2015年10月11日日曜日

これで日本は滅亡するか、という問題だった

フクシマ事故発生当時総理大臣だった菅直人が今ドイツに来ている。秋恒例のフランクフルトブックフェアで、ドイツ語訳された彼の著書「東電福島原発事故 - 総理大臣として考えたこと」を紹介するために招かれたのだ。それに伴い、ベルリンでは、ベルリン日独センター主催で緑の党の財団ハインリッヒ・ベル財団の会場で講演をおこなうことになっている。シュピーゲル・オンラインが菅直人とおこなったインタビューをここに訳した。 (ゆう)

菅元首相、フクシマ事故について語る
これで日本は滅亡するか、
という問題だった
インタビュー:ヴィーラント・ヴァーグナー
本文はこちら:http://www.spiegel.de/politik/ausland/ex-premier-ueber-fukushima-die-frage-war-ob-japan-untergeht-a-1056836.html

フクシマの原発事故は、もっとひどいことになっていた可能性がある。単に偶然が重なり、日本全体が崩壊せずに済んだのだ」と当時首相だった菅直人氏は語る。彼は巨大都市東京を避難させることも考えたという。

シュピーゲルオンライン:菅さんは首相として2011年3月11日とそれからの数日間、福島第一原発の事故とその影響に対処していたわけですが、世界が想像していたより事態は深刻だったのでしょうか?

菅直人:私たちは、間一髪のところでもっとひどいカタストロフィーになることから逃れたと言っていいでしょう。もし当時、東京とその周辺の約5千万人の人間を避難させなければならなかったとすれば、日本という国の壊滅となっていたでしょう。首都東京はフクシマから250キロしか離れていません。そうならなかった理由としては、結果として2つの点が挙げられます。1つは、東電の社員が献身的にわが身を犠牲にして残ってくれたこと、もう1つは、幸運が偶然にも重なったことです。これはまさに神の加護としか言いようがない。

シュピーゲル:日本の原発はそれまで、まったく安全と思われてきました。それなのに、実際は偶然しか頼りにならなかったわけですか?

:はい。例えば、4号機の燃料棒を入れておく貯蔵プールにまだ水があったというのは、まさに幸運であったというほか説明のしようがありません。また、1号機から3号機までの格納容器には穴が開いていたため、圧力の抜け道がありました。もし格納容器が爆発していたら、被害者の数はもっと多くなっていたことでしょう。それに原発敷地はもっと汚染がひどくなっていて、救助隊が近寄れない状態だったはずです。

シュピーゲル:どうして東京を避難させなかったのですか?

:東京が危険になる可能性があることは、すぐに考えました。しかし、首相としてそれを公に話してしまえば、パニックを招くことになったでしょう。それに、そういうことになれば避難計画があることが必要だったでしょう。その代わり私がおこなったのは、避難の範囲を福島第一原発から徐々に広げていったことです。まず3キロから5キロ、そして10キロ、最終的には20キロまで半径を広げました。今知っていることを当時の私が知っていたとしたら、その半径をいっぺんに広範囲に広げていたと思います。しかし、こういうことの決断はとても難しいのです。半径を倍に広げれば、その分多くの人間を安全な場所に避難させなければいけないからです。

シュピーゲル:当時知らなかったことで、現在わかっていることとは何ですか?

:例えば、当時言われていたように、地震があった次の日ではなく、地震があってからわずか2時間半後に炉心溶融が始まっていたことです。すべてがものすこいスピードで進んでいくので、その事態の発展に私たちはあとからもたもたとついていくだけだった。高線量の下で作業しなければならないので、東電は3月12日の午後、格納容器から水素を放出するため、2つのベントを開くことに成功しました。でも、それまでにかなりの水素が出てしまっていたのです。それで原子炉のタービン建屋が爆発してしまいました。

シュピーゲル:原子炉建屋は次から次へと爆発しましたが、そのとき無力感を感じませんでしたか?

:1号機の爆発を、私はなんとテレビで初めて知ったのです。そのときにはすでにもう2時間が経っていました。私は何の情報も渡されていなかったのです、省庁からも、東電からも一切なにも、です。

シュピーゲル:それでも菅さんは3月15日の早朝に車で東電本社まで行き、東電の菅理職たちを一喝したということで、日本のマスコミから非難されましたね。総理大臣としての権限を越える行為だと。

:あの時、東電の社長は経産大臣に「福島第一原発に残っている作業員を撤退させたい」と言っていたのです。私にとってはそれは、日本が滅亡するかという問題だった。だから私は、自分で東電に行って幹部とどうしてもそこに残るようにと説得するよりなかったのです。もし本当に5千万人もの人間を避難させなければならない事態が生じていたら、誰が責任をとったでしょう、東電ですか?

