2014年2月13日木曜日

発想と戦略の転換期

発想と戦略の転換期

「市民の意見30の会」141号に投稿(ゆう)

 柳父章著「翻訳語成立事情」を読んで、思わず唸ることがあった。Societyの翻訳語である「社会」ということばは、明治十年代以降盛んに使われるようになって一世紀以上経つが、Societyに相当する概念がなかった日本語で、これを表わすのは容易ではなかった。「相当することばがなかったということは、その背景にSocietyに対応するような現実が日本になかった、ということ」だと柳父氏は書いている。そして「社会」という訳語が造られ定着してからも、決してSocietyに対応するような現実が日本に存在するようになったわけではない、それは、今日の私たちの「社会」とも無縁ではない、と続く。仲間、組、連中など、狭い範囲での人間関係を表わす場合には似たような事実が見出せても、広い範囲の人間関係という現実そのものが日本にはなかった。Societyとは窮極的には個人Individualを単位として互いに交流しあって作り上げる広い人間関係であるのに対し、日本には身分としてしか人が存在せず、「国」や「藩」はあっても、個人の顔が集まって作り上げるSocietyはなかったのだ。また、Individualがわかりにくいことばだった。社会を「交際」ということばの発展で訳そうとしていた福沢諭吉は、これを「人」「一身の身持」「独一個人」などで表現しながら、日本の現実を「権力の偏重」と分析していた。権力はことごとく治者に偏り、それは被治者である「人民」と交わらない領域であり、根底には「交際」の単位であるべき、独立して自家の本分を保つ「人」が欠けている、と福沢諭吉は捉えていた。権力者がことごとく「顔なし」(責任者の不在、首尾一貫性・根拠のなさ、全体主義などに現れる)であることは、現在も変わりがないではないか。日本に「社会」はないのだ。


フクシマの事故から三年半が経った。私は「なにか私にもできることは」という切羽詰った気持ちで、ドイツからの情報を翻訳して提供するよう努めてきたつもりだが、汚染水問題、「除染」という名の茶番、避難民の「帰還」強制、最悪労働条件で被ばくを重ねては使い捨てされる原発労働者、実行されぬ損害賠償、「風評」というまやかし、はたまた被害者も被害地域も見捨てたまま、「放射能は完全にブロック」と嘘をついてまで獲得した、莫大な税金が投げ込まれることになるオリンピック開催にいたっては、絶望感に押しつぶされ、今更ドイツからそれぞれの問題点を批判する気にも、ドイツでの反応を紹介する気にもなれないでいる。

事故後から私の気に入らないのは、日本にいる人からも、海外に住む日本人からも、「日本は外圧に弱いから、外国政府や海外の権威ある団体に訴え、そこから日本を非難してもらい、そのプレッシャーにより政府や東電が考えを改めるざるを得ないように仕向けてほしい」という要望だ。藁にでもすがりたい状況であるのは事実として、この「外圧待望論」は、単なる他力本願、人任せの態度に過ぎない。日本政府や原子力ムラが、それより「大きい」権威に「物言い」され、対抗できずにしぶしぶ妥協して方針を変更するというようなことで解決できる問題ではまったくないだけでなく、自分では手をこまねいていても、スーパーマンや水戸黄門が現れて「悪者」を退治してくれればいいという、安易な希望だ(今話題の山本太郎の天皇への直訴も、根本的には同じ発想だ)。海外に日本の現況を報告していくことは必要だし、世界各地からの正当な批判も非難も受け入れなければいけないが、それは「悪者退治」を請うためではないし、そんなことが情報交換の目的であってはならない。それよりするべきことがほかにある。

今日本は、フクシマ事故、原発政策をめぐる諸々の問題に限らず、改憲問題や秘密保護法、TPP、全国で蔓延するヘイトスピーチを始め、憂うべき問題にあふれている。危機感が募りあらゆる形で行動している市民も増えている。専門知識と明晰な分析力をもって状況を判断し、筋の通った理論で批判し、確かな情報を与え、反対運動の大きな力となっている人もいる。しかし、これだけ根拠ある反対意見があり、集会やデモ、勉強会などを行い、法廷で闘い、現実の歪みを正当に訴えている市民がいながら、それがなぜ全体を動かすだけの力となり得ないのか。私はドイツの友人たちから、これだけのことがあってなぜ日本は原発推進政策を変えないのか、市民運動が広がらないのか、チェルノブイリ後のドイツのように、生命環境に対する意識変化が大衆に浸透しないのか、とよく聞かれ、そのたびに説明に苦しむが、それは実は、西欧のことばの重みを基準に日本を分析しようとするからだと思うに至った。ドイツでは戦後、ことに68年の学生運動以来、徹底的に過去の権威主義が総括され、民主主義や人権といった概念を意識して定義することにより、その意味するものに言動を照らし合わせ個人個人が、生き方を合わせていくことが当然となった。だからその個人の集まりである社会も変換していくことに成功し、政治のあり方も改まった。つまり、納得できる価値ある信条、主義、倫理があって、それを基準に生き、言動するということで、矛盾があれば追及・非難され、改善が求められる。それはことばによって自分も他者も、はたまた政治や経済も縛っていこうとする論理的かつ合理的な理想のあり方だ。もちろん理想だから完璧ではなく、矛盾もたくさんあれば、主義主張も多様だ。ただし、誰もがことばを駆使して批判に応じ、自分を正当化するだけの力を持つことが当然とされる。それがことばの国の方法だし、実際に議論を戦わせて完璧な論理に納得・説得される場合もある。ただ、それを日本に求めても無意味だ、と私は思うに至った。日本は、ことば(ことばで定義する原則、信条、主義、筋道)で人が動く国ではないのだ。だから、どんなに「顔」を持ち始めた個人がことばを尽くしてなにかを訴えても、入口のない壁にぶち当たるだけだ。ここにはインタフェースがない、アクセス不可能だ。形式だけで実のない民主主義で「選ばれた」体裁の政治家が、陰の顔なし権力者(経済、利権まみれの官僚等)と共にその体制を維持し、外圧があればその場しのぎに対応し、誤魔化し、結局は思い通りに壁の向こうの談合決定を被治者に押し付けるだけの日本に、西洋式の啓蒙、徹底した話し合いによる問題解決、市民参画の民主主義、ましてや政治を変えるほどの市民運動や革命を求めるのが無理なのだ、と思わざるを得ない。私は、西洋中心主義的見解から日本は遅れている、と言っているのではない。ただ、ことばの重みを基に個人が考え、言動するという西洋的理想が通用しないこの国で、現実との軋轢に悩み、世の不公平や矛盾に憂慮する市民たちがどう社会を動かすだけの力になれるか、発想と戦略の転換が求められていると思うのである。私にも、どういう形なら可能なのかは、まだわからない。でも日本に合うやり方を見つけていかなければ、壁の向こうの顔なしたちは今後も、市民のことばによる抵抗など無視してしたい放題、個人がなく身分しか持たぬ大衆は仕方がない、と黙り続けていくだろう。どこの根を捉えて「根回し」をしていくべきかが、現在の最大かつ緊急の課題である。

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