2020年8月14日金曜日

2020年8月6日付けツァイト紙

「ファットマンが遺した猛毒」

 

本文はこちら:https://www.zeit.de/2020/33/us-nuklearanlage-hanford-nagasaki-hiroshima-atomwaffentests-strahlung
 

日本の敗戦から75年。広島・長崎原爆投下からも同じだけ歳月が経った。各地における当時の責任者、権力者、司令官、加害者、命令に忠実に従って大きな歯車の中のネジとして機能した名もなき多数の「陳腐な悪」者はほぼこの世からいなくなり、その間に第二次世界大戦が始まり終わるまでの経緯は忘れられるかいいように修正され、その代わり後遺症、「負の遺産」は今も深く残っている。それだけではなく、フクシマ事故や未だに行われている核兵器開発、原発操業に見られるように、今も進行形で人類が招き続けている冥界の使者として核・原子力問題は私たちの生命と未来を脅かしている。今年はコロナ禍で各地であまり大きなメモリアルイベント・デモ等が開催できなかったが、このツァイト紙で見つけた記事を訳すことで私のささやかな「追悼アクション」としたい。(ゆう)

 

「ファットマン」が遺した猛毒

アメリカの原爆が広島と長崎を破壊したのは今から75年前のことだ。これらの兵器は アメリカでも傷跡を残している。当時出された核廃棄物が当時も今も人間に健康被害を与えている旧核施設ハンフォード・サイトを訪れた。

報告:Caterina Lobenstein


ハンフォードのエンジニアたちは、戦争が残した「汚物」を適切に廃棄するために、ありとあらゆる手の限りを尽した。彼らは放射能を最小限に抑えるためコンクリートの覆いを作ったし、廃棄物を貯蔵するためのトンネルを掘らせた。それから放射性物質の溶融スラグを保管するための巨大なタンクを作らせた。メンテナンス計画書を作成し、安全テストの予定を組み、確率計算を行いリスクを査定した。でもたった一つ彼らが計算に入れていなかったことがあった。それはドナルド・トランプのような大統領が出現することだった。

ハンフォード核施設はアメリカ北東部、ワシントン州にある。シアトルから車で東に3時間走ったところだ。人口の少ないアメリカの田舎である。この地方は、まるであらゆる色という色を洗い落としたような風景だ。灰色と茶色がかったステップ草原、褪せた黄色っぽい丘、日に焼けた草。その中をくねくねと幅広い帯のようにコロンビア川が流れている。その河畔にかつての原子炉が入ったコンクリートの廃墟が風化している。数キロメートル行ったところから警告標識や背の高いフェンスに囲まれた立ち入り禁止区域が始まる。

この場所に来ても、どれだけ強い毒性なのかは全くわからない。匂いもなければ音もしない、何も見えない。立ち入り禁止区域の中で地面から突き出ているパイプが地面の下にある危険な廃棄物のことを想起させるだけだ。そしてここから何千キロと離れた場所で、ある兵器が 爆発した日のことを。この兵器の破壊力はあまりにひどかったため、それからもう誰もその兵器を使おうとしないでいるのだ。

1945年8月9日にアメリカの爆撃機ボックスカーが原子爆弾を日本の長崎市上空に投下した。この爆弾をエンジニアたちはファットマンと命名した。その3日前にはリトルボーイが広島を完全に破壊しつくしていた。推定で少なくとも4万5千人の人が即死、長崎では2万2千人と言われている。その中でもことに膨大な爆風と熱に晒された人たちからは灰すら残らなかった。さらに1万人が放射性フォールアウトの結果、白血病や甲状腺がんなどで命を落とした。日本ではこのような人たちを表現する言葉がある。被ばく者、というのだ。

核兵器の破壊力は、その中で引き起こされる連鎖反応によるものだ。この連鎖反応を起こすには、核分裂性物質が必要だった。広島の原爆ではウランが用いられ、長崎の原爆ではそれがプルトニウムだったが、これはちょっと前に発見されたばかりの珍しい要素だった。当時これを大量に製造することができた世界で唯一の場所がハンフォードの原子炉だった。これは細長い煙突が立つコンクリートの塊が入り組んだ建物で、どこともいえないような藪の中にあった。

今日ではこの建物は観光名所だ。グレーのリノリウムの上にミントグリーンの線が引かれた廊下を通って15メートルの高さで眩いばかりに電気が煌々と灯るメインホールに入る。ここには黒鉛の巨大な塊があるが、この中に燃料棒が押し込まれている。その前に立つのが、青のポロシャツを着たガイド、マーティだ。彼はコロンビア川からポンプで汲みとられた冷却水が流れたというパイプを指で指すが、量は一分間に30万リットルだったという。それから原子炉内部で起こっていることを監視するための繊細な測定器各種、それからプルトニウムの重さが測られたという金の秤を見せてくれる。

40年代初めにアメリカ政府はマンハッタンプロジェクトという秘密計画の名の下に、原子力爆弾を開発するための国際的な科学者チームをここに呼び寄せた。この新兵器を戦争の決め手にしようというのだった。

研究者たちが目標に近づけば近づくほど、核分裂性物質への要求も激しくなった。1943年にアメリカ政府は4万人の労働者をハンフォードに送り、僅か数か月以内でプルトニウムを濃縮するための巨大な原子炉を建設させた。そのためいくつもの村が移住を余儀なくされ、この核施設の名を飾ることになったハンフォードという村もその1つだった。何もなかった土地に何百というバラックが建てられ、大厨房も設けられた。建設工事ではたった1日でなんと2500キロのソーセージが平らげられたものだ、とガイドのマーティが語る。工事に携わった労働者は、戦争に重要なインフラ整備を建設しているのだということは言われていたが、それがなんなのかを知っている人はほとんどいなかった。原爆製造は極秘の機密計画だった。

狭い廊下を通って原子炉の制御室に行くと、ここには何メートルもの台にレバー、スイッチ、ランプが並んでいる。壁には時計がかかっているが、その針はこの施設のどの時計でもそうなように10時48分で止まっている。1944年9月28日のこの時刻にハンフォードの原子炉は操業を開始したのだ。世界最初のプルトニウム工場である。

1945年7月、アメリカ軍は最初の原爆実験を行った。それからまもなく爆弾が広島と長崎に投下され、日本は降伏した。アメリカ政府は、原子力爆弾が世界に平和をもたらしたと公言した。今日ではたくさんの歴史家が、太平洋戦争を終結させるのに核兵器は必要でなかったと信じている。

ハンフォードほど放射性廃棄物がある場所は
アメリカのどこにもない

数年後、核軍備競争の時代が始まった。1949年にソ連が初の核実験を行い、ハンフォードはフル回転した。コロンビア河畔に原子炉がさらにいくつも建設された。それから数十年の間、ここで74トンのプルトニウムが製造された。これはアメリカにあるウランの量の3分の2以上である。1963年当時の大統領ジョン・F・ケネディがこの施設を訪れて、こう言った。「ここで働いている諸君は新たな世界史を書いているのだ!」

しかし世界史は別の転回をたどった。80年度後半にアメリカとソ連は軍縮条約を結び、1987年にハンフォードは操業停止となった。

この核施設の歴史はでもまだまだ終わらない。何十年もの間ここは 軍事的立ち入り禁止エリアだった。今ではとにかく民間の監査機関がここに入ることが許されている。そして住民たちや環境保護団体が恐れてきたことを確認した。つまり、プルトニウム製造により夥しい量の生命を脅かす廃棄物が残されたということだ。何トンもの放射性廃棄物が地下に埋められるか川に流された。2億リットルもの、極めて危険なスラグ、液体が177台の地下のタンクを満たしているが、このタンクは1つ1つがほぼ4階建ての建物くらいの大きさである。

これらのタンクの多くに漏れがあり、中身が流れ出して地下水を汚染している。1800種類もの化学物質がタンク内にあると識別されているが、その中には発ガン物質のものもあれば、爆発の危険が高いものもある。プルトニウム239、ストロンチウム90、水銀、ニトロソアミン、ベンゾール。このように科学者、弁護士、市民たちの団体Organisation Hanford Challengeが記録しており、放射性排気物質の妥当な処理を求めている。

そのための計画はもう長いこと存在している。アメリカのエネルギー省は何年も前に地下水を浄水し、スラグをガラス固化すると約束した。2008年にそれは開始の予定だった。今ではその計画はしかし、2036年まで延期されてしまった。

