2020年1月4日土曜日

2019年12月6日

アウシュヴィッツ・ビルケナウ基金創立十周年記念式典におけるドイツ連邦共和国首相アンゲラ・メルケルの演説


演説全文(ドイツ語):https://www.bundeskanzlerin.de/bkin-de/aktuelles/rede-von-bundeskanzlerin-merkel-zum-zehnjaehrigen-bestehen-der-stiftung-auschwitz-birkenau-am-6-dezember-2019-in-auschwitz-1704518
日本語字幕付き動画:https://youtu.be/vVuX99hwYnI



ポーランド首相、基金理事長、大使各位、
とりわけ証言者の皆さま
お集りの皆さま

今日ドイツ連邦共和国首相としてこの場で皆様にお話しするのは、非常に難しいことです。この地でドイツ人によって繰り広げられた残虐な犯罪、理解の限界を超えた犯罪を前に、私は深い羞恥の念にかられます。ここで女性、男性、子どもたちに対し行われたすべてのことを思うと、本当はその恐ろしさに言葉を失うよりありません。どんな言葉ならあれほどの痛嘆を表現できるというのでしょうか? ここで屈辱を受け、苦しめられ、殺されたたくさんの人たちの嘆き、悲しみを? それでも私は敢えて言いたいと思います。これほど大きな人類に対する罪の象徴であるこの場所で、どんなにそれが難しくても、沈黙が私たちの唯一の答えであってはならないということを。この場所は私たちに、記憶を鮮明に保っていく義務があることを教えています。私たちはここで行われた罪のことを思い出し、それをはっきりと名指しで呼んでいかなければなりません。

アウシュヴィッツ、この名はヨーロッパに住む何百万人というユダヤ人たちの殺害、ショアーという文明の断絶を意味する名です。ここで人としての価値観がことごとく犠牲となりました。アウシュヴィッツはまたヨーロッパのシンティ・ロマ人に対する大虐殺を意味する名でもあります。ポーランドの政治犯と知識人の代表者たち、ソ連やその他の国の抵抗運動者や捕虜の方々、同性愛者、障害者そしてヨーロッパ各地の数えきれないほどの人たちが受けた苦しみや殺害を指す別名です。アウシュヴィッツでの人々が受けた苦しみ、ガス室での死、飢え、寒さ、伝染病の蔓延、残虐な人体実験、消耗し命を落とすほどの強制労働、ここで起きたことは、人間の理性で把握できることではありません。

アウシュヴィッツの収容所だけでも、ユダヤ人を主とする最低110万人の人が計画的に、冷酷にシステマチックに殺害されました。その人々の一人一人にはでも名前が、譲り渡すことができない尊厳が、出身が、生い立ちがありました。しかし家畜用の貨物車に押し込まれての強制移送から、到着後の手続き、そしていわゆる「選別」まで、どれをとってもその人々から人間性を奪うこと、その人間としての尊厳、一人一人の個性人格を奪い去ることが徹底して行われました。

この場所の正式な名称はユネスコの世界遺産と認定されている「アウシュヴィッツ・ビルケナウ  -  ナチスドイツの強制・絶滅収容所(1940年~1945年)」です。この名前を完全に言うことが大切です。オシフィエンチムはポーランドにありますが、1939年10月にアウシュヴィッツはドイツ帝国の一部として併合されました。アウシュヴィッツというのはですから、ドイツの、ドイツ人によって運営されていた絶滅収容所です。この事実を強調することが私にはとても重要です。犯罪を犯した者の名をはっきり口に出すことが大事です。被害者に対しても私たち自身に対しても、そうする義務が私たちドイツ人にはあります。

犯罪を思い返し、犯罪者の名をはっきりと口に出し、被害者にその尊厳にふさわしく思いを寄せようとすること、それは決して終わることのない責任です。この責任は交渉不可能のもので、私たちの国と繋がっていて切り離すことはできません。この責任に対する意識を常に新たにしていることが、私たちの国にとっては大切なアイデンティティの一部であり、誤りを悟り、自由を尊ぶ社会という自己理解、民主主義と法治国家としての自己理解の一部です。

今日ではまたゆたかなユダヤ人の営みがドイツで見られるようになりました。私たちは多彩で友好的な関係でイスラエルと結ばれています。これはでも、当前なことではありません。これは大きな贈り物、いや奇跡とも呼ぶべきことです。それでも、起きたことをなかったことにすることは不可能です。殺害されたユダヤの方々を生き返らせることはできません。私たちの社会にはこれからも空白が埋まることなく存在し続けるでしょう。

