2016年2月16日火曜日

フクシマ訪問記

2015年11月に白河のアウシュヴィッツ平和博物館と同じ場所にある原発災害情報センターでのお話会に招いていただき、フクシマ事故後初めて東北を訪れた。そしてその翌日は、原発事故で線量が高くなって住めなくなり、白河に避難して新しい生活を始めていらっしゃるお二人の男性に、被災地を見せてもらう機会に恵まれた。私にとっては、それまで頭で理解していたはずのことが、実際に自分の目で見て衝撃を受けることばかりで衝撃的だった。その話をベルリンに帰ってから友人に話すと、放射線テレックス(Strahlentelex)にぜひ書いてみないかと薦められ、自信はなかったが自分の印象と気持ちを素直に書いてみることにした。それが2016年2月号の放射線テレックスに掲載されたわけだが、お世話になった白河のアウシュヴィッツ平和博物館の小渕さん、私たちに付き合って自分の故郷を見せてくださった横山さん、菅野さんにもう一度感謝の気持ちを伝えるためにも、ここに日本語に訳すことにした。思いがけないすばらしいおもてなしをしていただいただけなく、私たちのために時間をかけて故郷を一緒に回っていただいたことには、言葉では言い表せないほどの贈り物だった。また、今回私はつくづく自分がジャーナリストには向いていないと自覚した。ちゃんとした記録も残さず、メモも走り書きばかりでゆうきさんと雅子さんにあとからいろいろ私の記憶の穴ぼこを埋めてもらった。皆さん、本当にありがとうございました。
(ゆう)

Strahlentelex2016年2月号
本文はこちら:http://www.strahlentelex.de/aktuell.htm#aktuell


フクシマ訪問記
前の晩、雪がしんしんと降り始めた。初雪だそうだ。2015年11月25日。パリに長く住んでいる、バイタリティあるゆうきさんに同伴する形で、私は事故後初めて東北に足を踏み入れた。あの三重の災害があってもうすぐ五年だ。ゆうきさんは寒がりで、あちこちに使い捨てカイロを貼り付けている。白河にある原発災害情報センターの集いの部屋に、お話会の後交流会が行なわれるということで場所を移したが、石油ストーブが燃えている。子供時代を髣髴とさせる石油ストーブの独特の暖かさだ。とりあえず私は、ストーブに張り付いているしかなかった。部屋の中央に置かれた長い机には、次から次へと皿や鉢に盛られたご馳走が並べられていく。参加者がそれぞれこの集まりのために自宅で作り、持ち寄ってくれたものだ。お酒や飲み物、お茶が加わり、予想していなかったご馳走つきの「交流会」が始まった。およそ20人くらいだろうか、白河近郊からこの原発災害情報センターに集まってきたこの人たちが、ことにこの5年来、どのような生活を送り、なにを経験してこられたのだろうか、私には詳しく知る術もない。この情報センターはアウシュヴィッツ平和博物館と同じ土地に建っている。博物館の館長を務める小渕さんは、以前は町から町へと移動してナチの犯罪を伝える展示会を催していたということで、それから展示会を催していた場所が閉鎖になったところ、白河で土地を無償で提供してくれる人が現われ、それでここで博物館を開くことになったという。小渕さんがそこに江戸時代中期の古民家を移築させてさらに建て増したのが、アウシュヴィッツ平和博物館のかわいい建物だ。中に入れば、ドイツの収容所跡や博物館などで見てよく知っているナチスのおぞましい過去の事実を証言する写真や資料、遺品などが展示されている。奥には特別企画の展示室があって、これまでにパレスチナの写真展や世界ヒバクシャ展、チェルノブイリ写真展などが催されてきた。さらに建物の隅にある図書室で、私は生まれて初めて本物のドイツ語の『我が闘争』を手にした(ドイツでは禁止されていたからだが、著作権が切れて、このたび歴史家コメント入りの本が発売されたばかりだ)。どうやら結婚のお祝いに花嫁花婿に町の市長から贈られた本らしい。恥ずかしいことに、私はここに招かれるまで、アウシュヴィッツ平和博物館が日本にあることすら、知らなかった。

