仮設住宅村の住民たちは必要としている。彼らの多くは失業している。おばちゃんたちがことに感激しているのは、俳優の桃井かおりだ。おばちゃんたちはテレビで彼女を見ながら歳をとってきたと言っていい。その彼女が、数週間ずっと一緒にいてくれるのだ。しかし、おばちゃんたちはドリーがあるシーンを何度も何度も繰り返し、一つが終わると今度は別の角度から、と飽きずに何度もやるので面倒くさくなってきたようだ。いやいやしか協力しようとしなかったり、急に水がほしいと取りに行ったりする。フラフープなどとっくに出来るのに、それをなぜ映画で出来ないふりをしなきゃいけないのか、理解できないのだ。

映画では、マリーも避難民だ。失恋をした彼女は心の痛手にバイエルンからフクシマに逃げ、そこで本当に苦しんでいる人たちを助けようと決心する。自分の苦しみを相対化しようというわけだ。「でもたくさんの人がそうであるように、彼女も理論的にしか、つまりテレビなどでしか、自分が一体どんなことに足を踏み入れようとしているのかわかっていなかった。仮設住宅に行ってみたら、彼女はまったくお手上げだったのです」とドリス・ドリーが説明する。こうしたお手上げの状態は、撮影のクルーも半分味わったのです、と彼女は打ち明けてくれた。2011年3月の事故前は南相馬は、時間が止まってしまったような村落が散在する片田舎に過ぎなかった。この村の南部は、三つの原子炉がメルトスルーした福島第一から遠くない立ち入り禁止地区以内にあり、避難を余儀なくされた。避難命令が出なかった部分でもたくさんの住民が避難した。ことに子供のいる家族だ。南相馬はゴーストタウンになってしまったのだ。

ライフラインであるインフラストラクチャーはそれ以来また機能するようになり、緑の芝生にはまた新しいショッピングセンターが出来た。しかし、社会生活を実際に動かしていた細かく複雑なネットワークは、そう簡単に再生できるものではない。ドリーと撮影チームは道路の脇に急遽建てられた格安ホテルに寝泊りしている。食堂などは一切なく、あるのは飲み物の自動販売機だけだ。これでも、泊まる場所がみつかっただけ幸運だった方である。こうしたホテルに寝泊りするブルドーザーの運転手や土木作業員などはここでまだ何年も必要とされることだろう。

「Grüße aus Fukushima」が通常の映画撮影と違うことは、ここに来る途中ですでに明瞭だ。高速道路の脇にも表示板が立てられていて事故を起こした原発後部の放射線量を示している。この午前は0.2 ~ 5.6マイクロシーベルトだ。ドリーはドイツにいる専門家と、リスクについて十分検討したという。「どんな映画であろうと、健康を損なう危険を冒してまで作る価値はないから」。

この水曜日に撮影した別のシーンでは、欲求不満になっている元芸者のさとみがマリーの部屋のドアをノックしてきて、運転できるの、と聞いてくる。さとみは立ち入り禁止区域にある、自分の壊れた家を訪ねたいのだ。そして行ってみると、今度は仮設住宅には戻りたくない、という。こうして二人の女性が少しずつ近づきあう。そしてついにはさとみがマリーに、一緒に自分の家を修理するよう頼むまでの仲になるのだ。ここで二人は互いに多くのことを学ぶことになる、いわゆる「感情教育」だ、ことに自分に対して常に厳しかったさとみにとっては...「日本の映画にはよく師と弟子の話があるのですが」とドリーが言う。でも先生や師とその弟子はいつでも男だ、しかし私は女性を見せたかった、と彼女は続ける。ことに硬直化した男性優位の日本社会で実際に力を出しているのは、いつも女性なのだから、と。

「Grüße aus Fukushima」はドリーの「日本」映画三作目だ。1999年の「Erleuchtung garantiert」では二人のドイツ人が日本に行き禅寺で修行をしようと決心するのに、東京でその意思がどんどん砕かれていってしまう様子を描いた。外国人が日本に行ったときの困惑、どうしていいかわからない様をこんなにうまく描けるのは彼女だけだろう。そしてその外人たちもいつかまた、自分を取り戻していくのだ。2008年の「花見」では妻を亡くしたばかりのショーンガウ出身の公務員が、富士山のふもとで自分自身と和解していく姿を描いた。彼はそこで死ぬ準備までしていたのだ。両方とも、ドイツからの変な外人を日本人が助ける作品だ。日本はこうした外人を個人として受け止めないにもかかわらず、だ。自らが厳しい掟に縛られた混沌にうずもれているからかもしれない。

映画「Grüße aus Fukushima」は来年の春、公開が予定されているそうだ。他の二本の作品で頼りなげに放浪していた男たちよりはずっと足取り確かに東京を闊歩しそうなマリーは仮設住宅村に来て、一風変わった訪問者として誰からもその存在を意識されただけでなく、さとみを手伝うことにも成功する。これまでの映画で描かれてきた消極的な癒しというような、慰めをもたらす日本の力は、この三重の悲劇を通じて変化したのだろうか? ドリーはそうではないという。「フクシマはドイツが核エネルギーから足を洗う手伝いをしてくれた。しかし日本は何もなかったかのようにしている。冬はうちの中を24度に温め、夏は16度に冷やし、車のエンジンはかけっぱなし。ほとんどなにもあの事件から教訓を得なかった」と彼女は怒る。そして仮設住宅の避難民たちも忘れ去られている。そして彼女はこう言ってから口を閉ざした。「でも映画館は教育施設じゃないのよ」。

2015年2月12日木曜日

情熱の力を持っているのは誰か? パリでの襲撃事件後

情熱の力を持っているのは誰か?
パリでの襲撃事件後

正月早々起きたパリでの襲撃事件後、「事件解説」の記事が世の中にあふれた。その中でも、ツァイト紙に続けて載った哲学者による記事が私にはとても興味深かった。スラヴォイ・ジジェクはパリで精神分析を学んだスロベニアの哲学者だが、彼の説明は頷けるところも多いのに、過激な部分もあり、ことに「過激派左翼」の部分にも同感できないし、イスラム原理主義者の「劣等感」も、ジジェクも残念ながら西洋中心主義に取り付かれているのかと思ってしまうが、そう思っているところに2週後、それに対する「反論」をベルリン芸術大学で哲学と文化科学を教えている韓国人のByung-Chul Hanが書いた記事が載った。これには同感させられたし、考えさせられた。この記事は両方あわせて読まなければ意味がないので、続けて訳すことにした。(ゆう)