Hanfordはしかし、マンハッタン計画がその傷痕を残した唯一の場所ではない。広島の原爆に使われたウランが製造されたテネシーのオークリッジがそうであり、最初の原爆実験が行われたニューメキシコ州アラモゴード近くのホワイトサンズミサイル実験場がそうである。50年代にはサウスカロライナ州に巨大な核複合施設サバンナ・リバー・サイトが誕生した。しかし、そのアメリカでもハンフォードほどたくさんの核のゴミが置かれている場所はほかにない。ここにはアメリカ合衆国の放射性廃棄物の3分の2が貯蔵されている。1500キロ平米以上の面積を持つこの土地は、ハンブルク州の2倍ほどの大きさだ。これほどの場所を除染するのは何百年もかかる大課題である。そして時間との戦いでもある。2017年5月に放射能のゴミが詰まったトンネルが崩れ落ちた。トンネルシステムを支えていた木製の梁が朽ちたためだと、今年初めに出された調査報告に書かれている。また安全規則が厳しく適用されていない、さらなる事故が起こる可能性が高いとも報告されている。

エネルギー省が9千人以上の労働者を雇い、政府も毎年25億ドルを供給しているにもかかわらず、除去作業は遅々として進まないのが現状だ。Organisation Hanford Challengeの弁護士であり代表を務めるTom Carpenter氏によれば、除去作業はこれからももっと遅くなるに違いない、という。これまでどの政府にも重大な事故や失敗はあったものだが、今の大統領は除染に関して言えば「深刻な危険」だ、と彼は語る。ハンフォードではトランプが注意を向けるかもしれないわずかな時間に、ここで製造されたプルトニウムの半減期が対比させられているのだ。それはなんと24,110年である。

ドナルド・トランプが核兵器に興味がないというわけではない。彼はアメリカ本土に竜巻が来ないように原爆を使ったら、と提案したくらいだ。しかし、核兵器の製造で出るゴミに対する興味は一切なしだ。ハンフォード管轄のエネルギー省の重要なポストをトランプは何か月も空席のままにしておいた。そしてエネルギー省はオバマ大統領の任期が終わるちょっと前にリスク分析を提案していたが、トランプ政府はこれを拒否した。アメリカのジャーナリストMichael Lewis氏は、その著書「高まったリスク」の中で「故意の暗愚」だと書いている。 ここで彼は、ハンフォードを徹底的に除染してきれいにするには少なくとも100年かかり、1000億ドルの費用がかかるだろうと述べたエネルギー省の役人の言葉を引用している。

2019年にトランプ政府はついにこの問題について言及した。高レベル放射性廃棄物の一部を低レベル廃棄物に等級変更することを提案したのだ。低レベル放射性廃棄物なら処分する基準はそれほど厳しくない。環境保護団体や民主党の政治家たちは激しく抗議している。
この原子炉を見学しても、放射性廃棄物に関しては、長崎の死亡者に関するのと同じくらい、情報はほとんどもらえない。その代わりガイドはこの施設を「アメリカのエンジニア技術の珠玉」と褒め称える。天井からはアメリカの国旗が垂れ下がり、背景ではカウントリーミュージックが流れている。

パブの呼び物「ガイガーカウンタービール」と
「プルトニウム黒ビール」

川を約1時間ほど下ったところに人口6万人の町リッチランドがある。ここの住人のほとんどがハンフォードで働いている。昔はプルトニウム製造に携わり、1987年以来はその核廃棄物を処理しているのだ。リッチランドの高校にはフットボールチームがあるが、その名を「リッチランド・ボンバー」という。チームのロゴは緑のRの上にキノコ雲が立ち上っている図案だ。すぐそばには「アトミック・エール・ブリューパブ」があって、ここでは「ガイガーカウンタービール」と「プルトニウム黒ビール」が注文できる。去年ここの地方新聞は日本から来た交換留学生のことを報道した。この男子学生はこれを見て信じられない、と言っていたそうだ。

ここでは、長崎で起こったことだけでなく、リッチランドでのプルトニウム製造が何をしでかしたかということが集合的に抑圧されている。流産が多いって? きっと偶然だろう。無精子症になった男性がいるって? かわいそうだが、特殊ケースだろう。それからガンで死亡したたくさんの住民は? 彼らのことは英雄と讃えていいだろう。ハンフォードの原子炉でできたプルトニウムがあったからこそ、アメリカ兵士が日本の本土に侵攻せずに済んだのだから。

Abe Garza氏も、今でこそ彼が明らかだと思っていることを何年もの間見ようとしなかった。Garza氏は68歳の目の色が濃く白い口髭を生やした小柄な男性で、リッチランドはずれの一戸建て住宅が並ぶ区域に住んでいる。1983年に彼はハンフォードで測定機器技術者として働き始め、測定器具の較正を行ったりメンテナンスをしてきた。毒性の高い排気物質の入ったタンクのバルブやガス抜き用パイプを取り扱っていると、よく変な匂いがしたものだった、と彼は語る。アンモニアや玉ねぎ、または使い古した靴下のような匂い。しかし数年するとその匂いも気にならなくなった。臭覚を失ってしまったからだ。

Garza氏は自宅のベランダに座り、浅く息をしながらしゃがれ声で話す。 何年もの間彼は何の心配もしていなかったそうだ。そうしたら体の不調が突然始まった。規則的に歯医者に通っていた彼なのに、ある日突然臼歯が抜けてしまった。タバコを吸ったことすらない彼が呼吸困難になった。いつも朝の通勤バスで本を読んでいた彼が、突然記憶喪失になった。「1つの段落の終わりに来ると、もう一度始めから読み直さなければならなかった、3度も、4度も同じ段落を繰り返して読まないとわからなかった」。Garza氏の隣に座っている妻が思い出す。「彼はどんどん忘れっぽくなって家賃を2度払ったり、道路の名前を忘れたり、ついには息子の名前まで思い出せなくなってしまった。人格が変わってしまった」。

Garza氏は何度も病院に運び込まれた。あらゆる医者が彼を診ては去ったが、症状は変わらずに残った。年金生活者になる少し前の2015年の8月になってやっと、自分の言っていることが真剣に受け止められるようになったと感じられるようになった。当時、1台のタンクから大量の毒ガスが漏れ出し、作業員が避難しなければならなかったからだ。Garza氏の肺がそのために深刻な損壊を受けていたことが確認された。彼はそれに、そこでの仕事のせいで脳に損傷も受けたのだと確信している。

同年、ワシントン州の法務大臣が労働組合とOrganisation Hanford Challenge と一緒にエネルギー省とタンクのメンテナンスを担当している契約会社を訴えた。現在この訴訟手続きは中止されている。エネルギー省はガスマスクを渡すなどの作業員をもっと保護する義務を負うことを約束した。 しかし、これは数多く起こされている訴訟手続きの1つに過ぎない。Abe Garza氏など当事者の中には、すでに損害賠償の支払いを受けた人もいる。

リッチランドはこの除染・除去作業のため何十億ドルというお金がつぎ込まれるのため、豊かな町だ。放射性廃棄物以外には、金が稼げるものはあまりない。製紙工場が1つと農業が少し。Abe Garza氏は「金の手錠」と呼ぶ。「お金にはすぐ慣れる。だからやめないんだ」と。

ここの住民のほとんどが2016年にはトランプに投票した。明らかにそれとわかる危険を無視する姿勢に関して言えば、彼らは大統領とよく似ている、とGarza氏は語る。危険に直接晒されていれば晒されているほど、危険に対し盲目になるのだと。

それが早く変わる見込みはない。今年初めトランプ政権は、ハンフォードの除染・除去作業のための費用を削減すると告知した。その分支出を増やしたいところがあるのだ。新しい核弾頭の製造である。

2020年1月4日土曜日

2019年12月6日

アウシュヴィッツ・ビルケナウ基金創立十周年記念式典におけるドイツ連邦共和国首相アンゲラ・メルケルの演説


演説全文(ドイツ語):https://www.bundeskanzlerin.de/bkin-de/aktuelles/rede-von-bundeskanzlerin-merkel-zum-zehnjaehrigen-bestehen-der-stiftung-auschwitz-birkenau-am-6-dezember-2019-in-auschwitz-1704518
日本語字幕付き動画:https://youtu.be/vVuX99hwYnI



ポーランド首相、基金理事長、大使各位、
とりわけ証言者の皆さま
お集りの皆さま

今日ドイツ連邦共和国首相としてこの場で皆様にお話しするのは、非常に難しいことです。この地でドイツ人によって繰り広げられた残虐な犯罪、理解の限界を超えた犯罪を前に、私は深い羞恥の念にかられます。ここで女性、男性、子どもたちに対し行われたすべてのことを思うと、本当はその恐ろしさに言葉を失うよりありません。どんな言葉ならあれほどの痛嘆を表現できるというのでしょうか? ここで屈辱を受け、苦しめられ、殺されたたくさんの人たちの嘆き、悲しみを? それでも私は敢えて言いたいと思います。これほど大きな人類に対する罪の象徴であるこの場所で、どんなにそれが難しくても、沈黙が私たちの唯一の答えであってはならないということを。この場所は私たちに、記憶を鮮明に保っていく義務があることを教えています。私たちはここで行われた罪のことを思い出し、それをはっきりと名指しで呼んでいかなければなりません。