招待はゆうきさんを通じて回ってきた。彼女は以前から小渕さんと知り合いで、本当は彼女一人が情報センターで話をするように招かれていたのだ。でも、原発大国であるフランスのあまり幸先のよくない反原発運動の話をしても気が重くなるだけだからと、ちょうどベルリンから東京に来ている私を一緒に招いてはどうか、と推薦してくれたのだった。ドイツの脱原発に至った状況や、エネルギーシフトについて話してほしいということだった。小渕さんはさらに、1泊してくれれば次の日に被災地を見せる、とまで言ってくださった。私はでも、なかなか決心がつかなかった。大体、私などそんなところに行って皆さんの期待に応えられるような話ができるだろうか? ドイツに関するエキスパートであるようなフリはしたくなかったし、そもそもいわゆるダークツーリズムをしたくなかった。被災地をちょっと訪れただけで「私は被災地を見て、被災者たちに会ってきた」というのはいやだったのだ。でも、最終的に行くのを決めたのは、これまでメールや電話でしか話したことのなかった飛幡祐規(たかはたゆうき)さんに実際に会って話がしたかったことと、ドキュメンタリー映画監督の坂田雅子さんが同行するといってくれたこと、そして、いったいどんな人が白河でアウシュヴィッツ平和博物館を営んでいるのか知りたかったからである。

菅野さんはユーモアのある気さくな男性で、年金生活者とは思えぬ若さだ。彼が今回、自分の車で突然失われてしまった故郷を見せてくれるという。もう一人の物静かな同伴者は横山さんといい、高校で日本史の先生をしていたそうだ。実直でとてもまじめそうな男性で、彼は私たちのためにすでに巡回ルートを考えて準備してくれており、その周辺の地図までコピーしてくれていた。私たちが宿泊していた旅館に翌朝迎えに来てくれると約束していたが、ぴったり9時半に部屋の電話が鳴った。受話器をとると、旅館の女性があまりにシュールなことを言ったので、私はあまりに驚いてその言葉を一人胸のうちにしまった。彼女はこういったのである。「アウシュヴィッツからお迎えが来ました」

白河はいわゆる「中通り」にある。奥羽山脈と阿武隈高地に挟まれ、宇都宮の北、郡山の南に位置し、東北新幹線を使えば東京から新白河まであっという間だ。迎えに来ていただいた旅館からまず二本松まで北上し、それから菅野さんの故郷である川俣を通って東へ進み、飯舘を通って南相馬まで行き、そこから太平洋沿岸を東に浪江、双葉、大熊、富岡、楢葉を走る。福島第一原発の事故さえなければ、私はこれらの小さな町の名前を知ることはおそらくなかっただろうが、今ではこの名前はどれも、毎日のように日本から入るニュースで馴染み深くなっている。

菅野さんは農家の出身で、通学に毎日長くかかった、と控えめに語ってくれた。小さいときはバスで、少し大きくなってからは自転車で通ったそうだ。すると行きはよいよいで帰りは大変だったに違いない。彼の家は川俣でも山木屋地区にあり、ここは汚染がことに激しかった地域だ。山木屋は海抜約500メートルほどの山の奥にある。ここでは線量があまり高かったため、町全体が避難する権利を得られるよう町長が奮闘したという。菅野さんの土地からは谷の向こう側に別の部落が見えるが、ここは二本松に属していて、線量は同じくらい高いにもかかわらず、二本松の住民たちは避難の対象とならなかったため、子供を含む住民がすべてここに残った。