まずは1月15日に掲載されたジジェクの記事から。

活力に欠けたリベラリズムと宗教原理主義者との戦いを終わりにすることができるのはただ一つ、過激派左翼だけ
スラヴォイ・ジジェク
Die Zeit vom 15.01.2015 (Nach den Pariser Attentaten) Wofür wir kämpfen müssen
本文はこちら:http://www.zeit.de/2015/03/slavoj-zizek-charlie-hebdo-fundamentalisten


シャルリー・エブド編集部殺戮事件のショックが去った今こそ、落ち着いて考え直す勇気を持つ瞬間が来たようだ。今であって先延ばしは許されない、陳腐な真実を好む友たちが我々を説得しようとしているのが目の前にこうして見えている間に。今しなければならないのは、思考という行為をこの瞬間の熱と調和させることだ。「その後」の冷たさの中で反省しても、バランスの取れた真実は導くことができず、状況を正常な状態に戻してしまい、真実の刃先を避けるのを自分たちに許してしまうことになる。

考えるとは、襲撃事件後爆発的に広がり、大騒ぎが1月11日にその頂点を迎えた、一般大衆が示した連帯感のパトスを超える、ということである。あの日曜日、キャメロンからラブロフ、ネタニヤフからアッバースまで、世界中の大物政治家がこぞって手を繋いだ。偽善的な偽りの像というのがあるとすれば、これがそうだ。本当のシャルリー・エブドなら、こんな出来事を突き放して露骨に、ネタニヤフとアッバース、ラブロフとキャメロンやその他がペアになって情熱的にキスをしながら、背中ではナイフを研いでいる風刺画を描いて嘲笑っているだろう。

この殺人は、何の誤解の余地もなく私たちのあらゆる自由の中でも中核をなすものに対する攻撃であると、もちろん私たちは非難すべきだ。それも「でもシャルリーはちょっと挑発しすぎた、あの雑誌はイスラム教徒をあまり馬鹿にしすぎた」というような暗黙の断りをつけずに、である。そして、もっと規模の大きいコンテキストの情状酌量を促すような指示も、すべて拒否すべきである。例えば、襲撃した兄弟たちはアメリカによるイラクの占領で恐怖を体験していた、というようなことだ。それはそうかもしれないが、それなら彼らはではなぜ、米軍の施設を狙わず、フランスの風刺雑誌を狙ったのだ? 西側諸国に住むイスラム教徒は事実上、ぎりぎりのところで大目に見られ、搾取されている少数派だというなら、アメリカの黒人などはもっと大きい規模で同じ状況にあるのに、彼らはそれでも暗殺も殺人もしない、など、などである。このように複雑な背景の呪文がかかっていることの問題点は、それがヒットラーに関してもうまく機能するものだ。つまり、彼はヴェルサイユ条約の不公平性を自分の目的のために利用することに成功したが、それでもナチ政権を可能な限りの方法で打倒しようとするのはまったく正当だったということだ。テロ暗殺行為の基盤にあるよからぬ情況が真実かどうかということが問題なのではなく、不公平に対する反応として現れ出てくる政治的イデオロギー的プロジェクトが問題なのだ。

原理主義者たちはひそかに劣等感を持っている
でもこれだけでは不十分だ。私たちはもっと先へ考えていかなければならない。そして、もっと先へ進んで考える、というのは決して「では西洋にいる我々とは一体何者なのだ、第三世界で恐ろしい殺戮を繰り返してきた私たちが、このような行為を咎められるというのか」というようなよく知られた文句の、犯罪行為を陳腐に相対化することとは違う。そしてそれはまた、西洋のリベラル左派の多くが持っている、イスラム恐怖症だと思われたくないという病的な不安とも、もっと関係がない。この似非左派どもは、イスラムに対するあらゆる批判に対し、それが西側諸国のイスラム恐怖症だとレッテルを貼り、ちょうどサルマン・ラシュディにかつて同じようにレッテルを貼ったように、イスラム教徒を不要に挑発し、彼を死罪と宣告したファトワー(イスラム教の勧告、宣告等)に対し(少なくとも共同)責任があると言っているのだ。このような態度が招く結果は、このような場合はっきり予期できる。つまり、西側のリベラル左派が自分の罪の意識を感じれば感じるほど、彼らはイスラムの原理主義者たちから、自分たちのイスラムに対する憎しみを必死になって隠そうとする偽善者だと咎められることになるのだ。このような状況は超自我のパラドックス以外の何物も生み出さない。他者が自分に求めているものに従えば従うほど、自分の罪が重くなる、というわけだ。イスラム教に寛容であればあるほど、イスラムが与えるプレッシャーが強くなっていくように見えるのだ…

Guardian紙に1月7日に掲載されたサイモン・ジェンキンズ(Simon Jenkins)が言っているような、「慎み、控えめ」を求める声では、私は従って不十分だと考える。ジェンキンズによれば、我々の義務とは「敏感に反応しすぎず、(襲撃が及ぼす)影響をマスコミで過大に言い立てるのではなく、今回の事件を一過性のおぞましい災難として捉える」ことにある、という。しかし、シャルリー・エブドの襲撃は決して「一過性のおぞましい災難」などではなかった。これは厳密な宗教的政治的プログラムに基づいて実行されたものであり、その意味で紛れもなく、もっとずっと大きなモデルの一部だったのだ。もちろん、盲目的なイスラム恐怖症に陥る、ということに関して言うなら過剰反応するべきでないのは確かだ。しかし、このモデルを何の容赦もなくきちんと分析することが大切である。

テロリストのことをヒロイズムに嵌った自爆テロの狂信者だと、悪魔の申し子のように見るよりももっと重要で説得力があり効果的なのは、こうした悪魔の神話を暴くことである。かなり前にフリードリヒ・ニーチェは、西洋文化は大きな情熱や義務感を失った無関心無感情の生き物「最後の人間」になる方向に動いている、と信じていた。夢を持つことができなくなってしまい、人生に嫌気がさし、この生き物はもうなんのリスクも背負わなくなり、ただ安楽と安全だけを追い求めるようになる、寛容さそのものになったつもりで:「ところどころにちょっとだけ毒を入れると、心地よい夢が見られる。毒がたくさんだと心地よい死に至る。〔...〕昼間必要な快楽と夜に必要な快楽を。でも健康がそれでも一番。『我々が幸福という概念を発明したのだ』と最後の人間は言って目くばせする」。