アウシュヴィッツ、この名はヨーロッパに住む何百万人というユダヤ人たちの殺害、ショアーという文明の断絶を意味する名です。ここで人としての価値観がことごとく犠牲となりました。アウシュヴィッツはまたヨーロッパのシンティ・ロマ人に対する大虐殺を意味する名でもあります。ポーランドの政治犯と知識人の代表者たち、ソ連やその他の国の抵抗運動者や捕虜の方々、同性愛者、障害者そしてヨーロッパ各地の数えきれないほどの人たちが受けた苦しみや殺害を指す別名です。アウシュヴィッツでの人々が受けた苦しみ、ガス室での死、飢え、寒さ、伝染病の蔓延、残虐な人体実験、消耗し命を落とすほどの強制労働、ここで起きたことは、人間の理性で把握できることではありません。

アウシュヴィッツの収容所だけでも、ユダヤ人を主とする最低110万人の人が計画的に、冷酷にシステマチックに殺害されました。その人々の一人一人にはでも名前が、譲り渡すことができない尊厳が、出身が、生い立ちがありました。しかし家畜用の貨物車に押し込まれての強制移送から、到着後の手続き、そしていわゆる「選別」まで、どれをとってもその人々から人間性を奪うこと、その人間としての尊厳、一人一人の個性人格を奪い去ることが徹底して行われました。

この場所の正式な名称はユネスコの世界遺産と認定されている「アウシュヴィッツ・ビルケナウ  -  ナチスドイツの強制・絶滅収容所(1940年~1945年)」です。この名前を完全に言うことが大切です。オシフィエンチムはポーランドにありますが、1939年10月にアウシュヴィッツはドイツ帝国の一部として併合されました。アウシュヴィッツというのはですから、ドイツの、ドイツ人によって運営されていた絶滅収容所です。この事実を強調することが私にはとても重要です。犯罪を犯した者の名をはっきり口に出すことが大事です。被害者に対しても私たち自身に対しても、そうする義務が私たちドイツ人にはあります。

犯罪を思い返し、犯罪者の名をはっきりと口に出し、被害者にその尊厳にふさわしく思いを寄せようとすること、それは決して終わることのない責任です。この責任は交渉不可能のもので、私たちの国と繋がっていて切り離すことはできません。この責任に対する意識を常に新たにしていることが、私たちの国にとっては大切なアイデンティティの一部であり、誤りを悟り、自由を尊ぶ社会という自己理解、民主主義と法治国家としての自己理解の一部です。

今日ではまたゆたかなユダヤ人の営みがドイツで見られるようになりました。私たちは多彩で友好的な関係でイスラエルと結ばれています。これはでも、当前なことではありません。これは大きな贈り物、いや奇跡とも呼ぶべきことです。それでも、起きたことをなかったことにすることは不可能です。殺害されたユダヤの方々を生き返らせることはできません。私たちの社会にはこれからも空白が埋まることなく存在し続けるでしょう。

70年前ドイツ連邦共和国で基本法が施行しました。この基本法では恐ろしい過去の出来事の教訓が生かされています。しかし私たちは次のことも理解しています:侵害することのできない人間の尊厳、自由、民主主義と法治国家としての存在、これらの価値はこんなにも貴重なものであるにも拘わらず、壊れやすいものでもあることを。だからこそ私たちはこの根本的な価値を、毎日の暮らしの中においても、国家としての行動においても、政治的論議の中においても、繰り返し新たに強固にし、改善し、保護し、守っていかなければなりません。

これはことに今日、単なる言い回しではないのです。今こそ、そのことを明確に述べる必要があります。というのは、私たちは憂慮すべき人種差別主義、どんどん跋扈しつつある不寛容さ、ヘイトクライムの波に現在遭遇しているからです。自由主義的民主主義の基本価値や、特定のグループの人たちに対する憎悪を煽る危険な歴史修正主義に遭遇しているからです。ことに私たちはドイツやヨーロッパ、それ以外の地域で、ユダヤ人の生活を脅かすユダヤ人排斥主義に目を向けたいと思います。

それだけに私たちはより明確に、決然と表明する必要があります。ユダヤ人排斥主義を私たちは決して赦しはしないということを。誰であれドイツで、ヨーロッパで安全に居心地よくいることができなければなりません。ことにこのアウシュヴィッツは、日々油断なく注意するよう、人道性を守るよう、そして隣人の尊厳を保護するよう、私たち一人一人に義務を負わせ、戒めています。

百年前にトリノで生まれ、モノヴィッツ収容所で強制労働者をさせられていた、アウシュヴィッツから生還したプリーモ・レーヴィが後日書いています:「一度、起きた。従ってまた起きる可能性がある」と。だからこそ私たちは人が虐げられ、屈辱を受け、迫害された場合には、目と耳を塞ぐことは許されないのです。私たちは別の信仰を持つ人々や出身が違う人々に対して偏見や嫌悪を焚きつける人たちに向かって、反駁していかなければなりません。

私たち一人一人が、その責任を負っています。そしてその責任には、追悼も含まれます。私たちは決して忘れてはならないのです。このことにご破算ということはあり得ません。そしてこのことを相対化することも許されません。

これをアウシュヴィッツから生還した、そして国際アウシュヴィッツ委員会のかつての会長ノアー・フルグの言葉を借りて言うなら、こういうことです:「思い出は(……)水のようなものだ。思い出は生きるために欠かせない物であり、思い出は新しい空間へ、別の人間へと生き延びる道を模索していく。(……)思い出には賞味期限はなく、思い出を決議で処理済みとか完了と宣言することはできない」。

ノアー・フルグが述べたように、この人生に欠かせない思い出が生き延びる道を探し、それを見つけることができたのは、数々の証言者の賜物であり、そのことに私たちはとりわけ深く感謝するものです。ですから、今日ここにその中の数人とお目にかかることができたことをとてもうれしく思っています。あなた方はこれまでも、そして今日も繰り返し、与えられた苦しみに満ちた時期のことを私たちのために報告してくださいました。この苦しい体験を何度も思い浮かべ、ましてや苦しみを受けたこの場所に戻ってくるのがどれだけ力を要することか、想像できる人がいるでしょうか? あなた方はそれでもその話を語ってくださり、若い人たちがそこから学ぶことができるようにしてくださっています。あなた方は和解に必要な勇気と力を奮い起こしています。真の人間としての大きさをあなた方は示しているのです。私はあなた方のお話を聞き、学ばせていただけることに心から感謝しています。

アウシュヴィッツが解放されてからまもなく75年になります。その頃の体験談をしてくださる方は年々少なくなっています。そのことを作家のナヴィド・ケルマニがとても的確に言い当てています:「(……)あらゆる警告の記念碑、躓きの石、追悼式が対象としている記憶がしっかり心に焼き付くためには、ドイツが人間の尊厳を粉砕した場所、血の雨を降らせてしまった国々に、その後に続く年代の人々が自ら赴き自分の目でその場所を見ることがますます重要になってくるだろう」。

加害者は多数の場所でその足跡を消そうと試みました。ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカといった絶滅収容所でも、またマリィ・トロステネツやバビ・ヤールでも、spそてユダヤ人、シンティ・ロマ人、その他の人々、あるいは村民全員が殺戮されてしまったこともある何千というその他のヨーロッパの土地で、足跡が消されようとしました。

しかし、ナチス親衛隊もその手先もここアウシュヴィッツではその足跡を消すことは叶いませんでした。この土地そのものが犯罪の証明です。この証明は維持されていかなければなりません。アウシュビッツを訪れ、見張り塔や有刺鉄線、バラック、監房、ガス室の残り、焼却炉を一度見た人は、その思い出から解放されることはありません。ケルマニが書いているように、「心に焼き付いて」しまうからです。

アウシュヴィッツで政治犯としてここに収容されていたヴワディスワフ・バルトシェフスキ氏はかつてポーランドの外務大臣も務めた方ですが、彼が十年前にアウシュヴィッツ・ビルケナウ基金の創立を呼びかけました。

(アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館館長)クウィンスキさん、この記念館を、警告の碑そして資料館として保存することが基金の任務だと、そのことに尽力してくださっているあなたとそのほかのチームの皆様に、私は心からお礼を申し上げます。また、修復・保存プロジェクトに携わっているすべての方々にも感謝の意を表したく思います。皆さんの真剣な取り組みがあるからこそ、この場所がこれまで貴重な証言をし続けることができましたし、これからもそれが維持できます。レンガ造りのバラックはこれからも長期保存できるように確保されましたし、発掘作業が行われ、擁壁も作られました。シェルターテントも造設され、被害者から奪った洋服、持ち物も修復され保存されました。