菅野さんの家は典型的な日本家屋の黒い屋根瓦を持つ立派な家で、玄関の前に立つ大きな柿の木には、大きな柿がオレンジ色に生っている。まるで絵本のようだ。車寄せ付近に二十個近いブルーの「フレコンバッグ」が並んでいる。おぞましい「フレキシブルコンテナーバッグ」の略だが、これはこの地域の平らな場所にはいたるところに今やあふれかえっている。ほとんどは黒い色で、この袋にはいわゆる「除染作業」で削り取った土が入っている。菅野さんに、ここも除染したのかと聞くと、想像もしていなかった答えが返ってきた。「いや、ここにはうちの家財道具が入っています」町長が住民と一緒になって運動したため、国はここを田んぼも含め除染することを決定した。2013年の8月には、避難指示解除準備区域に指定されたので、家にあるものすべてをフレコンバッグに入れて家の前に出し、収集できるようにしておくようにとのお達しがあったのだが、何カ月経った今もこのままだ、と菅野さんは語る。この目の前に置かれた十数個の水色のフレコンバッグを見て、今菅野さんが話した言葉の意味を理解したとたん、涙が思わずこみ上げてきた。彼の家は大きな地震にも持ち堪え、津波にも襲われなかったのに、目に見えない放射線が、彼の住居を、愛着のあったもの、彼の人生に何らかの意味を持っていたもの、彼と生活をともにしてきたものと一緒にあっという間に汚染し、住めなくしてしまったのだ。彼はあたふたとすべて持っているものをそのままに去らなければならなかったのだ。私は息が詰まる思いがした。原発の最悪事故というのは、そういうことだったのだ。菅野さんは、自分が建てた家、何年も住み、本職の傍ら農業も営んでいた土地が荒れ果て、自分の人生を具象化したすべてがこうして放射性廃棄物と宣言されてプラスチックの袋の中で荒れ朽ちていくのを、傍観していなければならないのだ。私は唖然として言葉も出ないのと同時に怒りがこみ上げてきてたまらなかった。フクシマからの話をたくさん聞いてきたはずなのに、自分には十分想像力がなかったということか。

菅野さんの家に行くには、車道から脇に入った急な坂を昇らなければならないが、その道には格子のついた金属の蓋が乗った下水路と思われる溝が横に走っている。ここに入ったとき、菅野さんがわざわざ車を降りて、コンクリートで舗装された道の上に外して寝かせてあったそのがっしりした格子を溝に戻すのを私たちは見ていた。また車に乗って出発するときに、菅野さんはこれと反対の動作をした。黙ってその様子を見守る私たちに、理由を説明してくれた。「空き巣狙い対策です」

私たちはさらに東に向かう。菅野さんは口数は少ないが時折車窓から「あそこが私の母校の中学です」とか「これが私の通学路でした」と語ってくれる。川俣から飯舘に入ったところにあるモニタリングポストは毎時0.6マイクロシーベルトを示していたが、予想通り私たちが借りて持っていたガイガーカウンターが示すのはそれより高い値だった。浪江の立ち入り禁止の警戒区域に入るところでは毎時0.8マイクロシーベルト。どこをみてもパワーショベルと除染作業員ばかりだ。道路沿いに「除染作業中」と書いた旗がはためいていて、あたり一面、黒いフレコンバッグがぎっしり並んでいる。夏の終わりにはこうして削り取った汚染土を入れた袋が嵐で阿武隈川に流されてしまいスキャンダルとなったので、それ以来通し番号を通すことになったそうで、黒い袋に番号が書いてあるのだが、これだけ信じられない量の数字で果たして意味があるのか、私にはわからない。信じられないほど広範囲の土地、おそらく田んぼだったに違いない平らな土地の表面が削り取られ、フレコンバッグに詰め込まれて何重にも重なって並べられている。このプラスチック容器はもちろん放射能に汚染された土を入れるために作られているわけでも、長期間野外で保管するようにできているわけでもない。フクシマ事故があってから比較的すぐ詰められた袋はすでに風雨にさらされて破け、壊れ始めている。菅野さんは言う。「除染できているのは大体10%くらいです。山はほら、除染しようがないでしょう」