だから究極的には、寛容的第一世界と、それに対する原理主義者の反応の間に横たわる溝は、物質的および文化的富に恵まれた長くて満足のいく人生VSもっと上位の目的を追った人生というこの、差がどんどん広がっていくだけの対立と同じになっているように見えるかもしれない。しかしこの対立は、ニーチェが言っていた「パッシブ」なニヒリズムと「アクティブ」なニヒリズムとの対立ではないのか? イスラム過激派がすべてを賭け、自分を殺してでも戦いに身を投じる心の用意があるのに対し、西洋の我々はニーチェの言うところの最後の人間で、くだらない日常的な快楽を追ってばかりだ。ウィリアム・バトラー・イェイツの「帰還」という詩がこの私たちの状況をしっかり言い当てているようだ:「善良な者は疑いに満ち、悪者たちは情熱の力に満ちている」。この箇所は現在の活力に欠けたリベラリストと情熱的な原理主義者たちとの間の溝をうまく表現しているように読めてしまう。「善良」なものたちはもはや心底賛同してなにかに打ち込むということはできなくなっており、「悪者」たちは人種差別的、宗教的、性差別的ファナティズムにどんどん嵌っていくのだ。

ただ、この表現は本当にテロリストの原理主義者たちに当てはまるのだろうか? チベットの仏教徒とかアメリカのアーミッシュなどの真の厳格な「原理主義者」の間ではすぐに観察できる「なにか」が、彼らには欠けているようだ。それはルサンチマンや妬みの不在、そして不信心者の生き方に対する徹底的な無関心さ、である。今日原理主義者と呼ばれている者たちが、本当に真実に至る道を見つけたと思っているとしたら、なぜ彼らは不信心者に脅かされているなどと思うだろう、なぜ彼らを妬む必要があるだろう? 仏教徒が西洋の快楽主義者に出会っても、別に非難したりせず、単ににこやかに、快楽主義者の幸福の追求は不成功に終わる運命にある、と確信するだけだろう。真の原理主義者と違って、似非のテロ原理主義者たちは不信心者の罪深い生き方によって駆り立てられ、魅惑され、魔法をかけられているのだ。罪深い人間を制圧しようと戦いながら、彼らが自分たち自身の誘惑と戦っているのが感じられるのだ。

この点において私たちの現在の不幸に対するイェイツの診断は表面的過ぎるといえよう。テロリストの「情熱の力」は本当は、真の確信の欠乏を露呈しているのである。風刺雑誌に載った馬鹿な風刺画を見て脅威を感じるようなイスラム教徒の信仰など、どの程度抵抗力のないものだろうか? 原理主義的イスラムの恐怖とは、テロリストが自分たち自身の優越性を確信していて、自分たちの文化的宗教的アイデンティティをグローバルな消費社会による征服から守ろうとしていることにあるのではない。原理主義者たちとの問題は、彼らは私たちより劣等だと私たちが思っているのではなく、彼ら自身がひそかに劣等感を持っていることにあるのだ。だから、我々が彼らを見下しながら、ポリティカルコレクトネスに沿った言い方で、私たちは彼らに対し一切優越感などもっていない、などということが、彼らの怒りをもっと煽り、彼らのルサンチマンをもっと強くしているのである。この問題は文化的相違(自分たちのアイデンティティを守ろうとする彼らの試み)などではなく、反対に、原理主義者たちが実は我々のスタンダードを自分たちのものとしてしまい、自分たち自身をその標準に照らし合わせて評価しているという事実にあるのだ。パラドックスにも、イスラム原理主義者たちに本当に欠けているのは、自分たちが誰よりも優れているのだと確信する、真の人種差別的優越感なのだ。

イスラム原理主義の最近の運命的な打撃は、どのファシズムの興隆も、失敗した革命から生まれる、というヴァルター・ベンヤミンの古い見解を裏書している。すなわち、ファシズムが始まるのは、左派が役立たずだったからであり、同時に左派がうまく動員できなかっただけで、革命的ポテンシャルと現在の状況に対する不満は実際に存在する証拠である、というものだ。これは今のいわゆるイスラムファシズムにも言えることではないだろうか? ラジカルイスラム主義がこれだけ広まったのは、イスラム教徒の国々で世俗の左派が衰退したことの相互作用ににあるのではないだろうか? 2009年の春にターリバーンがパキスタンのスワット谷を掌握した際、ニューヨークタイムズは「右派の大地主からなる小さなグループと土地を持たない小作人たちとの間にある深い溝を利用した階級闘争」を企んでいる、と論じていた。ターリバーンがしかし「実質的にはまだまだ封建社会であるパキスタンのリスクを前に」、農民の困窮を「利用し」、それにより事実上パキスタンのリベラル民主主義を阻止し、かつ米国がその困窮を同じく「利用して」土地を持たぬ農民たちを助けるのを阻止することで、警鐘を鳴らしたとしたら? この問いに対する悲しい答えは、パキスタンの封建的権力はリベラルな民主主義の「自然の同盟者たち」であるという事実にある…

2つの極端による終わりのない悪循環
それでは、リベラリズムの基本的価値はどのようなものだろうか? パラドックスなのは、リベラリズム自身は、原理主義的襲撃から身を守れるほど強くないということだ。原理主義とは、反応なのだ。もちろん、神秘化された、嘘の反応ではある。それでもリベラリズムの真の欠点に対する反応であり、だからこそ常に何度でもリベラリズムから起こってくる。他に頼るものがなくなって取り残され、リベラリズムはどんどん自らを破壊していく。そしてリベラリズムの中心的価値を救えるのは、生まれ変わって再生した左派だけだろう。この決定的な遺産が生き延びるためには、リベラリズムは、左翼の過激派の兄弟愛的助けに頼る以外にないのだ。原理主義を打ち負かすにはこの方法しかない、つまり彼らの根を絶つのである。

パリでの殺人行為について今考えるということは、寛容なリベラリズムの高慢なうぬぼれを捨て、リベラルな寛容と原理主義の間の摩擦はとどのつまり嘘の紛争であると認めることである、互いが互いを生み出し、互いが互いを前提条件にしてしまっている、二つの極端な形態の悪循環であるということを。マックス・ホルクハイマーが1930年代にすでにファシズムと資本主義に対して言っていたこと、つまり資本主義を批判的に捉えようとしない者は、ファシズムに対しても口を閉ざすべきだという説は、現在の原理主義にも当てはまる。リベラルな民主主義を批判的に捉えようとしない者は、宗教的原理主義に対しても黙っているべきだ。


次に紹介するのがByung-Chul Hanの反論。この2つは必ず合わせて読んでほしい。
敵への憧れ
Sehnsucht nach dem Feind
本文はこちら:http://www.zeit.de/2015/05/terrorismus-radikale-linke-antwort-slavoj-zizek

マルクスは死に、もう戻っては来ない。
新左翼の過激派も、イスラム原理主義者に対する戦いには勝てない。
我々に必要なのは新しい生活形式だ、
ネオリベラリズムの実存的空虚感から救済してくれる生活様式が。
「情熱の力」を訴えたスラヴォイ・ジジェクに対する反論

今日左翼というのはどのような位置に立っているのだろうか? スラヴォイ・ジジェクは、そのパリの襲撃事件について書いたテキストの中で、左翼の過激派を懇願していた。活力のない、頼りない西洋のリベラリズムと宗教的で情熱的な原理主義者の間の闘争を終わらせることができるのは、左翼の過激派だけだと、彼は述べていた。どうやったらそうなるのだろう?

