2012年9月27日木曜日

やっと収縮の時代へ


2012年8月23日付ツァイト紙書評 
Endlich schrumpfen dürfen 

やっと収縮の時代へ
── Niko PaechとReinhard Loskeが繰り広げる「経済成長妄想」から我々を解放するための論争(フレッド・ルクスの書評)
本文はこちら:

この期に及んで、これまでの資本主義、自由経済主義が行き詰っていることには誰もが気づいている。虚無の欲望(需要)を飽くことなく作り出し、エネルギーを膨大に消費して生産を続け、自然環境を「開発」という名のもとに破壊し、効率とコストパフォーマンスのみを追及するあまり、人間が機械とシステム(金)の奴隷に成り果てていく姿を知りながら、複雑に絡み合って出来上がっているグローバル化した経済構造にとって代わるだけのモデルを持ってくることができないばかりに、構造の分析と部分的な批判に留まっているのが私たちの現状ではないのか。資本主義に対抗する社会主義は崩壊したが、今(破壊寸前の)リベラリズムは、どこからどう手をつけていけば人間的で、生きやすい、地にもう少し足のついた社会が戻ってくるのかは、見当もつかない。この絶望的な八方塞の無力状態は、ことにフクシマ以来日を追ってひどくなってきている。その折、このツァイト紙の書評を読んだ。書評を読んだだけで、実際にその本を読破したわけではないので恥ずかしいが、無力状態に陥らずしっかり考え行動している人たちがいることを改めて感じ、今後の私たちの課題として、一人一人が考えていかなければならない問題だと改めて認識するために、「書評」の翻訳をすることにした。今の日本の政治と経済を見ていても、あまりの無恥厚顔、あまりに巧妙にできあがっている経済の網の目を前に、無力感を感じている多くの日本人が、でも決して「やっぱり何をしてもだめか」「仕方がない」「長いものには巻かれるしかない」と思っては絶対にいけない、ということを何度も自分に言い聞かせるためにも、こういう論争は必要だ。希望は「与えられる」ものではなく、自分の意志として勝ち取っていくべきものだろう。(ゆう)

政治的論争はとうとう、「有限性」の問題に達したのだろうか? 現在、経済成長の限界についての論争がこれだけ高まっているのは、注目に値する。連邦議会は、このテーマに関する調査委員会を設立した。環境評議会では、その鑑定書の中で「新しい経済成長の論争」をテーマにして取り組んでいる。マスメディアでも何度も、経済成長に関する疑念が報告されている。「成長の限界」(訳注: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E9%95%B7%E3%81%AE%E9%99%90%E7%95%8C)が発表されてから40年、このテーマはやっと社会の真ん中にたどり着いたのだろうか? 実はそうではない。経済成長を批判する論争のすぐ隣で、パラドックスともいえる同時さで、2008年に起こった最近の経済恐慌以来といわず、成長に関する「憧れ」はまだまだ強く根付いている。成長は政治にとっていまだに聖域なのである。フランソワ・オランドがこのテーマで選挙に勝ったのは、ついこの間のことだ。

持続性と経済成長の軋轢を緩和しようとする試みは頻繁に行われている。持続性のある成長、というわけだ。簡単そうに聞こえるが、実はそうではない。「グリーン・エコノミー」にかける希望は、概して問題本質の抑圧、技術楽天主義、そして経済性能と環境の消費の連結を引き離そうとする場合には、概念の混同の上に成り立っている。「相対的な減結合」というのが大きく謳われているが、実際は、「完全な脱連結」しか、究極には経済と環境を和解することにはつながらないのではないかと思われる。例えば気候問題など、環境を犠牲にした実際の物質的縮小を見ればよい。この見解をもとに、成長を批判する2冊の本が出版された。Niko Paech著の「Befreiung von Überfluss(過剰からの解放)」とReinhard Loske 著の「Wie weiter mit der Wachstumsfrage?(経済成長問題をどうするか)」である。

2冊とも「グリーンの成長」に対する画一的な信仰を批判しているが、そのスタイルは互いに似て非なるものだ。持続性研究家でありブレーメンで環境大臣を務めたロスケがフェンシングで格闘するのに対し、オルデンブルク出身の経済学者でエコロジック経済連合の会長を務めるペーヒは斧とこん棒を振り回す感じだ。 ペーヒが問題の根源を突く姿勢は、いい意味でまったく過激といえ、同時にそれは悪い意味で、最悪事故のレトリックに陥っていることから、極端だといえる。

「ぬるま湯につかってノンストップの手取り足取りの世話を受け、のうのうと暮らしてきた者たちは、個人の主権性を同時に保持することはできない」とペーヒは書く。主権性とは、やむを得なければ自分の力でどうにかする可能性にだけ、自分の要求を結びつけるものである、と。しかし、誰がここで激しく非難されている「外からの供給システム」なしで生きられるというのだろうか、そして、誰がそれをいったい望むだろうか?