保存計画はこれから先25年間、これまでよりずっと高い額の資金を基金から必要とします。ドイツはその資金に対し主要な寄与をすることにしました。このことを昨日、連邦共和国の各州の首相と共に決定しました。

この基金およびたくさんの国際的なガイドのお陰で、この記念館は学習、省察、意識育成の場となっています。「ノー・モア」というメッセージがこれだけ感銘深く響く場です。そのことに対し、私はとても感謝しています。

それでも、ここで殺された方々を生き返らせることはできません。何事も、これほどの前人未到の犯罪をなかったことにすることはできません。この犯罪はドイツの歴史の一部であり、これからも一部であり続けるのです。この歴史は繰り返し語り継がれていかなければなりません。私たちが注意を払い続けていけるよう、このような犯罪が、たとえ兆候であっても、決して繰り返されることのないように、嫌悪を催さずにはいられないあらゆる現象で表現される人種差別主義と反ユダヤ主義に対し、決然とした態度で私たちが立ち向かっていけるように、です。この歴史は、私たちが今日も明日も人間一人一人の尊厳を守っていけるよう、そして被害者の方たちを名誉ある形で追悼できるよう、繰り返し繰り返し語り継いでいかなければいけません。

ヨーロッパの様々な国からアウシュヴィッツに連行された方々を私たちは追悼します。ことにアウシュヴィッツ強制収容所は もともと政治犯のために設立されたため、政治犯もたくさんいましたが、たくさんのポーランドの被害者を追悼します。600万人もの殺戮されたユダヤ人、ことにここアウシュヴィッツ・ビルケナウで殺された約100万人のユダヤ人を追悼します。私たちは強制連行され、苦痛を強いられ、殺されたシンティ・ロマの方々を追悼します。私たちは銃殺により大量殺戮された被害者の方々を追悼します。ゲットーに連行された方たち、死の恐怖の中、身を潜めた方たち、そして故郷を離れ逃げなければならなかった方たちを追悼します。私たちは家族、友人、故郷、家庭、希望、人生計画、信頼や喜び、そして尊厳と、なにからなにまですべてを失ってしまった方たちを追悼します。私たちはまた、戦争が終わった後何年間もさまようことを余儀なくされた方たちを追悼します。それから亡命者として収容所に留まらなければならなかった方たちを追悼します。

それを生き延びた方たちは皆、身に起きた恐怖が全身に刻み込まれています。マルゴット・フリートレンダーは回想録の中でこう書いています:「皆、自分が人間であったことをもう一度学び直さなければならなかった。自分が、名前がある人間だということを」と。

ホロコーストの生存者の中には、なぜ自分が生き残ったのかと自問する人も少なくありません。どうして妹ではなかったのか? どうして親友ではなかったのか? どうして自分の母親や夫ではなかったのか? 自分の大切な家族がどこでどのように殺されたのか長いこと知ることもできなかった、または一切知ることができない方々がたくさんいます。この傷は決して癒えることがありません。

それだけに、その痛みや思い出を分かち合い、和解のために貢献しようとその話をしてくださる方たち一人一人に、私は心から感謝します。私はその方たちの前に深く首を垂れます。ショアー(ホロコースト)の被害者を前に、私は深く首を垂れます。その家族の前に深く首を垂れます。

今日ここに出席させていただき、ありがとうございました。

2017年7月25日火曜日

ドイツの

「最終処分場サイト選定法」に対する

批判記事

ドイツでは今年3月、高レベル放射性廃棄物の最終処分場サイト選定に関する法律の改正法令が成立した。よりによって連合政権には入っていない、チェルノブイリ後、脱原発を求める政党として始まった緑の党の議員も入って「高レベル放射性廃棄物処分」委員会が作られ、連邦環境省が指揮をとりながら共同でコンセプトを作り、この法案ができたのだが、それはこれまでドイツの核・原発政策とあらゆるレベルで闘ってきた運動家、活動家にとってはまったく受け入れがたい内容であることが明らかになった。緑の党は、連合政権に携わっていた時もあらゆる政策決定で期待を裏切ってきたが、今回このような法案を一緒になって作り、あたかも画期的で責任持てる計画決定を共同で実現させたかのように自画自賛していることで、私は完全に緑の党に幻滅した。魂を売り渡し、緑の党の政党としての正当性、根拠はこれで彼らが自ら葬ったと言えよう。それにしても、どうしてこの「最終処分」という概念があたかも当然であるかのようになってしまったのか。人間は一人一人は1世紀も生きず、その中で大人として責任もって言動できる時間はたったの50年ほどであるはずなのに、その人間がどうして「百万年」恐ろしい毒のごみを管理する話ができると思うのか、「最終」処分できると思えるのか、その自己過信を疑わないのはなぜなのだろうか。二年ほど前に「世界で一番安全な場所」という最終処分場を探すということの愚かさを明らかにするドキュメンタリー映画を見たが、また改めて、それを見た時の感情がよみがえった。この最終処分場サイト選定法に対する批判記事が放射線テレックスの4月号に掲載され、それが難しいながらもとても的を得た分析だったので、それを、この「愚かな」(と私が思う)ドイツの「高レベル放射性廃棄物処分委員会」ほどのコンセプトも持っていない日本のために訳したいと思った。 (ゆう)


Strahlentelex Nr. 726-727 vom 06.04.2017
放射線テレックス2017年4月6日号
Atommüll „Unfug für Millionen Jahre“ von Ralf Kusmierz


百万年の戯言

2017年3月にドイツ連邦議会と連邦参議院は「発熱性放射性廃棄物の最終処分場のサイト選定に関する法律その他の法律の改正法令」を可決した。政治的議論においてはこれまで、放射性廃棄物を保管するサイト選定におけるやり方に関してしか批判されず、その方法自体の意味については問われてこなかった。恣意的に選択された「深い地層での最終処分」というコンセプトはしかし、熟考されずに当然のものとして受け入れられており、そのほかの方法の可能性については問われることがなかった。しかし、放射性廃棄物や有毒廃棄物を深い地層に処分する方法は世界中ですでに失敗しているか、数千年後に現れるであろう問題、または始めは見当もつかなかった大問題を数年後に明らかにするに違いないことが分かっているのである。

Ralf Kusmierz報告

かつてはドイツでの狂気というのはたった千年単位のものだった。今日ではそれが、民主的に選挙で選ばれた政治家が簡単にその上をいく。ドイツの連邦議会は、(発熱性)放射性廃棄物の最終処分場のサイト選定に関する法律」を可決したが、この「最低百万年は環境から遠く離れた場所で貯蔵する」責任を国が持てると固く確信しているのである。しかしながらこの法律の真実は、「ゴアレーベンにはしないつもりだが、万が一可能性がないとは言えない」というただし書き付きの「固定観念・予測なしで結果をオープンにした」税金埋没法に過ぎない。

それにしてもこれらお偉いさんたちの中で、百万年の帝国を計画するということの愚かさに気づいたものは誰一人いなかったのだろうか? 「誰もまた掘り返すことができないくらいに深く掘って埋める」という原則に沿って行われる最終処分というあり方が本当に採用できるかどうか、一度でも自答してみはしなかったのだろうか? 
放射性廃棄物はごみ処分場に保管されるべきではなかったのか? 答えはこうだ:おそらくそうだろう。ただ、我々は正確にはわからない。ごみ処分場という考えはまず何より、「簡単」である。喉元過ぎれば熱さを忘れる、だ。廃棄物管理の三原則は次の通りだ。予防、リサイクル、処理、この順番通りに行うのである。したがって、この原則を放射性廃棄物にも適用するならば、最初の2つの原則を本気で行うなら、処分するものが残るだろうか、自問できるはずだ。

物理的に厳しく捉えれば、核技術設備から出される放射性廃棄物は、量が多いゆえに問題があるわけではない。低・中レベル放射性廃棄物の「莫大的な量」は、例えば放射性物質で汚染された日本の土地などでも取り出されるが、実はそこに含まれている放射性同位体自体の量は驚くほど少ない。そして、もちろんどの放射性廃棄物も、再処理が可能だ。つまり放射性が程度かほとんど放射線に汚染されていないほとんどの物質と、わずかだが高度に放射性であるグループとを分離することができるのだ。ただ、これを費用が掛かるから(または面倒であるから)しないだけである。このようにして(おそらく何度も測定するのも『採算が合わない』ということで)放射性物質に汚染された雑巾は、焼却する代わりに放射性廃棄物処分場行きのドラム缶の中に入れられることになる。焼却すれば、放射能は灰の中に濃縮されるか、それを排気フィルターで取り込むことができるはずでも、である。

「高レベル」放射性廃棄物と高レベルでない放射性廃棄物との違いはわずかで、ことにその定義だけが異なっている。高レベルの放射性廃棄物には、放射性同位体が高度に濃縮しており、かなり発熱する。通常の輸送用容器では約15トンの積載で、条件によっては50キロワット以上の熱出力である。これは比較すれば、1回のシャワーで必要な温水を作るのに必要な熱出力のほぼ二倍だ。こうした、1キログラム当たり約3ワットという比較的控え目な熱出力は、スポーツ選手や体を使って仕事をする労働者が体を温めて体熱を発する(1キログラム当たり約2ワット)熱出力とほぼおなじエネルギー密度である。だから、もしこれを「最終処分」した場合には、この熱が岩石から外へ放出される必要があるため、問題となるのである。でなければ廃棄物を入れた容器はどんどん熱してしまうからだ!