ジジェクはまず、テロリストの原理主義がその劣等感症候群からきていると理解している。原理主義者たちは不信心者により存在を脅かされ、彼らを攻撃しているのだと。仏教徒なら、西洋のヘドニズム信仰者にあっても、別に非難などせず、その幸福の追求が失敗することはもとより決まっているとにこやかに確信するだけだという。このような真の原理主義者と違って、テロリストの似非原理主義者たちは不信心者たちの罪深い生活様式に魅惑されていて、それで自分たちの誘惑を克服するために罪深い他者たちを制圧しているのだ、と。

しかしジジェクが考えているのとは異なり、仏教の原理主義というのは仏教の基本的信念から言って、ありえない。仏教というのは神が存在しない宗教だ。原理も絶対者もないと信じることが、仏教の特徴である。それに反し、一神教はその内面構造から言って、暴力を、別の信仰に対し反発を持ちやすい。さらに仏教は意志も情熱も放棄している。この理由から言っても、仏教徒のテロというのは考えにくい。快楽主義者に対する仏教徒の平静さはだから、「彼らが真の原理主義者」であるからではない。

イスラムのテロリストの情熱とは、本当は心底確信しているものがないことの現われだ、とジジェクはさらに続ける。「馬鹿な風刺画を見て脅威を感じるようなイスラム教徒の信仰など、どの程度抵抗力のないものだろうか?」と彼は問う。イスラムの恐怖の根にあるのは、テロリストがひそかに、自分たちを劣等だと思っているからだ、というわけだ、イスラムの原理主義者には、自分たちの優越性に対して確信がない、と。

憎しみはテロリストの側にあるだけではなく、両側にある。過激なイスラム教徒だけが憎しみで西洋を揺るがそうとしているわけではなく、西洋だってイスラムに対して憎しみを持っている。ドレスデンではしかも、イスラムというのは想像上の空間にしか存在しない。西洋文明が本当に強いものだと思っているなら、このイスラムに対する憎しみはどうやったら説明できるだろう? 実は、活気のあるイスラム教に対し、ひそかに劣等感を感じているのではないのか? 健康というものが「新しい神」(ニーチェ)として崇められ、人生がヒステリックなサバイバルとなってしまった社会で、テロリストの持っているあの決意の固さ、ジジェクが書いているような「自分を殺してでも戦いに身を投じる心の用意がある」、その決然とした態度に対する妬みが生まれてはしまいか?

西洋のリベラルなヘドニズムをジジェクはニーチェと共に「パッシブなニヒリズム」、「最後の人間」の文化だと呼んでいる。何の危険も冒そうと馳せず、快適さと安全だけを求めている、と。彼らの理想は長くて健康な人生だ。それに対し、イスラム原理主義者たちの精神的あり方についてジジェクは、やはりニーチェに従い、「アクティブなニヒリズム」と呼んでいる。彼らはあらゆるリスクを冒し、神のためには自らの死すら捨てる用意があるのだ。

ジジェクがイスラムの原理主義と「アクティブなニヒリズム」を同じものとみなすのはしかし、問題だ。なぜなら、「アクティブなニヒリズム」とはニーチェにとってはとてもポジティブで生産的なものだからである。アクティブなニヒリズムとは、これまでなかった新しいものに地盤を提供することだ。浄化作用のある嵐のような形で現れ、あらゆる信仰による確信を拒否するものだ。となれば、イスラムの原理主義は「アクティブなニヒリズム」とはおよそかけ離れたものである。それはニヒリズムなどではなく、西洋のヘドニズムと物質主義に矛先が向けられた、信仰による確信により歴史の流れを逆戻りさせる、暴力的な形態だ。

過激派左翼が本当にテロリズムを防ぐことができるのだろうか? 快楽主義的な西洋と、「最後の人間」の文化とさっぱりと縁を切り、テロ暴力の原理主義に反応することができるのだろうか? おそらく「最後の人間」は過激派の左翼を正当な評価に値する人間と認めはしないだろう。彼らは単にちょっと困惑して、目をしばたたかせるだけだろう。今日では、左翼が有機栽培の店で買い物をし、ヨガ講座に通う「最後の人間」になってしまったのだから。

幻想的な自由の名において死で自分の生きがいを達成
ジジェクは、ファシズムの興隆はどれも不成功に終わった革命から始まる、しかしそれは同時に革命のポテンシャルがあるという証拠であり、それをただ左翼が動員できなかっただけだとするヴァルター・ベンヤミンの見解を引き合いに出している。しかし、どの革命を彼は指しているのだ? ジジェクはそれからフランスやヨーロッパを去ってパキスタンに飛び、「金持ちの大地主の少数派グループと土地を持たぬ小作人の間にある深い溝」のことを語っている。彼は、過激なイスラムは、世俗の左翼がいなくなったことと相互作用して出現した、と予測している。それなら、大地主から土地を取り上げるマルクス主義的革命が起これば、原理主義は克服できる、とでもいうのだろうか? そんなことはない。パキスタンと違って、例えばイラクは封建制度国家ではないが、ここでこそ「イスラム国家」(IS)猛威を振るっている。イラクでは封建的な社会は1958年の革命までしか続かなかった。その後は土地改革が実行されたのだ。それだけでなく、原理主義は世俗的な左翼が防ぐことのできない世俗に対する反応である。

ジジェクはマルクス主義に固執するあまり、革命という概念から離れられない。しかし、マルクス思想が今日世界を説明することも改善することもできない事実を、彼は見そこなっている。我々はポスト・マルクス主義の時代に今生きているのだ。

労働からの疎外がマルクス主義の核をなす思想だ。労働者が富を生産すればするほど貧しくなっていくというパラドックスに基づいた思想である。自分が生産するものの中に自分を見出すことができない、それは労働者から生産物が取り去られるからだ。彼が生産する物は、彼の所有物ではない。彼の労働は持続的に彼を「自己実現から遠ざける」ものである。革命しかその疎外した状態を終結することはできない。

この、マルクスが説いた疎外はしかし、今日の労働と生産の関係を表現してはいない。ネオリベラルな体制にあっては、搾取はもはや疎外や自己実現からの疎遠としてではなく、自由と自己実現として行なわれる。自己実現すると信じながら、自分で自分を搾取するのだ。そしてそれが燃え尽き症候群や精神の高揚状態の最初の段階でもある。自己陶酔して人は仕事に打ち込むのだ。そして最後には疲れ果てて倒れてしまう。死ぬほど、自己実現してしまうというわけだ。ネオリベラルな支配が幻想的な自由の背後に隠れている。そう、この支配は、自由という化けの皮をかぶっているのだ。支配は、それが自由と共に一致した瞬間に完結する。自由だと皆が感じている自由が怖いのは、それがどんな抵抗も革命も不可能にしてしまうことにある。