70年前ドイツ連邦共和国で基本法が施行しました。この基本法では恐ろしい過去の出来事の教訓が生かされています。しかし私たちは次のことも理解しています:侵害することのできない人間の尊厳、自由、民主主義と法治国家としての存在、これらの価値はこんなにも貴重なものであるにも拘わらず、壊れやすいものでもあることを。だからこそ私たちはこの根本的な価値を、毎日の暮らしの中においても、国家としての行動においても、政治的論議の中においても、繰り返し新たに強固にし、改善し、保護し、守っていかなければなりません。

これはことに今日、単なる言い回しではないのです。今こそ、そのことを明確に述べる必要があります。というのは、私たちは憂慮すべき人種差別主義、どんどん跋扈しつつある不寛容さ、ヘイトクライムの波に現在遭遇しているからです。自由主義的民主主義の基本価値や、特定のグループの人たちに対する憎悪を煽る危険な歴史修正主義に遭遇しているからです。ことに私たちはドイツやヨーロッパ、それ以外の地域で、ユダヤ人の生活を脅かすユダヤ人排斥主義に目を向けたいと思います。

それだけに私たちはより明確に、決然と表明する必要があります。ユダヤ人排斥主義を私たちは決して赦しはしないということを。誰であれドイツで、ヨーロッパで安全に居心地よくいることができなければなりません。ことにこのアウシュヴィッツは、日々油断なく注意するよう、人道性を守るよう、そして隣人の尊厳を保護するよう、私たち一人一人に義務を負わせ、戒めています。

百年前にトリノで生まれ、モノヴィッツ収容所で強制労働者をさせられていた、アウシュヴィッツから生還したプリーモ・レーヴィが後日書いています:「一度、起きた。従ってまた起きる可能性がある」と。だからこそ私たちは人が虐げられ、屈辱を受け、迫害された場合には、目と耳を塞ぐことは許されないのです。私たちは別の信仰を持つ人々や出身が違う人々に対して偏見や嫌悪を焚きつける人たちに向かって、反駁していかなければなりません。

私たち一人一人が、その責任を負っています。そしてその責任には、追悼も含まれます。私たちは決して忘れてはならないのです。このことにご破算ということはあり得ません。そしてこのことを相対化することも許されません。

これをアウシュヴィッツから生還した、そして国際アウシュヴィッツ委員会のかつての会長ノアー・フルグの言葉を借りて言うなら、こういうことです:「思い出は(……)水のようなものだ。思い出は生きるために欠かせない物であり、思い出は新しい空間へ、別の人間へと生き延びる道を模索していく。(……)思い出には賞味期限はなく、思い出を決議で処理済みとか完了と宣言することはできない」。

ノアー・フルグが述べたように、この人生に欠かせない思い出が生き延びる道を探し、それを見つけることができたのは、数々の証言者の賜物であり、そのことに私たちはとりわけ深く感謝するものです。ですから、今日ここにその中の数人とお目にかかることができたことをとてもうれしく思っています。あなた方はこれまでも、そして今日も繰り返し、与えられた苦しみに満ちた時期のことを私たちのために報告してくださいました。この苦しい体験を何度も思い浮かべ、ましてや苦しみを受けたこの場所に戻ってくるのがどれだけ力を要することか、想像できる人がいるでしょうか? あなた方はそれでもその話を語ってくださり、若い人たちがそこから学ぶことができるようにしてくださっています。あなた方は和解に必要な勇気と力を奮い起こしています。真の人間としての大きさをあなた方は示しているのです。私はあなた方のお話を聞き、学ばせていただけることに心から感謝しています。

アウシュヴィッツが解放されてからまもなく75年になります。その頃の体験談をしてくださる方は年々少なくなっています。そのことを作家のナヴィド・ケルマニがとても的確に言い当てています:「(……)あらゆる警告の記念碑、躓きの石、追悼式が対象としている記憶がしっかり心に焼き付くためには、ドイツが人間の尊厳を粉砕した場所、血の雨を降らせてしまった国々に、その後に続く年代の人々が自ら赴き自分の目でその場所を見ることがますます重要になってくるだろう」。

加害者は多数の場所でその足跡を消そうと試みました。ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカといった絶滅収容所でも、またマリィ・トロステネツやバビ・ヤールでも、spそてユダヤ人、シンティ・ロマ人、その他の人々、あるいは村民全員が殺戮されてしまったこともある何千というその他のヨーロッパの土地で、足跡が消されようとしました。