いい知らせはある:高レベル放射性廃棄物が発する熱は、主に半減期が約30年程度の比較的短い核分裂生成物から出ている。約10倍の半減期、つまり300年もたてばこの量も、すなわち放射能と熱出力も最初の値の千分の一になるので、50キロワットの代わりにたったの50ワットとなる。こうなれば技術的には一切問題はなくなり、ことにこの熱出力を使用済燃料棒1ダースまたはガラス固化体28本に分ければなおのことである。ここまで冷却が進んだユニットはまとめて包装し(鋼鉄管に入れて溶接またはコンクリートを入れ固める等)、ほぼどの場所でも貯蔵できることになる。発生する放射線はそれでも遮蔽する必要があり、またはこれらの廃棄物から最低100メートルは距離を置いて近づかないようにしなければならない。あるいは、これを再処理し、高レベル放射性廃棄物の量と体積をもう一度大々的に減らすことだってできるはずだ。

重要なことは、次の点だ:ここまで行けば、これは我々の問題ではなくなるということである。無責任な態度からではなく、本当に一世代先の最新技術がどのようなものとなるか、私たちには知ることができないからだ。50年後も人類はまだ、300年(あるいはそれ以上の)崩壊時間を待つしかない可能性もあるが、全く異なった処分方法の可能性が見つかっている可能性もある。またはこの放射性の「ゴミ」が好ましい原料となっていることだって考えられる。しかし同時に、犯罪的なテロ政権が統治する世の中となって、放射性廃棄物を兵器として悪用することだって考えられるのだ。

これらのことすべてに関し、私たちは現実的に関与することができない。私たちができる唯一のことは、放射性廃棄物をきちんと分類し秩序正しく次の世代に譲り渡していくことだけである。する必要がないのは、今放射性廃棄物の最終処分場を計画し、建設し始めることだ。このような最終処分場の完成を見届ける前に、世界は今と別のものになっているはずであり、そうすれば高い確率で使い物にならなくなるはずだ。

そして同じことがアッセの在庫目録の作成に関しても当てはまる。ここではいまだに秩序正しい状態にないのだから、放り込まれている廃棄物を取り出し、安全確保しなければならない。それも、現在計画されているよりずっと早く行う必要がある。第5坑がなぜ2019年末までに運転開始できるように完成することになっているのか、そしてなぜ2023年までに在庫の廃棄物をすべて取り出すと決められているのか、まったく理由はわからない。そして、その後それがすべてわかった上でなにを行うべきかは、その時点の責任者がその時点で決定していかなければならないことで、私たちには、そして今現在は、それはできないことなのである。




Strahlentelex Nr. 726-727 vom 06.04.2017
放射線テレックス2017年4月6日号
Greenpeace empfiehlt neue Zwischenlager anstatt falscher Endlagersuche
Rüge für ein untaugliches Endlagersuchgesetz

グリーンピースは、間違った最終処分場探しより、

新しい中間貯蔵施設を作ることを推薦する


役に立たない最終処分場サイト選定法に対する批判

今日に至るまで、私たちも、それからドイツ連邦議会の議員たちも、何千何万年にわたって放射線を放ち続ける廃棄物の取り扱いに関し、科学的に証明でき、誰もがわかるように出された複数のオプションの分析評価を持っていないし、従ってそうした評価をもとに、高レベル放射性廃棄物を長期に管理していくためのオプションをその中から政治的に選ぶということができないでいる。このような分析評価が行われていない限り、どのような試みも、それがどの場所であっても、社会的政治的意思決定をするという基本の人権を取り上げられたくないと思う市民の了承がこれで得られると思っているとすれば、非現実的だとしか言いようがない。このことを、2017年2月13日にドイツ連邦議会で行われた環境委員会の公聴会で「発熱性放射性廃棄物の最終処分場のサイト選定に関する」法案に対するグリーンピースの声明文としてMathias Edlerが言及している。この法案はその後2017年3月23日に連邦議会を通り、連邦参議院でも可決された。

「高レベル放射性廃棄物処分」委員会は、こうした処分方法を開発し調査するプロセスを省いて済まそうとしている、とEdlerは批判している。それなのに、委員会の報告書とサイト選定法は、ことに高レベルの放射性廃棄物を長期にわたって貯蔵するための最良の方法を探し出すために、できる限りのことをしてきたかのような印象を与えている、というのだ。しかしEdlerは、深地層での埋設処分以外の処分方法のオプションが同様の熱意で調査され、または開発されなければ、そんなことを主張し得ないはずだ、と批判している。だから当委員会のメンバー以外に社会的コンセンサスが得られなかったということも、ここで確認できるのだ、と彼はさらに続ける。

50年来、500メートルから1000メートルの深さの地層に埋設処分する方法しか研究されてこなかったことを、Edlerはこの法律の基本的な構造ミスであると非難する。委員会、専門の官庁省はどれも、彼らが贔屓扱いする深地層埋設処分というコンセプトに代わるほかの方法を探ることをシステマチックに抑圧してきた。そうした別の方法を探る代わりに、彼らの御用学者たちは、深地層での埋設処分方法をよしとする選択に関しては「基本的合意」が得られているかのように主張している。「最終処分が必要であること、それもできるだけ早く必要になること、しかもそれが深地層であるべきであること」という主張で成り立っているだけなのだ。それに取って代わるその他の複雑な処分方法に対する基本的な知識がないのに、どうやって「基本的合意」が得られるのだ、とEdlerは問う。知識がないのなら、それら異なった保管方法の社会での理解も得られないはずであり、従って、これまで誰も「コンセンサス」に至ることができなかったわけである、と彼は述べている。

この一連のことについてはすでに、委員会の結論が出される直前に、環境団体の会議ですでにReinhard Ueberhorst氏が「民主的放射性廃棄物政策」を求める意見表明で述べている。委員会は、深地層埋設処分に代わるどのような方法があるかを探る同じ程度の調査も、どれが新しい処分方法となりうるかという問いかけをさらに発展させていくという一番最初の、しかも重要な課題を自分たちでもしてこなかっただけでなく、それをどこでも促進しようともしないできた。しかし、これまでの深地層埋設処分コンセプトはすべて世界中で、失敗に終わっているか、あるいは、数年後にすでに大問題が出ることが明らかになっている。その大問題とは、数千年経ってから初めて出現しうるか、最初はまったく予見できないものだ。廃棄物を後から取り出し可能にするオプションで深地層埋設処分コンセプトを実現するというのは、今日行われている方法においては、どんどん疑わしくなっているとしか言いようがない。

「サイト選定法」という名称こそまさに、実は二次的でしかないはずのサイトの選択問題に最終処分問題を狭めようとしている証拠である、とEdlerは続ける。実際は、科学的に根拠づけられた異なる貯蔵方法の開発と評価こそが問題とされなければいけないはずで、高レベル放射性廃棄物を貯蔵するにあたり、比較的良い方のオプションを社会的に理解が得られる形で見つけていくためのものでなければならないはずだ。それがあって最終的にサイト選定が問題にされるべきだ。これまでゴアレーベンの深地層での処分という考えしか数十年来追ってこなかったドイツ連邦政府の最終処分場に関する政策は挫折したのであり、それを背景に、サイトに選定される可能性のある場所の市民が『放射性廃棄物には深地層の最終処分場が必要で、それに見合うサイト選択プロセスでどのように市民参加ができるかを明らかにすればいいだけだ』と考えていると想像しているのだとしたら、それはかなりナイーブだと言わざるを得ない、とEdlerは言う。それより市民たちは「こうした処分コンセプトと我々の住んでいる場所をサイトにしようという決定の根拠は何であり、どうしてそれが正当であるのか、ほかにどのような処分方法オプションがあったのか」と尋ねるはずである。この問いを満足できるように答えることができない者は、これからも市民たちの反対運動で挫折すると考えるのが妥当である。

Edlerはさらに、何の予備指定もなく「白い地図」状態から始めるなどと言いながら、たった一つのサイト候補、すなわちゴアレーベンだけを挙げていることで、サイト選定方法自体に汚点がついてしまっていることを批判する。サイトに対する最小限の必要条件、選択条件や比較条件等は、サイト候補ゴアレーベンで既に存在する地層に関する知識の先頭にすべて表現されており、ゴアレーベンは最終的なサイト選定が下されるまで、候補から外されることはないというわけだ。