別の言い方をすれば、こうである。ジジェクはマルクス主義的幻想の信奉者だ。彼は、再生された左翼が先導して起こすべき革命を夢見ている。しかし、疲労困憊した鬱病の個人主義者たちは、反対運動のうねりを作り出すことは不可能だ。このことがジジェクにはわかっていない。エッセイの最後で彼は、議論でまったく違うレベルに飛び移って、矛盾したことを述べている。突然イスラムの原理主義はもはや劣等感症候群ではなくて、「リベラリズムの真の欠陥」に対する反応なのだ、と言っている。他に頼るものが誰もいなくなって、リベラリズムはどんどん自らを破壊していく、「生まれ変わった左派」しか、その中心的価値を救うことはできない、とジジェクは述べている。リベラリズムは過激な左翼の兄弟愛的な助けに頼る以外にない、というわけだ。しかしジジェクはそのような「過激な左翼」がどのようなものなのかはまったく語っていない。ジジェクにあっては、ただ亡霊のように現れているのだ。

イスラム原理主義に関わる問題は、それよりもっとずっと複雑である。過激派の左翼がいても、それを解決することはできないだろう。イスラム教も西洋も両方とも敵のイメージになりきっている。敵という図式に圧倒されていた冷戦後、新たに敵が戻ってきたのだ。ジジェクはしかしこの、敵対関係という問題をまったく捉えていない。

敵とは何だ? 敵とは、カール・シュミットによれば社会的なカテゴリーには属さず、現存的カテゴリーに属している。シュミットは、敵とは「存在論的根源性」だという。敵がいて初めて、私が誰かが定義される。敵は自分のアイデンティティに安定性を与えてくれるものだ。「敵とは、存在形式としての自分自身の問いそのものだ。だから、我々は、自分の大きさ、自分の限界、自分の姿を得るために、敵と戦わなければならない、そのことで我々は実は、自分と向かい合うのだ」。リベラリズムではしかし、敵がいなくなる。敵の代わりに現れるのは「競争相手」だが、競争相手はアイデンティティを与えてはくれない。グローバルなネオリベラリズムが生み出す現存論的空虚はしかし、またその敵を蘇らせる。ペギーダにせよイスラム過激派にせよ、彼らに共通しているのは「敵を持ちたいという憧れ」だ。イスラム過激派にとって敵は西洋であり、ペギーダの「欧州愛国者」たちにとっては、イスラムなのだ。

グローバルなネオリベラリズムはどんどん安全や確かな関係といったものをなくしてきた。今日、安心できる職場などなくなった。純粋にただ競争のみに還元されたこのシステムでは誰も安心感など持てない。大勢の人間があらゆる不安にさいなまれている。うまく機能できないかもしれないという不安、失敗するかもしれない不安、置いてきぼりにされてしまうかもしれない不安。完璧なネットワーキングにより監視される接続はあっても、本当の関係、身近に思う人や近所づきあいなどというものはどんどんなくなっていく。持続して存在するものは何もなくなっていく。ここで生まれるのが、なにか確かなものに対する憧れだ。この憧れをうまく利用しているのがイスラムの原理主義であり、過激派右翼である。このような場所で生まれ変わった左翼などに何ができようか。左翼の原理主義が提供されるというなら話は別だが。

フランスの作家ミシェル・ウエルベックがあるインタビューで、短期間の間に親しい者たちの死を経験したことが、新しい小説「屈服」を書くきっかけとなったと述べている。自分の無神論では、自分の愛犬や両親の死を乗り切れなかったという。損失は耐え切れないほどつらかった。それで彼の小説の主人公フランソワも当てにできる確かなものを求める気持ちに追い立てられる、人生の意味を求めるようになるのだ。この小説のタイトルはもともと「屈服」ではなくて「改宗」というタイトルだったそうだ。最初の下書きでは、主人公はカソリックに改宗する。しかし最後の原稿では退廃的で疲労しきった西洋に背を向け、彼はイスラム教徒になる。

私たちが今日必要なのは、まったく新しい生活様式だ。右でも左でもなく、確かで当てになるものと、確かに私たちを結び付けてくれるものを生み出すことのできる生活様式、それでいて暴力や排除の形式を一切持たない、秘教(エソテリック)的ではないスピリチュアリティが、システムが原因で生まれた損傷を治癒するためだけのセラピー形式として場所を与えられるような生活様式、シェアリングを超えた本当の分かち合い、Giveがちゃんと成立する生活形態が。

もしかしたら、このような新しい生活様式は革命など前提としなくてもいいのではないか。いや、その反対である。有名なカフカのことを書いた文章の中でヴァルター・ベンヤミンはこう書いている。「せむしの小男という民謡で同じことが象徴化されている。この小男はゆがんだ人生を生きる羽目になっている。救世主が来ればそれは消滅する。その救世主についてある偉大なラビがこう言っている。救世主は暴力で世界を変えるつもりはない、そうではなくて世界の歪みをほんのちょっと元に直すだけだ」と。

2015年2月6日金曜日

ガンには「原産地表示」はない

ガンには「原産地表示」はない
IPPNW(核戦争防止国際医師会議)アレクス・ローゼン博士インタビュー

緑の1kWhでも報告されている(http://midori1kwh.de/2015/01/25/6478)IPPNWのアレックス・ローゼン氏のインタビューが、私がこのたび訳したNanoの5分ほどの動画ニュース(http://youtu.be/nQ5sabgRw-Q)に載っていたので、それを訳した。

3 Sat Nano
本文はこちら:
http://www.3sat.de/page/?source=/nano/medizin/180059/index.html

ガンには「原産地表示」はない
IPPNW(核戦争防止国際医師会議)のアレクス・ローゼン博士とのインタビュー
“Krebs hat kein Herkunftssiegel”
Dr. Alex Rosen von IPPNW im Gespräch

NANOスタッフがIPPNWの医師アレックス・ローゼン氏にインタビューして、フクシマ原発事故後の甲状腺がんのリスクについて訊いた。

日本の甲状腺がん検診で、なにがわかったのでしょう?
要約すればこうです:なにも特筆すべきことは出てこないと予想して検診を開始し、始めはそのように公言していたのですが、108人の子供たちにガンの疑いがあることがわかりました。そしてそのうち80人以上では、ガンがかなり発達しているか転移していて、手術をしなければならないほどでした。つまり、これらの子供たちは甲状腺の一部と異常のあるリンパ節を除去されるということで、そうすれば彼らは、再発することがあるので、一生検診を続けなければいけないし、場合によってはそれからずっと甲状腺ホルモンをとり続けなければいけないことになります。