常磐自動車道を通って浪江に向かう。車中で毎時0.5マイクロシーベルトを測定した。それから私たちはつい最近開通された沿岸沿いの国道六号線を走る。国道六号線は事故以来ずっと閉鎖されたままになっていて、津波で残された自動車を運び去ることもできないまま放置されてきた。ちょうど数日前に私は東京で、この地方に住むとても気持ちのよい話し方をする、私たちのお話会にも出席してくれた武藤類子さんの講演に出かけたのだが、その時武藤さんがちょうど、政府寄りの団体が推進して実現した国道六号線の清掃ボランティア活動「みんなでやっぺ! きれいな6国」について話してくれたばかりだった。スキャンダルは、この清掃活動の実行委員会が若者たちをボランティアとして参加させたことだった。約200人ほどの地元の中高生たちが10月10日に、まだ場所によって高線量のこの国道で「ボランティア」としてゴミを拾い、清掃活動に携わった。当然だがたくさんの団体や市民たちがこの「郷土の復興」という名においてなされる無責任な計画ややり方に反対し、抗議した。武藤さんは講演参加者に新聞「福島民友」に掲載された、開沼博(かいぬまひろし)なるいわき市出身の人物が書いた記事をコピーして配ってくれたが、これは、罪なき市民を攻撃し、根拠ない偏見を助長し、殺人者扱いするヘイトスピーチを行なっている、という、この市民団体等の抗議を非難する文章だった。

この国道六号線を南に下り、事故のあった原発に近づく双葉と大熊の間の約14キロほどを進んでいくと、線量計は最高毎時4.8マイクロシーベルトまで上がった。ゆうきさんは約10分ほどはコンスタントに2マイクロシーベルト以上で下がらなかった、と記録している。私はその場で自分の目で見ることと、同時にたとえば若者による清掃活動がここで行なわれたという話を飲み込むことができない。どうして中高生がここでわざわざ道路に立って落ちているゴミを拾わなければならなかったのだ? このプロジェクトはもともと、原発事故が行なわれる前に計画されていたそうで、「ハッピーロード構想」といって桜の木を植える予定だったらしいが、3.11があって延期になったそうだ。このアイディアはだから延期はされたものの中止にはならなかったのだ。誰のためのハッピーロードだろう?

車でさらに進んでいくが、約5年前に津波に呑みこまれたとは信じられないほどの活気だ。ここにはまた元のように生活し、仕事をする人がいて、遊ぶ子供もいるのが、制服を着た中高生や子供の姿で分かる。南相馬では列になって並んで建っている、なんとも殺風景で哀しい仮設のプレハブ住宅を見た。これはもともとは一時的な応急住宅として建てられたはずだが、ここにまだいる人たちにとっては、それが長期の住まいになってしまったわけだ。警戒地区の入口ではユニフォームを着た男の人たちが立って見張っているが、彼らは簡単なガーゼのマスクをつけているだけだ。菅野さんも横山さんも通行許可書を持っていなかったが、横山さんが車を降りて交渉すると、通ってもいいという合図が出て、私たちはゴーストタウンにゆっくり入っていった。浪江だ。地震でつぶれた家屋がまだそのままの形で残っている。歪み、潰れ、傾いたまま、生気なく取り残されている。それでも、あの強い地震に持ち堪えた家屋もかなり多くあったことに驚く。それなら、もちろんここでもう一度復興することはできたはずだ、放射性物質という目に見えない毒がこの土地を半永久的に汚染しないでいたならば。

私たちに同伴してくれた菅野さんと横山さんは、確かに恵まれている方なのかもしれない。お二人ももちろん故郷を、家財道具を一切失ったわけだが、彼らには年金も入り貯金もあり、あの哀れな仮設住宅に留まることなく新生活を白河で始めることができた。きっとそれよりもっとひどい悲劇が、不幸が、絶望的で未来の見えない状況があるに違いない。でも、それでもみんなに共通することが一つある。それは、彼らが皆人生の真っ只中で引き裂かれた、ということだ。それも単に大地震や津波によってではなく、目に見えない、おぞましく気味の悪い毒によって。しかもその毒は一度だけ拡散したのではなくて、今も続いて水に、空気に、食物に、土に流れ込み、家族、友人関係、社会に大きな溝を掘り、傷を深くしているのだ。そういう意味で原発事故というのは戦争と同じだ、これは無作為に与えられる暴力だからである。そしてその暴力に人間は長い時間にわたって絡めとられ、それを耐えることを余儀なくされる。核の脅威といえば普通は核戦争を指すが、核戦争と原発事故はどこが違うのだろう? 私にはその違いが分からない。

