2012年2月13日月曜日

ドイツから見る福島原発事故

ドイツから見る福島原発事故
梶川ゆう

市民の意見30の会「市民の意見」No.126(2011年6月1日)より


3月11日から2ヶ月が過ぎた。ドイツでは日本の原発事故に関する報道は少なくなったが、福島をきっかけに起きた原発撤退の動きが具体化しつつあり、2021年までには全原発が停止する見込みだ。もちろん大手電力会社はあらゆる手を尽くして時間稼ぎをし、「二酸化炭素排出削減には原発は不可欠」「電力不足でフランスから原発電力を輸入しなければならなくなる」などと利権を守ろうとしている。それでも「資源のない日本では原発が不可欠」と思考停止して、再生可能エネルギーの普及を回避してきた日本と比べると、ここ数年で大きく差がついた。代替エネルギー政策でソーラーパネル設置に対する補助金制度や、太陽・風力・水力・バイオマスによる電力の有利な買取条件規定が徹底し、1998年の電力市場自由化以来、ドイツにおける再生可能エネルギーの普及は進み、去年で再生可能エネルギーの占める割合は全体の17%となった(日本は2020年までに10%を目標)。10年後には電力の40%、2050年までに80%を再生可能エネルギーで賄うことを目標としている。なによりも、原発には未来がないと世論が認めている。そしてこの福島の事故で恐怖感はさらに募った。隣のフランスには50基以上の原発があるから危険は変わらないが、どこかが率先して原発撤退を始めるしかない。ドイツ人がこれだけ危機感を持ち、それが政治にも反映しているのは、私にはとても「健康的な反応」に映る。日本が余りに「不健康」に見えるからだ。

福発は6基もあり、この先いつまで危険な状態が続くのか見通しがついていない。しかも大地震はいつまたどこで起きるかわからないのに、まだ20数基も原発が稼動している。政府が子供の被爆量を年間20ミリシーベルトまで許容し、批判を浴びながらもその決定を覆さずにいる様子を見ても、外国人やフリーの記者を記者会見から締め出す様子を見ても、今の日本は、孤立して戦時体制に突入していったかつての姿と重なって見える。政府は今や、汚染地域から住民を避難もさせずに、国民に無理・我慢を強要する不条理な「お上」であるだけでなく、放射能を「安全」と暴言して国民を見殺しにする殺人国家になってしまった。信じられないのは、個人で怒っている人は多いはずなのに、これらの恐ろしい事態がどうして社会的に糾弾されないかだ。九千キロ離れたドイツでさえ原発撤退がすぐに政治課題に上ったのに、原発事故が現実に起きている日本ですぐに原発停止とならないのは、理解しがたい。

日本には過去の汚点、罪などを「水に流す」、都合の悪いことは忘れ、歴史の教科書からも消してしまう「伝統」があるが、今度は放射能汚染水まで本当に「海に流して」しまった。日本は地震・津波の被害者であることを越え、制御できなくなった怪物の吐き出す放射能による汚染を大気・海・大地・地下水に広げる加害者になっているのに、その自覚は一切ない。諸行無常の心情に反して、放射能はほぼ永久的だ。ことに情けないのは、日本が一応「民主主義」の建前をとっていることである。地震国で、50基以上の原発をつくり、「非核三原則」という隠れ蓑の下で「平和利用」の原発を推進する政党を選挙で選んできたのは国民だ。個人のレベルではどれだけ政府の悪口を言い、東電を罵っても、石原を都知事に再選させ、原発批判の記事を一切載せぬ全国新聞をこぞって買い、電力会社傘下のテレビ放送局を高い視聴率で支えているのは、一般の国民だ。

ジャーナリズムとは恥ずかしくて呼べない日本の報道を目のあたりにして、独裁国家から敗戦後同じように経済成長を果たしたドイツが、なぜこれだけ日本とは異なる民主主義を実現できたか、考えずにはいられない。ここに西欧ロゴスの伝統を継ぐドイツ人の合理的論理展開、批判と反省の精神が反映されているのは確かだ。日本との大きな違いは、言葉による意思表示と意見交換を人間としての基本的な行為だとする認識が備わっていることだろう。日本では「話さなくても分かりあえる」のが人間関係の理想のようだが、西欧では基本的に他者を疑ってかかるのが普通だ。人間が多数集まる場所では、互いに意見交換しなければ、不信感を解き協調しあうことはできないという前提がある。だから日本人には想像もつかないほど、個人の関係であれ、ビジネスであれ、政治であれ、議論を尽くすのである。それでも理解しあえない場合は無論あるが、互いの立場は確認できるし、自分の主張の正当性を訴えるため論理武装するので、感情論や曖昧さが排除できる。意見の違いや批判が、相手の人格を否定することにはならず、多種多様な人間のあり方を尊重することが社会の基本だという意識が浸透している。これはまず教育の問題でもある。大人の日本人がまともに「話ができない」理由をドイツ人に説明するのはほぼ不可能だが、今度こそ、健全な「不信感」こそ日本人に欠けている要素だと思うに至った。日本人は小さいときから身分・年齢をわきまえ、目立たず右にならうよう躾けられ、「誰か上の人がうまくやってくれる」ことを想定して生活している。大勢に従っていれば自分で意見を表現する必要はないし、責任を担うこともない。しかし、それこそ民主主義を阻む構造だ。自分で自分の利害を主張しなければ誰も自分のために動いてはくれない、という不信感が基本にあってこそ、民が主体となれる。控えめでしつけのいいその他大勢であることをやめ、対等な人間としての対応を受けない侮辱を意識して「馬鹿にするな」と一人一人が憤らなければ、この構造は変えられない。福島を回って東電役員が「申し訳ありません」と謝罪しているが、これはなにか。謝罪ならなにが間違っていたのか解釈を述べ、過ちを招いた理由を分析し、過ちを正す方法を表明すべきだが、ただ頭を下げて見せる彼らの後頭部はいかにも空しいし、人間性を一切遮断した無機的な表情は異様だ。言語による表現とは、対話する相手に向けられ発言される言葉でなくてなんであろう。彼らの日本語は、密閉の箱の中でアリバイとして流される音質の悪いラジオ放送のようで、生身の人間が相手に理解されようと真摯に発している言葉ではない。

福島の事故発生後、パニックに陥らず「落ち着き払って」見える日本人が理解できないドイツでは、新聞雑誌に日本人のメンタリティーを説明しようとする記事が多々載ったが、その中に日本人がよく言う「しょうがない」という言葉の解釈があった。しかし、今「しょうがない」では、完全な思考停止だ。思考を停止したら人間ではない。原発事故を運命と認めては絶対にいけない。突き詰めて考える能力が今、日本では問われている。

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