日本政府は、このような結節やのう胞のみつかった子供たちの数字が高いのは、「スクリーニング効果」だとしていますが?
これまでは、フクシマで見つかった甲状腺がん症例の数が多いのは、スクリーニング効果だ、とされてきました。スクリーニング効果とは、たくさんの人数の子供たちを検査したために、普通なら数年後に症状が出て発見されるような病気ですらみつかってしまうことを言います。しかし、今回の二度目の検診では、前回の検診では健康だった子供たち4人に新しくガンが発症していることがわかったので、とても憂慮すべきことです。これはスクリーニング効果などと片付けられるものではなく、私たちが心配していたことが確証されることになってしまいました。

検査を受けた子供たちの58%で結節やのう胞が見つかったということですが、これは危険なのですか? これはがんになる予備段階なのですか?
今回の検査でおよそ145,000人の子供たちに結節やのう胞が見つかりました。のう胞というのは甲状腺の中で液体の溜まった袋状のもので、結節とは組織にできるしこりです。のう胞も結節も両方とも健康な人でもできることがありますが、同時にガンができる前兆にもなり得ます。ガンに発展する率は高く、今日では子供にできる結節の18%が悪性になる、つまりガンになる可能性があるといわれています。結節はですから、必ずしも自動的にガンだとは診断できませんが、フクシマの子供たちというかなり危険性の高いグループの中でこういうことがあれば、規則的に検査を行なっていく理由として十分です。

子供たちにおける甲状腺の病気と、フクシマで起こったような原子力事故にはどのような関連があるのでしょうか?
フクシマでは大量の放射性ヨウ素が発生したことがわかっています。食べ物、飲料水、空気などを通し、日本に住んでいるほとんど全員が、ことに福島県やその周りの県に住む人々が放射性ヨウ素で被ばくしたわけです。体は普通のヨウ素と放射性ヨウ素を区別できないので、放射性ヨウ素は体内で甲状腺に取り込まれてしまいます。ヨウ素は甲状腺ホルモンを作るのに必要なものだからです。放射性ヨウ素を取り込まないようにするためのヨウ素剤は、日本では一般の市民には配布されていませんでした。

それから、小児の方がことに放射線の影響を受けやすく、たとえ少量の放射線であれ、被ばくすればガンのリスクを高めることになることがわかっています。福島県の子供たちは、原発事故により最初の年に、通常の15~83倍もの量の放射線を甲状腺に受けています。日本のその他の地域では、子供たちの被ばくは約2.6倍から15倍の間です。ですから、このような子供たちの間で甲状腺がんを含めた甲状腺疾患がそのうち発達するようになるリスクは非常に高いと予想するのが当然です。

チェルノブイリと比較できますか?
チェルノブイリでは、事故が起きてから最初の4年間、甲状腺疾患についてしっかり検査が行なわれず、甲状腺疾患の疑いがある患者は、医者が手で触る触診を行なっただけでした。1990年に超音波診断装置で、線量の高い地域の子供たちの甲状腺検査を始めると、予想以上に膨大な数の甲状腺疾患が見つかりました。現在までに、数万人の甲状腺がん症例がチェルノブイリ事故により発生したといわれていますが、この数字は人によって異なるのが実情です(2万人から10万人の甲状腺がんが事故で増加したとされています)。WHO健機関では、たったの5000症例しかなかったといっていますが、彼らは旧ソ連の汚染の一番ひどかった地域と、限定された期間しか考慮していません。放射性ヨウ素がヨーロッパ全体に広がったこと、そしてガン疾患は潜伏期間が長い場合があるので何年も経って初めて発病することを考えると、この数字はかなり上回って修正しなければいけないといえるでしょう。

フクシマでも同じように比較的高い数字でガン疾患が増加することを予想しなければいけないでしょう。国連のかなり「保守的」な数字では、少なくとも1000例の甲状腺がんが増えるとされていますが、公に現れてこない数字は、おそらくあらゆる要素でもっと高いはずです。もっと比較に値することがあります。福島ではロシアに比べてヨウ素の欠乏が少なく、したがって体内に取り込んだ放射性ヨウ素も少なかったため、甲状腺がんのリスクがロシアよりは低いのです。そして放出された放射性物質のほとんどが海に流れ、国土には広がらなかったこともあります。フォールアウトの79%が太平洋に落ちたのです。それに日本は2011年の時点で、1986年のソ連よりもずっと一般の健康状態がよかったし、食品の基準もソ連のそれに比べずっと厳しいです。

原子放射線の影響に関する国連科学委員会UNSCEARが2014年、次のように報告しました。「フクシマでの被ばくによるガンの増加は、大人では予想されない。単に日本の東北海岸沿いの原発事故の影響で、甲状腺ガン疾患数が小児においてわずかに増加する可能性がある」と。この意見に賛成ですか?
UNSCEARは、あらゆる国々で原子力産業を推進している原子力業界の代表者でできている委員会です。これは、例えていうならニコチンの影響に関する国連科学委員会に、タバコ業界の代表者たちがメンバーとしているようなものです。UNSCEARで、基本となるパラメータを過小にし、原子力産業や東電のデータが有利となるように独立した研究の結果をいくつも無視し、間違った予測をいくつも発表しています。残念ながらガン疾患では「原産地表示」がないのが事実であり、個々の因果関係をはっきり調べられません。

フクシマの原発事故により、かなり保守的な計算ですら、それさえなければ健康でいたはずの人間が、数万人はガンに疾患することになるでしょう。甲状腺がん症例はその中のごく一部に過ぎません。国内の統計ではこのような疾患の増加は、すでに日本ではガン発生率が高いので、おそらく目立たないかもしれません。しかし一人ひとり、またその家族にしてみれば話は別です。人間の運命を統計のトリックで相対化してしまうのは、私たちからの考えでは非科学的なだけでなく、非倫理的です。どの人にも健康でいる権利も、健康な環境で生きる権利もあり、日本の社会にはこの権利を具体的に実現する財源もあるはずです。

これらの子供たちを助けることはできますか? 甲状腺がんにはいい治療法がありますか? 完治の率はどのくらいあるのでしょうか?
甲状腺がんは、ことに日本のような保健制度では、比較的治療しやすいものです。統計の上では、症例のうち約7%しかこれで死に至ることはありません。同時に、規則的に血液検査とエコー検査が必要となりますし、手術や甲状腺ホルモンをとることも必要となります。さらに患者とその家族は、再発の不安と常に向かい合って生きていかなければなりません。そうすればまた手術しなければなりませんし、それもリスクを伴います。たとえば、甲状腺のすぐそばに重要な神経が通っているため、言葉がしゃべれなくなることもあります。