シュピーゲル:日本のような産業大国が原子力発電事故を想定して準備していなかったというのは、ちょっと信じられないのですが。

:私は以前に厚生大臣や財務大臣も勤めましたが、専門家の助言を信頼して受けることが出来ました。しかしフクシマ事故後、原子力安全保安院長に事態を聞いてみても、彼が何を言っているかさっぱり分からない。それで「あなたは原子力の専門家なのですか?」と聞いたのです。すると彼は「いいえ、私の専門は経済です」と答えたのです。官庁の人事ですら、原子力発電の事故は原則としてないものと考えていたのです。

シュピーゲル:菅さんも首相として、始めは原発安全神話を信じていらっしゃったのではないですか?

:フクシマを経験してから、私の考えは180度変わりました。私は日本だけでなくできれば世界中で原子力エネルギーを放棄することを求めています。

シュピーゲル:フクシマではいまだに汚染水が太平洋に流れ込んでいます。同時に、今の安倍総理大臣はフクシマ事故後停止されていた日本の原発をまだ再稼動しようとしています。

:これは私に言わせれば完全に間違っています。原発がどれだけ大きい危険をはらんでいるか知った今となっては、ドイツが決定したように、我々も原発はすべて停止し、別のエネルギー源を開発すべきです。

シュピーゲル:市民の大多数が反対しているにもかかわらず、日本政府はなぜ今も原発に固執しているのでしょうか?

:電力会社、官僚、産業の利権が主な原因です。

菅直人:69歳。2011年3月11日に福祉まで最悪原発事故が起きた答辞に日本の総理大臣だった。太平洋沖で地震が発生した後、福島第一原発で複数の原子炉で炉心溶融が起きた。2011年9月、危機管理を非難されて辞任した。総理大臣就任後、わずか15ヵ月後のことであった。フランクフルトのブックフェアで菅氏は、原子力発電事故を巡る彼の体験をつづった『東電福島原発事故 ─ 総理大臣として考えたこと』のドイツ語訳を紹介する。

2015年10月10日土曜日

安倍話法

「市民の意見30の会」に依頼され、安倍が終戦から70年の今年8月に出したいわゆる「安倍談話」に関し執筆し、10月号に掲載された文章。(ゆう)


安倍話法
梶川ゆう

 戦後70年を記念したやたらに長い安倍話法の談話に関しては、日本でもかなり分析され、批判があった。この談話を「評価する」とか「評価しない」という表現が目立ったが、評価より前に根源的な問題は、この「談話」がいったい何のために出され、誰に向かって出されたかがもとより不明であることだ。「侵略」や「植民地支配」、「お詫び」に「反省」といった言葉があるかないか以前に、総理大臣がなにを意図してどういう内容のメッセージを出すかが問題だ。しかしこののらりくらりの作文は、キーワードは散りばめたか知らないが、自分を主語とする意見表明を一切避けた、掴みどころのない空のおしゃべりになってしまった。それはまず、この談話を発信する対象である「相手」がないからだ。そればかりか「自分」すらそこにいない。

 どこかで見覚えがあると思ったが、文章は文科省認定の歴史の教科書と同じだ。表面的には「過去」の出来事が描写されているようで、そこには主語がない。「飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々」「たくさんの市井の人々が無残にも犠牲になりました」「将来ある若者たちの命が、数知れず失われました」「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」と、あたかもすべて天災などの不可抗力であったかのような言い方だ。飢えや病に苦しませ、殺す原因を作ったのは誰か、たくさんの人々を無残に犠牲にしたのは誰か、若者たちの命を数知れず奪ったのは誰か、女性の名誉と尊厳(この表現もあまりに無責任だが)を傷つけたのは誰か、はここでは一切問われていない。もちろん問いたくないからである。まして「歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです」にいたっては、これが一国の総理が戦後70年という節目に公表する談話の内容だとはとても思えない戯言だ。取り返しがつかないから何も言わないというのが、この国の総理というわけか。

 それでも、世界で初めて原爆を落とされた犠牲国であることに関しての意識は相変わらず高い。今年5月にニューヨークで開催された核不拡散条約再検討会議で日本は、各国の指導者は広島・長崎の被爆地を訪問すべきだという素案を出し、中国の反発を受けてその提案は丸ごと削除された。日本が「被害者」に徹し「加害者」としての意識をさらに捨て去ろうとしているのが認められなかったのは当然だ。