社会的な役割分担が必ずしも悪魔の産物ではなくて、少なからぬ利点ももたらすことが、この見方には少しも現れない。つまりペーヒの処方箋はこうだ。悔い、後退、削減。持続性が確かなものになるためには、我々はすべてを変えなければならない、というわけだ、しかも今すぐに。率直に言えば、とか、少し逸脱する、とか気乗りがしない、などというのはどれもお門違いだ。

この命令口調だと、理解を示す可能性のある人間を追いやってしまう危険がある。たとえば、「持続性ある」車、建築、または消費物資などは、それ自体あるわけがない、というところなどがそうだ。生活スタイルしか、持続性あるものにすることができないという。「一人一人の主体の行為を総括したエコロジカルな効果の集まりしか、その持続効果を可能にすることはできない」と。しかし、ペーヒが述べるこれらの行為の条件がここではあまり問われないのが残念である。政治的に要求をしていくことは避けられないが、社会批判を有用なものにするには、ことに生活のスタイル自体を問題にしていくしかない、というのである。

ペーヒは、「経済成長に批判的な未来を構想するのは、その実現がよきにつけ、あしきにつけ、政治的な路線決定に依存せざるをえないので、どれもまったく時間の無駄だ」という。このような診断書を読んで感銘を受ける人はあまりないと言っていいだろう。問題の焦点をただ個人の責任だけにゆだねるのは、もしかしたら良心的な現代人にとっても過大な要求であるかもしれないということが、著者の頭にはない。「Privatisierung der Nachhaltigkeit (持続性の私有化、Armin Grunwald著)」に関し意義ある論争があったことも、ペーヒの耳には入らなかったようだ。

それに対しラインハルト・ロスケは、持続性とは、何よりも政治的なプロセスだと主張する。彼の本のタイトルが「質問」の形態をとっているのは決して偶然ではない。まず最初の文章で著者は、自分のテキストは「インターアクティブな本」である、つまり自分を批判する人たちとの会話としてあるべきだと述べており、この路線を彼はこの本で一貫して通している。ロスケも持続的成長という妥協文句に対し、懐疑的だ。彼の結論はこうである。「家庭や世界での持続的発展に貢献できるのは、我々がどれだけ今までよりずっと少ない資源消費で生活の質、社会的なまとまり、経済的な活力という目標に近づけるか、その方法を信憑性高く示していくこと以外にないはずだ」。ペーヒと同じようにロスケも、持続性への移行が決して快適でも、生活スタイルの変更なしに行われるとも思っていない。しかし、彼は思索のプロセス、楽しみ、そして創造力に期待をかけている。「ほかに方法がない」というのは、彼が決して使いたくない言葉なのだ。

ロスケは「これこそ経済的問題の解決策だ」と言えるものはないことを知っている。節制やスピードを緩める、などの個人的な振舞いへのヒントは「意味のある推奨内容かもしれないが、これは与えられた条件では実際に、物質主義を通り越した価値観を持つ人間、つまり生活・生存の不安を持たないで生きられる人間にしか向けられない。だからこそ将来は、持続性のあらゆる側面を包括する、節制的政治のための枠組み条件とはなにかを徹底して問うことが、欠かせない」、それを通して初めて「体制(システム)の問題」も問うことができるようになるのだと、ロスケは説明する。我々は、われわれが身をもって体験して来たような資本主義体制のの終焉にあるのだ、と。

ロスケがドイツ連邦首相アンゲラ・メルケルの言葉を引用している箇所がある。この言葉は、この2冊の本を読んだあとには「突飛」とも感じられる言葉だ。メルケルは、成長がなければ最終的にはなにもかも無駄だ、というのだ。成長、経済成長こそすべてだ、と。これを口にすれば、多数派側についていることになる。今はまだ。

この2冊の本は、絶えることなく続くという経済成長の不条理さをまったく異なった方法で論じている。メルケルさん、どうかこの本を2冊とも読んでくださいよ!

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