ですから、予防が一番のソリューションです。ということは、子供たちをまず放射性ヨウ素に被ばくさせないことです。原発事故があったら直ちに子供たちを避難させ、即刻ヨウ素剤を与えなければなりません。このことは日本では両方とも遅ればせに、しかも不十分にしか行なわれませんでした。この日本の過ちから我々ドイツも十分に学習すべきです。私たちのところでもこれからまだ何十年にもわたって原発最悪事故の起こる可能性はあるのですし、私たちの官庁なども日本と同じようにちゃんと準備ができてはいないはずです。このことは、原子力事故を想定した練習でドイツ全体でかなりめちゃくちゃだったことが公表されて明らかになっています。

日本政府は、被害を受けた子供たちを十分に助けているのでしょうか? それとも無視したり、過小評価したりしているのでしょうか?
日本政府はかなり厳格な原子力推進政策をとっており、できるだけ早い時期に、国内の原発を再稼動すると発表しています。それで病気の子供たちのことは都合がよくありません。原子力産業と政治の癒着は、日本ではドイツでそうだったよりも何倍も強いのです。日本政府は「市民の放射線の影響に関する余計な心配事を排除する」ために、現在かなりの金額を出費しています。福島の人々はでも、そのような間違った約束事では助けることはできません。彼らが欲しいのは、客観的な情報や医学的サポートですし、そしてなによりも、健康に生き、健康な環境で生活するという彼らの不可侵の人権を認めてもらうことです。これこそフクシマの健康に関する影響を評価する上での基本原則でなければいけないはずで、経済や政治の利害であってはなりません。

2015年1月28日水曜日

オプティミスト - 偉大なる社会学者ウルリッヒ・ベックの死

ツァイト紙2015年1月8日付
社会学者ウルリッヒ・ベックを追悼して
オプティミスト──偉大なる社会学者
 ウルリッヒ・ベックの死
エヴァ・イルーズ(Eva Illouz・エルサレムのヘブライ大学の社会学者)

「危険社会」(私ならリスク社会、と訳す。ドイツ語ではRisikogesellschaftで、危険ならGefahrだ。危険社会と聞くと、危険な社会、という意味にも取れてしまう。リスクを根源的に抱えている社会、という意味でリスク社会、とベック氏は言っていたと思うのだが)を書いて世界的にも有名になった社会学者ウルリッヒ・ベックが元旦に亡くなった。「続・百年の愚行」でドイツ語圏からの執筆者を探しているとき(去年の春)、私は彼にもエッセイを執筆する依頼をしていた(忙しくて時間がないので断られたが)。ドイツがフクシマ事故後脱原発を決定するにあたり倫理委員会を設けたが、ここでも彼は活躍した。脱原発が「経済的」だけでも「科学的」だけでもなく「倫理的」問題として捉えられ論議されるというのは考えてみれば当然のはずなのに日本ではまったく考えられないことだ。この追悼記事の中で社会学者のエヴァ・イルーズが「陰鬱さのない批判」とか「陽の当たる批判」という表現で言っているように、ベックはともすると先細りで暗くなりがち、悲観的になりがち(私はその典型)なテーマにおいて一貫してポジティブな思考の人だった。それでいて単純でも、単なる楽観主義の軽い人間でもなく、洞察の深い人間だったと私は思う(というほど私も彼の本を読んでいないので、これを機会にもっと読みたいと思う)。

元旦に彼が亡くなり、その直後にパリでは襲撃事件が続いた。ヨーロッパは揺れ、世界の各地で恐ろしいことが次々に起こる。9.11以来、なにが世界のどこで起きてもまたか、と思うほど怖い話に慣れてきてしまうのがまた怖い。今起こっていることはでも、昨今に始まったことではなくて、ずっとアメリカを中心とする西側諸国とその追随(日本など)がオイルの確保と死の商人の利益を主に上げるため、新自由主義的経済発展だけを追い続けたツケが回ってきたとしか思えない。イスラエルとパレスチナの問題もダブルスタンダードのまま死の商人が忙しくしているだけだ。どこを見ても私には闇だらけで、ちっとも明るい展望が見えなくて落ち込んでしまうのだが、今年早々、その闇の中で希望の灯火を与えてきたベックが亡くなってしまったのはいかにも悲しい。これからどうなっていくのだろう。

あともう一つ。イルーズの文章の中にも出てくる(ただし、彼女はこの文章を英語で書いた。この英語をドイツ語に翻訳したのはMichael Adrianで、私がそのドイツ語をここで和訳しているわけ)が、「多様な文化」「多様な世界のあり方」ということを表現するのに、ドイツ語では Bunt(カラフル、色とりどり、多彩)という言い方をする。カラフルということは、要するに画一的、モノトーン、単色、制服、ユニフォーム、統一的、同色、などなどの反対語だ。今の世界はどこに行っても、単一民族の単一文化など絶対にあり得ず、あらゆる種類の各地の文化が入り混じっているからこそ豊かで、彩りよく、楽しい。そう考えたら、日本語の「いろいろ」という言葉こそ、カラフルということではないかと気づいた。日本は島国で長いこと鎖国も続いたせいか、いまだにその鎖国的・排他的感情が根強いようだけど、単色から個が目立ち、飛び出す釘を許さない風潮、統一、画一トーンがいいとし、皆が同じことをするのが安心できてよいというのは私にはまったくわからない。今日本ではデモでも、統一カラーに揃えたりするのが増えたようだが、私は皆がそれぞれ好き勝手に、好きな格好で、好き勝手なプラカードなどやメッセージを持って、好きなペースで歩くのがいい。人に押し付けられて同じことをやるのはいやだと自己主張ができるエゴを持つのは、制服と校則で縛られ、朝礼などで軍隊式に整列し、君が代を一緒に歌わされる学校に通って育ってきた日本人には難しいのかもしれない。(ゆう)


本文はこちら:http://www.zeit.de/2015/02/nachruf-ulrich-beck
Der Optimist - Zum Tod des großen Soziologen Ulrich Beck von Eva Illouz

社会学者ウルリッヒ・ベックを追悼して
オプティミスト
 ──偉大なる社会学者ウルリッヒ・ベックの死

誰かが亡くなると、その人の人生のずば抜けて優れた点が強い光に当たって際立つことが時としてある。そしてそれにより、あるエポックとしての、その人の人生を物語るバイオグラフィが完結するのだ。今の時代で最も偉大な社会学者の一人である彼が、彼の人生と業績を称え、予期せぬ早すぎる彼の死を悼む社会学的兆候を喜ばしいと思っていることを、私としては祈りたい気持ちだ。