この法律は「比較方法」とか複数で「サイト候補」を語るなどしてはいるが、最終的にはゴアレーベンですでに調査された塩岩ドームを除いて、ほかの異なる母岩のサイトを同レベルの規模で調査したことはなく、従って放射性廃棄物はやむなくデータベースの一番大きい場所、すなわちゴアレーベンにしか来ないことになっている、とEdlerは批判する。

それに「市民参加」というのが単に「伝達」という形でしか行われないのも批判される点である。インターネットなどの現代的なメディアの利用は、放射性廃棄物政策を民主的に決定していくという意味におけるプロセスでは、市民参加に取って代わるものにはなりえない。現代的な市民参加とは、産業的大プロジェクトに関して一度取り決められた決定事項をなるべく紛争をもたらすことなく実現するというのだけが目的ではなく、早い時期に市民参加を行ってそれが決定結果そのものに影響が与えられるようにすることが目的でなければならないはずだ。サイト選定法のコンセプトでは、その選定の方法を決定する当局が「市民参加」を組織しており、その当局だけがいわゆる市民の意見、公共の声を「考慮」しており、さらにその当局が自分の責任管轄となっている方法を評価する唯一の機関となろうとしているのだ。

このプロセスを進める間も開発状態にあるため、何度も調整が行われるという「学習する法律」であるという議論で、議会党派の代表者もも委員会の代表も誰もが対応し、将来修正を行っていくことを約束した。サイト選定法の改正法令においては、この法律が「学習する」プロセスであり、過ちを訂正する可能性が必要不可欠になるということが法律決定の理由として簡潔に書かれているに過ぎない。さらに、学習プロセスを可能にする効果的な要素は何もない、とEdlerは指摘する。それどころか、2016年6月23日付けの最終処分に関する組織構造の新法令は、2016年12月16日付の放射性廃棄物処分に関する新法令と共に、連邦環境省(BMUB)と連邦放射性廃棄物安全処分庁(BfE)、従って連邦政府にすべての決議権限を集中させている。事実上、法形式での計画決定においては、国がプロジェクト開発者であり監督官庁であり立法機関なのだ。最終処分に関する一般的な安全要求は、州の同意なしに、諮問機関に相談することなく、または話し合いを中心とした市民参加も一切なしに連邦環境省(BMUB)が法規命令を出して決定することができるようになるのである。これにより、ゴアレーベンを巡る過去の事例で見てきたように、執行機関は最終処分に関する基本的な安全要求条件を、政治的判断で選んだサイトの地域的実情に合わせて調整することができるようになってしまう。

連邦放射性廃棄物安全処分庁(BfE)はさらに、重要なプロセスのステップを決定するだけでなく、地域的会議や「地域の意見」というものを通じて市民参加を組織し、その上でその結果をどう考慮するかに関しても決定権があるという問題がある。いわゆる国内の諮問機関には地域的会議などと同じく、実は何の権利も与えられてはおらず、彼らの言う「学習型」プロセスでプロセスを決定運営していく官庁に対して過ちを効果的に修正したり、元の状態への復帰したりすることが許されてはいないのである。

推薦:長期の中間貯蔵

グリーンピースは2013年にすでに、放射性廃棄物に関する問題を新たに根本的にやり直すため、サイト選定法全体を撤回することを推薦したが、その当然の帰結が今も同じように求められている、とEdlerは語る。深地層埋設処分を決定する十分な根拠がないからである。ある官庁がBfEの権限をもって、すでに成立させてしまった硬直した法的効力のあるプロセス構造の中で、一度1つの方向に向かってしまえば、どうしてもその方向性に勢いがついて、議会によっても制御することが難しくなってしまうに違いない。このような間違った決定が過去にも、全く不適なアッセの塩岩ドームでの放射性廃棄物貯蔵や、ゴアレーベンの袋小路を生みだしてきたのである。こうした大きな過ち、しかも後になってから高い代償を払って修正しなければならなくなった決定は、考え方と政策方法そのものに過ちがあったことに起因しているのだ。ことに、取って代わるほかの方法がないか意識して探し、それを合理的に、民主的に明らかにしていくことを怠った、という点である。

このような過ちを繰り返す代わりに、新しく長期に中間貯蔵する方法を開発し、その設備を建設することが今一番求められるはずである。ことにそれは、最終処分場選定におけるこれまでの過ちを修正するための時間を稼ぐことにもなる、とEdlerは説く。連邦政府の計画によれば2031年までにサイト決定をし、最終処分場の運転を2050年には開始するとしているが、専門家のほとんどは今、どのような最終処分場を作ることになっても、そのサイトを探し、それが使用開始になるまで、それよりずっと長い時間が必要になるであろうと予測している。

ということは、長期の中間貯蔵が基本的に深層における最終処分に取って代わる方法になるのではないかという選択決定如何にかかわらず、中間貯蔵の期間は延長せざるを得なくなる。これまで計画され、認可を受けてきた40年間という中間貯蔵期間を超過することが、放射性廃棄物収納容器の安定性と完全性に関し、そしてその中に含まれている燃料棒やガラス固化体にどのような影響を及ぼしていくのか、今日誰もはっきりと言えないのだから、新しく中間貯蔵設備を作るならば、それに従ってメンテナンス、再収納ができる設備を最新の科学技術の水準に従って開発し、建設していくことが必要であろう。つまり、チェック、メンテナンス、修理ができるよう、容器を開封する可能性のある「ホットセル」を作ることである。新しい中間貯蔵設備は、最低100年間、収納容器の安全技術的状態が変化しないことが確保できるよう設計されなければいけない、とEdlerはさらに説く。続けて、機械的、温度的影響に対するマルチ・バリヤーシステムがなければならないし、容器が地震、洪水、火事、嵐、激しい雨など、考えられる限りの環境が及ぼす影響から効果的に守り、テロや戦争などの行為からも効果的な保護がもたらされるようになっていなければならない。それが実際、オランダのようにしっかり掩蔽された建物を地上に作ることになるのか、または地上に近い地下にそのような建物を作ることになるのかは、それぞれ地域の実情によって異なるはずで、それを研究対象として研究プロジェクトを即刻始めるべきだ、とEdlerは説く。運搬による危険を最小限にとどめるために、グリーンピースではこのような中間貯蔵施設を、今日すでに高レベル放射性廃棄物が貯蔵されているサイトに作るべきだと意見している。

そして、低中レベルの放射性廃棄物のいわゆる最終処分に関してもこれまで解決されてこなかったため、そしてほとんどすべての中間貯蔵サイトで問題が山積みとなっているため、これらの廃棄物も、高レベルの放射性廃棄物中間貯蔵の取り組みと一緒に考えるべきだと求めている。

2017年5月23日火曜日

DIE ZEIT 2017年5月11日付

「ガイガーカウンターと共に歩く」

ナヴィド・ケルマニ
Unterwegs mit dem Geigerzähler von Navid Kermani

本文はこちら:

ナヴィド・ケルマニはドイツでここ数年来注目され、評価が高い作家兼イスラム学者だ。イランからドイツに移住した両親のもとドイツで生まれ育ち、イランとイスラムの文化とドイツの文化を受けた彼は、2つの異なる文化を同じように代表し表現できるだけの素養、知識と文学性を備え、小説やエッセイには説得力があると、ここ数年高い人気である。ことに反イスラムのポピュリズムが勢力を強めている今のヨーロッパで、彼のようにドイツ・ヨーロッパ人であり、その西洋の知をしっかり身につけながら同時にイスラムの宗教・文化を語り、橋を架けることができる人物は重要なのだろう。2015年にはドイツ出版協会平和賞まで受賞している。前のドイツ大統領ガウクが去年後半にもう1期任期を務めるのを拒否して新しい候補を見つけなければならなくなった時、ケルマニを推薦する人の声も少なからずあったほど、彼は知識階級の中で信望を得ている。
そのケルマニがこのたびツァイト紙にチェルノブイリを訪ねた旅行記を書いた。ここにはノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチとの対話も出てくるし、日本でもフクシマ後チェルノブイリ後の研究発表が注目された、かつてベラルーシ政府から逮捕までされ今はウクライナのキエフに住んでいる医師で病理解剖学者のユーリ・バンダジェフスキーとのスカイプでの話も出てくる。あとは、彼がチェルノブイリを訪れ、そこでそこにまだ住み続ける人たちと話をしたり、ナチスに滅ぼされ、さらに放射能で汚された土地を巡りながら彼が感じ思ったことが書かれている。
私は彼の作品を1冊しか読んでいないし、ファンではない。しかし、発表するどの文章も大勢の読者に読まれることが明らかなこのような作家が、彼が自分で提案したのか、ツァイト紙からの依頼だったのかは不明だが、チェルノブイリに訪れてその報告を書いたこと、自分の専門分野以外の政治的社会的問題を取り上げて文学者らしい問いかけをしたことは、それなりの意味があると思う。
アレクシエーヴィッチが書いた「チェルノブイリの祈り」という素晴らしい本は実は「チェルノブイリ・未来の年代記」というタイトルだが、これについてアレクシエーヴィッチはあらゆるところで「私は未来のことを書き記している」と述べているのを思い出す。これはとても示唆に富んだ言葉である。そして、ケルマニがここで描写していることも、未来のフクシマであり、未来の世界の風景なのかと思うと、心がつぶされる思いである。いや、すでに現実となっている部分もたくさんある。そういえば、この前福島で森林の火事があった。人間はどうしてこんなに愚かで、残酷なのかと思わずにいられない。長い文章だが、ぜひ最後まで読んでほしい。(ゆう)