横山さんは双葉の出身で、車窓から指してこう言った。「あそこに海が見えます。前はここからは海は見えなかったんですが、津波でみんな倒されてしまったので、今はここから海が見えるんです」確かに遥か向こうに太平洋が光って見える。双葉を通る道路から、横山さんが指で国道の反対側を指した。「あそこに私の自宅があります」私が、家の様子を見に、定期的にお戻りになるんですか、と聞くと、彼は口数少なく語る。「いえ、もう長いこと帰ってないです」以前は何度か戻って最低限のことを済ませていたが、今ではもう長い間帰っていないという。哀しいとか、つらいとかいう形容詞を使わずに、ただ淡々と行動や状況を説明するに留まる彼の口調に、私はでも底なしの哀しさを感じてしまう。もう生きている間にここに戻れることはないと思っています、と横山さんは語った。

いわゆるファミリーレストランで遅い昼食を摂ったが、思いがけず満員だった。ここで私たちは軽食を食べながら横山さんと菅野さんにいろいろ質問した。たとえば原発災害情報センターがどのように設立され組織されているのか、なにをしているのか、などだ。私たちがお話会をしたホールも、それからお食事会となった集いの場所も、両方とも古民家様式と校倉(あぜくら)造で、寄付された木や梁、屋根で有志によって手作りで建てられたものだそうだ。この近辺に住む、自分の居場所ではなかなか自由に発言することのできない人たちがここに集まり、交流する場所、不安、悩み、問題を語りあい、体験や意見を交換する場所となっているのだ。ここで人々は情報を集め、勉強し、話し合い、議論し、どういう問題があるか、なにができるか考えあったり、時にはお酒とおいしいご馳走を持ち合って、生の喜びをわかちあう場所なのである。

高速を通ってとうとう出発点である新幹線の新白河駅まで送っていただいた。丸一日私たちのために割いて案内してくださったお二人を昼食に招くことも許されなかった私たちは、せめてガソリン代だけでも、と言ったが、二人とも頑なに受け取ってくれなかった。「遠くからわざわざ来ていただいたお客様からそんなものはお受取りできません」それではせめて災害情報センターへ寄付としてお受け取りください、と何度も言って、頼むように封筒を受け取ってもらった。

もうすぐあの三重の災害から5年が経つ。恐ろしいニュースはあの時、何段階にも分けて私のもとに届いた。最初は地震、それから津波、そして福島第一原発の爆発だった。津波と爆発後画像で見た、あれほどショッキングな図はこれからはもうあまり出てこないかもしれない。しかし脅威で不安を与えるニュースはこれからも続いていくだろう。傷の深い、不吉な余波は静かにやってきて長く留まり、どんどんひどくなっていく。その間に、それらを近くで見ない人たちはフクシマを日々忘れ去っていくのだ。私がこの短い滞在の間に見たもの、聞いたことは長く余韻となって残った。今でも、菅野さんの家の前の木になっている見事なオレンジ色に熟れた柿が目に見える。そして、その横で菅野さんの人生を形作っていたものが放射性廃棄物となって水色のプラスチックの袋に入れられ、置きっ放しにされていたのを、私は忘れることができない。これらの静かな悲劇を理解するよう努力し、このようなことが二度とあってはならないと思いを噛み締めるのが、私たちのような「外部者」の役目ではないだろうか。この短い滞在で信じられないほどたくさんのことを授かった私は、ここに来ることができたことを本当にありがたく思う。そして今一度思いを新たにしたのは、本当に百聞は一見にしかず、ということであった。