 同じく5月、中国・韓国でかつて日本に強制労働を強いられた被害者の賠償訴訟や慰安婦問題で活躍している日本人弁護士グループがドイツの例を勉強しに訪れ、それに通訳として同行する機会があった。通訳をしたのはドイツの「記憶・責任・未来基金」(以下EVZ)と、ナチスドイツの強制労働者賠償問題に被害者側に立って携わってきたハンブルクの弁護士2人との話し合いだ。「EVZ」は、ナチスによるかつての強制労働者に対する賠償を行う目的で2000年に設立された基金で、基本資金の52億ユーロの半分は国が、残りの半分は経済界が出し、2007年に賠償金支払いを終えている。100カ国に散らばる合計166万人の元強制労働者に合計44億ユーロが払われ、現在は歴史を伝え、人権擁護を訴え、ナチス被害者を支援することを主な活動目的に、教育、若者の理解・交流振興、人権アピールのプロジェクト等を支援したり、奨学金を出したりしている。EVZとはその名が示すとおり、ナチスが行ったあらゆる犯罪、迫害、暴力、強制を記憶し、その規模、実態、状況、結果をはっきりと理解し、今と未来に伝える責任と、同時にその過去を償う責任がドイツにはあるとして、それを行動に示した基金だ。興味深いのは、資金を出した企業には、ナチス時代に強制労働者を雇っていた古い企業だけでなく、戦後できた企業も入っていたことだ。若い会社も「過去の清算を共に負担する」ことでイメージアップを図ったわけである。また強制労働者を雇っていた企業が、その下請け会社にも参加を要求した。実際は、この基金に寄付すればその分税金免除になったため、企業は免税の理由もあって金を出したともいえるし、その分国家が半分以上資金を出したのだともいえる。それでも「過去の清算」をする努力をアピールする意志があり、それを「望ましい態度」として受け入れる社会があったのだ。

 補償を行うにあたり、EVZは調査を丹念に行い、元強制労働者を見つけ出して登録し、強制労働の程度(収容所に入れられた人を最高レベルとして)に応じて賠償金を支払った。しかし期限内に登録できなかった人は、これでもう賠償金を受領する権利がなくなったし、受領した人たちもそれ以上に請求することは不可能になった。その次に私が通訳をしたハンブルクの弁護士2人は、ことにそのことを手厳しく批判していた。つまり、ドイツ国家は「要するにこれだけのことをしたから、もうそれ以上は要求するな」と言えるために、このような方法を選んだのだと。ナチスの負の遺産リストは長く、叩けばいくらでもぼろが出てくるようだ。それでもドイツはまがりなりにも向き合う姿勢を見せ、主語で謝り、「謝る」相手を定義してきている。

 安倍は「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言ったが、安倍が岸の孫であるように、私たちの子や孫は「あの戦争」をしてきた国で生まれ育つ以上、現在に続く関わりを否定することはできない。そこで思い出すのが1998年に小説家マルティン・ヴァルザーがドイツ書籍平和賞を受賞した際、アウシュヴィッツの罪については疑う余地はなくとも、その過去を毎日のように突きつけられては目を背けたくなる、過去の克服が儀式的になり単に道徳的な懲らしめとなっている、記憶の想起、罪の意識、償いは個人的なものであるべきだという主旨を謝辞で述べ、大論争になったことだ。当時のユダヤ人中央評議会議長ブービスはこれを「精神的な放火魔」と糾弾し、いわゆる「ヴァルザー・ブービス論争」に発展した。加害者は「これだけ償いをしたからもういいだろう」という権利はない、ということがこの時盛んに言われたが、謝罪をせざるを得ない宿命を作り出した根本が何なのかを見据えない限り、何も始まらない。謝罪というなら、その罪の内容を把握、分析、理解しなくては謝ることはできない。その罪を誰が誰に与えたのかをはっきりさせない限り、誰が誰に謝ることも、誰が誰を赦すこともできない。しかし発信相手も発信する主語もない安倍の空虚な談話では、お詫びや反省という言葉があろうがなかろうが誰の胸にも入りはしない。彼は主語で何も語っていないし、誰に対しても語りかけていないからだ。このような虚言を敗戦70年の談話として総理大臣がもったいぶって話したのだから、なんとも情けない国である。