「ガイガーカウンターと共に歩く」
ナヴィド・ケルマニ

トラウマが積み重なる土地:根こそぎ動揺をを受けたベラルーシの社会。チェルノブイリ、グラグ、そしてドイツが犯した罪の足跡を追う。

立ち入り禁止区域を出たら衣服はそこで捨てなければならないというので、チェルノブイリの方向に向かうとき私たちは皆ぼろぼろの格好だった。ただ、私の靴だけは新しい。惜しげもなく捨てることができる靴もあるのだが、それは歩いている間に靴の底が取れてしまいそうなので、帰りついてから履いた方がいい、と思ったのだ。まずは高速道路を走り、それから田舎道を抜けていくと、見えるのは墓地ばかりだ。何も建っていない野原には四角にかたまっている林があり、それが必ずどれも同じ、よりによって空色のフェンスで囲まれている。白樺の木々の下に、墓石が兄弟のように所狭しと並んで立っており、プラスチックの花が冬でも色鮮やかに咲いている。これらはまったく普通の墓地で合同墓所などではないのに、白ロシアの墓所はどこも同じように彫像や記念碑のある戦没者慰霊碑でもあり、これまた同じくプラスチック製の花輪が添えられ、この近接の村の戦没者の名前が刻まれている。燃やされてしまったため村がなくなってしまい、親戚や近所の人を思い出す生存者もいなくて墓地もないところは、墓地なしで記念碑がぽつんと野原に立っているだけだ。第二次世界大戦では白ロシア人の四人に一人が命を落とした。さらに4分の1の住民がドイツ人により強制労働に連れていかれ、結局人口の半分は1944年には死んだか、または強制収容所に連れていかれた。戦後ソ連は10万人をポーランドに追放し、1万人をグラグに強制収容した。

他の国には、戦争の惨禍やホロコーストを追悼するための警告の碑というのがある。白ロシアを走るとしかし、ここでは国全体が警告の碑そのものだという印象を受ける。でもここでは無条件に被害者を一絡げにしてしまうことは許されない。1938年から1941年スターリンの大粛清による集団処刑の被害者があり、ポーランドの被害者、戦争捕虜やユダヤ人(ユダヤ人として殺害されたのである限り)、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチが「恐ろしい戦争や革命があったにも関わらず二十世紀で最も重大な出来事」という事件の被害者、つまりチェルノブイリの被害者がいる。この原子炉は1986年4月26日に現在のウクライナの国土で爆発したが、放射性降下物の70%は白ロシアに降り注いだ。「白ロシア人は今や生きたブラックボックスとなってしまったのだ」と、ノーベル文学賞作家のアレクシエーヴィッチは原子炉事故について書き、90年代後半に有名になった本で書いた。「彼らが未来に対する情報を与えてくれている、私たち全員のだ」

ほとんど車の走っていない六車線の道路の脇にプレハブ住宅が立ち並ぶホイニキに入った。この村が立ち入り禁止地区は管理しているのだが、担当の役人がいるべき場所にいない。立ち入りを許可するその上役に当たる人もいないことが分かると、私は怒り心頭に発した。原子炉事故による影響や被害に対し誰も援助の手を差し伸べてくれない、と政府はいつも訴えているくせに、それを報道しようとわざわざこうしてウクライナではなく白ロシアに来て取材するため、外務省の正式の招待状まで携え、役人とアポイントまで取り付けて何時間もかけて車で訪れたというのに、手ぶらでまた帰らなければならないというのか?

もちろん、私はこうして怒りを露わにすることで、取材の報告がネガティブになったら、今後のキャリアに影響があるかもしれないと役所の上役たちが考えてくれるのではと密かに期待していたのだが、ある生物学者の人がそれじゃあ仕方ない、というように立ち入り禁止区域の端まで案内しましょう、と立ち上がったのはどうやら、同情心からだったようだ。迷彩色の服を着ているが、彼は実にのんびりした性格のようで、丸々としたお腹に口ひげを生やし、頭は半分禿げ上がっていて、こんな何もないところに何をしに来たのだ、と思っているらしいことがはっきり顔に書いてある。彼自身は、植物界における放射能の影響について研究しているという。住居を捨てるようにと住民が勧められただけの、いわゆる「立ち入りが許されている区域」を通っている間に彼が話してくれた。しかし、彼はなんの影響も突き止められないという。

「何の影響も突き止められないのですか?」
「私にはそれが確認できない、ということです。もちろん、値が高くなっていることは確認できます。でも、はっきり突然変異だということが分かるような例は、最初の数年にしかなかった。今では全く普通の自然が、そのまま放りっぱなしになっているだけですよ。野生の馬まで最近では見られます」
「人間への影響はどうなんです?」
「それは私の研究領域外のことなんでね。そこには人間はいませんしね」
「でも、あなた自身はどうですか? つまり、あなたやあなたの同僚の方たちは、おそらく毎日立ち入り禁止地域にいるわけでしょう、怖くありませんか?」
「いつでも私たちは測定器を携えています。それに、定期的に検査もうけています」
「それで、もし検査で結果がネガティブになったら、どうするんですか?」
「そしたら、私たちがなにか間違いを犯したことになります」
「間違い?」
「そう、どこかで不注意だったということです。あるいは隠れてベリーとかキノコを食べたとかね。たまにちょっと食べてみるくらいならいいが、あまりベリー類を食べ過ぎると、すぐに結果に出ますからね、そうすると値が上がるんです」
「それで、もし同僚の誰かに許容上限を上回る値が出てしまったら、どうなるんです?」
「そうしたらその人は免職されるか、解雇になりますね。これに関しては私たちは厳しいんです」
「許容値以上の放射能が測定されたからという理由で解雇されるんですか?」
「そうです、だってそれは間違いを犯したに違いないということなのでね」

私たちが走っているのは村ではない。木造の家がぽつんと1つずつあらゆる間隔で立っているだけで、柵越しに並んでいる家もたまにはあるが、ほとんどは30メートル、50メートル、あるいは100メートルも離れて立っている。ここはその昔は村だったのだ。でも人がいなくなった家々は取り壊され、床も何メートルも深く剥ぎ取られる。それに、ここに引っ越してくる人は誰もいませんからね、と話してくれるのは道路で話しかけてきた男の人だ。林務に携わっているという。ここは、人が引っ越していなくなるだけですからね、それで引っ越さない場合には、その人が死んだらすぐにその家が取り壊されることになっているんです、と。

「私たちが生きた足跡はみんな消えるんですよ」

500軒の家がかつてはここにぎっしり並んでいて、小さい町のようだったのだという。学校や店もあり、役場や集会所があった。村のコーラスさえあって、ここ一帯ではかなり有名だったのだそうだ。でも、今では残っているのは30人だけで、ほら、妻飾りの窓がきれいな家があそこにあるでしょう、あれが今度消えることになっています。数日前が葬式だったのでね。まだ電気は通ってますが、水道はもうありません、井戸から水をくむしかないんです。食品は週に二度販売車が回ってきますが、バスはもうここには停まりません、と彼が教えてくれる。

どうしてあなたはここに残ったんですか、と私は訊ねた。ホイニキで住宅を提供してくれたのだが、たった10キロ離れているだけでなんの違いがあるとも思えないし、大体、世界のどこにいても病気にはなりますからね、と林業の彼は語る。病気はあれから増えませんでしたか、と私が聞くと、自主的または自主的とはいえないが参加させられた数十万人のリクビダートルが1986年に火事を消し原子炉にコンクリートの覆いをかける仕事に従事したが、彼らのほとんどは確かに死亡した。でも彼らですら、いや、すべて通常の範囲内だ、それは毎年しっかり検査されているから、と彼は言う。値が時として高くなることもあれば、低いこともある、きっとそれは食べるものと関係しているのだろう、と。それで、子供たちはどうなんです? いや、子供たちの間では何も変わったことは見られません、私には2人しかいませんけどね。その子供たちを見て、人々は事故のことを知ったという。まず子供たちと妊婦が急いで避難させられたからだというのだ。それを彼は当時、トラクターの上から見て知り、なにか恐ろしいことがあったに違いないと思ったという。数日後になって初めてテレビで事故のことは報道された。5月1日のメイデーもいつもと同じようにパレードで祝ったのだそうだ、ただ子供たちと妊婦だけがそこにいなかったのだと。