ウルリッヒ・ベックは単に国際的に成功した社会学者というだけではなかった。彼はヨーロッパ市民であり、生き方、政治的アンガージュマン、社会学者としての仕事、そして公的な立場を通じて彼はそれを模範的に生きてきた。ヨーロッパのシティズンシップというものを体現している人がいたとすれば、それは彼である。彼はミュンヘンとロンドンを股にかけて生活し、彼の著作は35ヶ国語に訳され、ほとんどのヨーロッパの言語はその中に入っている。彼は、他の誰よりも強く、何が彼の目には民族国家の衰退として表れてくるかを理論的に捉えようとした。そしてそれにより「民族国家」という概念にぴったりとくっついて離れない社会学的概念性をこそ払い落とすことの必要性を同時に捉えたのだった。まだ表面的には生きているように見えながら、実はとっくに死んでいるもののことを指す概念のことを「ゾンビ・カテゴリー」と彼は呼んでいた。ヨーロッパというのは彼にとって、さらに大きなプロジェクトに向かうための道の一歩だった。そのプロジェクトとは、世界政府であり、国境の消滅だ。

彼に初めて会ったときのことを思い出す。彼はイスラエル社会学者同盟の主要発言者で、ヘブライ大学の社会学セミナーが彼をあるモロッコ料理のレストランに招待したときだった。プラムとアーモンド入りのラム肉に私たちは舌鼓を打ったが、ベックはその間もゲーテが1826年にエッカーマンと語った「世界文学」というのが実は、文化のグローバリゼーションの始まりだったのではないかと考えていた。ペルシャの詩をゲーテが賛嘆していたように、ベックもタジン鍋を前に、あらゆる文化がこうして世界中をめぐることを賞賛していた。

ウルリッヒ・ベックはだから、啓蒙主義と、良質の政治機構による地域主義の克服を願う希望の申し子だったのである。良質の政治機構があれば、必然的にどんどんすべての人間を取り込んでいくに違いないからだ。もっと正確に言うなら、欧州連合と1960年代後の文化が生み出した壮大な希望に対し、理論的な表現を与えたのが彼だった、といえるだろう。この希望とは、社会的階級や民族的所属による制限を世界市民的視野から超越するという、コスモポリタニズムへ道を開いた新しい可能性に基礎をなしているものだった。

世界市民とは、あらゆる文化の間を自由に動き、大陸を越えてあらゆる人々と接続し、あらゆる地方やグループの文化の中身を苦労なく学ぶものだ。このことをベックは、今日のようにインターネットが支配的な技術になる以前に書いているのだ。技術とグローバリゼーションが国境を超越したという事実をネットが把握可能な形で表現してみせたのだから、彼の理論は本当になったと言っていい。

ベックの民主主義的社会の未来像というのは壮大だったが、決してユートピア的ではなかった。それは面積の広い社会構造の分析、そして社会生活の具体的な集合組織のディテール、データ、分析に対するきわめて正確な意識感覚があったからこそだ。

私はウルリッヒ・ベックにはたまにしか会わなかったが、それでも彼の思考の抜きん出た特色が、会うたびごとによりよく理解できるようになっていった。彼の気質から言っても、彼の知識人としての方向性から言っても、ベックはオプティミストだった。彼はすさまじいバイタリティと不断の活動、目標を見極めてそれに一心に向かっていく意志の強さにあふれていた。そして、自分の生きている時代をこれだけ熱心に彼に肯定させたのは、この根本的な生命力だったに違いない。彼は、近代には悪の力も属しているのではないかという可能性をめぐって煩悶したりすることがなかった。彼は、ハーバーマスが現れるまでフランクフルト学派を特徴付けていた、近代性を陰鬱なものと名付けることを拒否し続けた。

人間的にはベックは、ドイツの大学教授にありがちな、大げさな反古典主義(マニエリズム)的なところが一切なく、知識人としては、なんでも悲観的に見る批判的な態度が招くことのある、ある種の「深み」を見せることをはばかる人だった。また、ポストハイデッガー派風知識人が時として見せる存在的な不安や感情的なパトス(情念)も彼には一切なかった。そして彼はオプティミストであるのにもかかわらず、仕事では常に批判的だった。

彼は近代を、その偉大な理想や目標を肯定した。ただし同時に、この近代が内に秘める破壊も強く意識していた。ベックは、私が「陰鬱姓のない批判」または「陽のあたる批判」とでも表したい批判形式を実行していた。そのやり方で彼はたとえば「危険社会(リスク社会)」で述べた考えは、現実的に得られた技術的進歩を総括した。技術的な進歩にもかかわらずパラドックスな特徴として認めざるを得ないのは、こうした進歩が「リスク」としてマネージメントせざるを得ぬ危険を呼び起こしたということだ。

「危険社会」は優れた本だったが、それはこの本が資本主義を非難するのでも庇うのでもなく、資本主義が導いてきた結果を総括し、どのように資本主義が社会制度の構造を変えていったかを解明したからである。社会制度自体が自ら引き起こした破壊をはっきり見据えること、それを克服すること、そして天然の資源の略奪と技術的革新に結びついたリスクを考慮に入れて新しく計算をしなおすことを、資本主義がどのように社会制度に強制するに至ったか、をである。

ベックなら、世界のどの国であっても独創的な社会学者になっただろうが、ドイツの社会学という観点から見ると、ことに彼は独特でユニークだった。マックス・ヴェーバーの社会学的絶望、マルクスの階級と階級闘争に関する固定観念、フランクフルト学派の技術に関する敵意、ハーバマスの抽象性またはルーマンの大きなシステムに対する偏愛、そのどれもがベックにはまったくなかった。

そして、それでもベックの作品にはドイツ社会学が19世紀からずっと抱えている大きな問いが揺れ動いていた。その問いとはこうである。技術的進歩、普遍主義、合理主義、経済的搾取、自然の消費といった問題を抱えた近代は、過去の精神的文化的資源を奪い去られるのか? ベックの答えは偉大だった。彼はこう言ったのだ。そうだ、近代は確かに安心感、確信、安定性といった感情を私たちから奪い取ってしまった、しかしその代わり我々の人生は多彩に、発想豊かに、即興的になり、型にはまったものから遠ざかってきたではないか、と。秩序と規律が結局必要だと言い出すようなフーコー的近代の謳い文句に対して、ベックは、近代とはオープンであり、そして手探りで探すものであり、個人一人ひとりが所属しアイデンティティを求めることのできる、ずっと大きな領域を与えることができるはずだ、という驚くべき見解を持っていた。

私自身の国イスラエルは、このベックの大胆な希望に対する悲劇的な反対例と言ってよい。彼の「陰鬱姓のない批判」はでも、これからもずっと私にインスピレーションを与え続けてくれるだろう。