しかし、ナチス親衛隊もその手先もここアウシュヴィッツではその足跡を消すことは叶いませんでした。この土地そのものが犯罪の証明です。この証明は維持されていかなければなりません。アウシュビッツを訪れ、見張り塔や有刺鉄線、バラック、監房、ガス室の残り、焼却炉を一度見た人は、その思い出から解放されることはありません。ケルマニが書いているように、「心に焼き付いて」しまうからです。

アウシュヴィッツで政治犯としてここに収容されていたヴワディスワフ・バルトシェフスキ氏はかつてポーランドの外務大臣も務めた方ですが、彼が十年前にアウシュヴィッツ・ビルケナウ基金の創立を呼びかけました。

(アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館館長)クウィンスキさん、この記念館を、警告の碑そして資料館として保存することが基金の任務だと、そのことに尽力してくださっているあなたとそのほかのチームの皆様に、私は心からお礼を申し上げます。また、修復・保存プロジェクトに携わっているすべての方々にも感謝の意を表したく思います。皆さんの真剣な取り組みがあるからこそ、この場所がこれまで貴重な証言をし続けることができましたし、これからもそれが維持できます。レンガ造りのバラックはこれからも長期保存できるように確保されましたし、発掘作業が行われ、擁壁も作られました。シェルターテントも造設され、被害者から奪った洋服、持ち物も修復され保存されました。

保存計画はこれから先25年間、これまでよりずっと高い額の資金を基金から必要とします。ドイツはその資金に対し主要な寄与をすることにしました。このことを昨日、連邦共和国の各州の首相と共に決定しました。

この基金およびたくさんの国際的なガイドのお陰で、この記念館は学習、省察、意識育成の場となっています。「ノー・モア」というメッセージがこれだけ感銘深く響く場です。そのことに対し、私はとても感謝しています。

それでも、ここで殺された方々を生き返らせることはできません。何事も、これほどの前人未到の犯罪をなかったことにすることはできません。この犯罪はドイツの歴史の一部であり、これからも一部であり続けるのです。この歴史は繰り返し語り継がれていかなければなりません。私たちが注意を払い続けていけるよう、このような犯罪が、たとえ兆候であっても、決して繰り返されることのないように、嫌悪を催さずにはいられないあらゆる現象で表現される人種差別主義と反ユダヤ主義に対し、決然とした態度で私たちが立ち向かっていけるように、です。この歴史は、私たちが今日も明日も人間一人一人の尊厳を守っていけるよう、そして被害者の方たちを名誉ある形で追悼できるよう、繰り返し繰り返し語り継いでいかなければいけません。

ヨーロッパの様々な国からアウシュヴィッツに連行された方々を私たちは追悼します。ことにアウシュヴィッツ強制収容所は もともと政治犯のために設立されたため、政治犯もたくさんいましたが、たくさんのポーランドの被害者を追悼します。600万人もの殺戮されたユダヤ人、ことにここアウシュヴィッツ・ビルケナウで殺された約100万人のユダヤ人を追悼します。私たちは強制連行され、苦痛を強いられ、殺されたシンティ・ロマの方々を追悼します。私たちは銃殺により大量殺戮された被害者の方々を追悼します。ゲットーに連行された方たち、死の恐怖の中、身を潜めた方たち、そして故郷を離れ逃げなければならなかった方たちを追悼します。私たちは家族、友人、故郷、家庭、希望、人生計画、信頼や喜び、そして尊厳と、なにからなにまですべてを失ってしまった方たちを追悼します。私たちはまた、戦争が終わった後何年間もさまようことを余儀なくされた方たちを追悼します。それから亡命者として収容所に留まらなければならなかった方たちを追悼します。

それを生き延びた方たちは皆、身に起きた恐怖が全身に刻み込まれています。マルゴット・フリートレンダーは回想録の中でこう書いています:「皆、自分が人間であったことをもう一度学び直さなければならなかった。自分が、名前がある人間だということを」と。

ホロコーストの生存者の中には、なぜ自分が生き残ったのかと自問する人も少なくありません。どうして妹ではなかったのか? どうして親友ではなかったのか? どうして自分の母親や夫ではなかったのか? 自分の大切な家族がどこでどのように殺されたのか長いこと知ることもできなかった、または一切知ることができない方々がたくさんいます。この傷は決して癒えることがありません。

それだけに、その痛みや思い出を分かち合い、和解のために貢献しようとその話をしてくださる方たち一人一人に、私は心から感謝します。私はその方たちの前に深く首を垂れます。ショアー(ホロコースト)の被害者を前に、私は深く首を垂れます。その家族の前に深く首を垂れます。

今日ここに出席させていただき、ありがとうございました。

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