そこに老女が寄ってきた。緑の頭巾を被り、金歯の見える彼女が、よそへ引っ越していった近所のほとんどの人は後悔している、町には、ことに歳をとってからはなじめないからね、と話してくれる。時々彼らはここに戻ってきて、自分たちの家が建っていた地面にキスするという。かなりの人が酒浸りになっていき、そっちの方が放射能より大問題だそうだ。そう、きのことベリー類は味は変わらないしジャガイモも昔と同じようにおいしい。何が起こると思ったのかねぇ。頭に角でも生えると思ったのかね? まあ、確かに異様に色のどす黒いベリーもたまにはあるけど、そういうのは私は食べないからね。

私たちがドイツ人だというので、彼女は戦争のことを話し出す。この戦争はもうずっと前に「その前」と「その後」という風に人生を二分してしまっていた。ある時、彼女のお母さんが地下の貯蔵室で若い兵士にばったり出くわしたという。この兵士はさめざめと泣いていた。ここで起きたことはきっと僕たちのところでも起きるにちがいない、とこの兵士は言ったそうだ。彼女が住んでいた村を焼き討ちにしろという命令が入った時、ドイツの兵士たちは皆で議論し合ったという。そんなことをしてももうなんにもならない、と何人かの兵士が言って結局、ドイツ人たちは村の家を焼き払わずに立ち去り、それでこの村はまだあるんだ、という。隣の村のあった場所では、記念碑がその村のことを思い出しているだけだ。

その記念碑を見ることができますか、と私が聞くと、生物学者は躊躇した。森を通り抜けないと行かれないかららしい。しかし林業の人が小道ならありますよ、と教えてくれた。「ファシズムの被害者を永遠に記憶する」と碑石に描かれていて、その下に名前が書いてある。花輪はきっとチェルノブイリ事故より前にその台座に置かれていたのだろう、プラスチックのリボンがもう擦り切れ、色も褪せている。ヒットラー・スターリンの独ソ不可侵条約により白ロシアでは1939年にもう戦争は始まっていたのだが、どの記念碑とも同じようにここでも「偉大なる祖国の戦争」は1941年から1945年まで続いたことになっている。

私たちは牧草地や畑の脇をさらに走り続けた。畑は見るところ、耕されたばかりのようだ。ここでも汚染した土は剥離してあります、と生物学者の男性が私たちを安心させようと話してくれる。それだけでなく、どの野菜も乳製品も、売りに出される前に必ずセシウムとストロンチウム、それにその他の核種が測定されているそうだ。次のゾーンでは何かを植えることも、狩りも木を切ることも禁じられているという。約50キロほどチェルノブイリから離れたところで、チェックポイントに到着した。ここから「放射能エコロジー保護区域」というのが始まる。迷彩色の制服を着た二人のガードマンが車の進入を監視しているが、このうちの1人は木でできた塔の上に乗って森で火事がないか見張っている。それ以外には、1日にせいぜい1台から3台くらいの車が通る時遮断機を持ち上げるしかすることはない。この1台から3台というのは、1台は生物学者、2台目は林業の男性、それからこの立ち入り禁止区域に住んでいる2人の人の車だ。

「ここにまだ2人も人が住んでいるんですか?」と私がびっくりして聞くと、「そうなんです」とガードマンの一人が答え、放射能はどこも均一に分布されているわけではない、と話してくれた。2人が住んでいる家では値が低くて、彼らがしつこく頼んだので役所もそれに根負けして住まわせてくれることになったという。「あそこで一体何をしているんだろうと私も不思議ですよ。あの人たちはあまり自分たちから話したがりませんからね」
「みんな、生き方はそれぞれ各自が自分で選ぶものだ」と生物学者が言う。「彼らはディスコがなくても平気だからね」と。

「2人は兄弟なんですか?」と私は質問したが、この孤独と静寂、そして危険の中で耐えていくには、なにか深い繋がりのようなものを想像しないわけにはいかなかったからだ。
「いや、単に男の人が2人ですよ」
「それで、2人は一緒に住んでいるんですか?」
「いやいや、別々の家にです」とガードマンが答える。
「この国民もそこまではまだ腐っていないからね」と生物学者がコメントをつけて笑った。

ホイニキに戻ってしまってから、まだ新しい靴を履いたままでいることに気が付いた。でもやはり捨ててしまった方がいいのだろうか? 生物学者の人が、立ち入り禁止区域でも何の心配もなく仕事をして、ベリーだって食べても大丈夫だといったではないか。村に住んでいる人たちだって、土を踏むごとに気にかけている様子は全くなかった。そして毎年、よそからたくさんの人がやってきて森でキノコ狩りをするのだと話してくれたではないか。

「どう思います?」と別れ際に生物学者に尋ねた。「この靴、このまま履いててもいいですかね? 正直言って、結構高かったんですよ」
「お捨てなさい」ほかのことはすべて通常の範囲内と言っていたくせに、彼はここではそう薦めた。

帰り道、ある記念碑へ続く標識のあるところで私たちは道を曲がった。オザリッチ収容所は1週間しか存在せず、ここには、有刺鉄線と監視塔、それから地雷で囲われた沼だらけの森のほかには何もなかった。小さな駐車場には開けっ放しの車が1台、ボリュームいっぱいにテクノ音楽を鳴り響かせていた。生物学者がディスコ、といったのはこういうものを指すのだったのかもしれない。車の横に立っていると、カップルが茂みの中から出てきて音楽を消し、照れたような顔つきで走り去っていった。色とりどりのプラスチックの花輪が立てかけてある記念碑の数メートル背後には、当時の柵がまだあるのが見える。そしてその柵の後ろに沼が広がっているが、ここでナチス軍は、撤退するときに労働できない人ばかりを7万人‐ ほとんどは老人、病人、子供たちだ - 小屋も衛生設備も何もないところ、飲料水は雪だけのところに食べ物も与えず、押し込めていった。赤軍がこの収容所を見つけた時には、囚人の半分以上は凍死か、餓死か、病死していた。1944年の3月12日から17日の間にこの柵の後ろ側でどういうことが起きたのか想像してみようとするが、私には沼以外に何も見えない。

高速道路沿いに墓地が立ち並び、同時に記憶がこのように厳しく統制化されている、次から次へとトラウマに襲われた白ロシアのような国にしかおそらく、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチのような作家は輩出できなかっただろう。彼女の作品は形式としても独特なものだが、それらは一人一人異なる、抑制されて語られることのなかったような、時にはあまり目立たない、多くはかなりショッキングな、そして互いが矛盾しあっているような思い出によって出来上がっている。夜、彼女のお気に入りだという、ミンスク中心街のプレハブ住宅の地階にあるイタリア風のカフェで落ち合うと、まず印象を尋ねられた。

「どの村にも、どの道にも、どの家族にも、これほど過去が現在にも生きているのだ、ということを目の当たりにするのは、信じられない思いでした。誰と話そうと、皆自分の歴史、話がある。そしてそれは同時にみんなに通じた歴史なんですね。国家がどのようなことを言おうと、これである種の集団の記憶というのができあがっているのではないですか?」

「いいえ」とアレクシエーヴィッチはきっぱり言った。「記憶が集団のものとなるためには、思い出を書いて残していくことが不可欠です」

事故から30年経ち、彼女の本ができてから20年経った今、チェルノブイリとの対処の仕方について、彼女はどう見ているのだろうか。

「対処なんてしていません」とアレクシエーヴィッチは答え、国が最初、ガイガーカウンターを配り、国のあらゆる場所に測定所を設置したことを話してくれた。この測定所で市民は食べ物を検査することができた。「そこでは誰も、測定器が点滅するのを自分の目で見ることができたんです。それで国は、どのような結論に達したでしょうか? 国はガイガーカウンターの製造を中止して測定所を閉鎖したのです」

「市民が自分のトラウマを語ることが許されない社会というのは、どうなるんでしょう?」

「病気になります」とアレクシエーヴィッチは言い、蔓延するアルコール依存症、高い自殺率、そしてなにより、誰もが見透かせる嘘で塗り固めた人生を皆が平気で受け入れているという事実や、誰も極めて政治的に消極的であることを見逃さないように諭してくれた。チェルノブイリのことを書いた彼女の本はソビエト連邦が解体して初めて出版することができたが、あれは古い秩序がまだ復活する前だったからだ。それに、あの頃はまだ放射能の影響が明らかだったので、国家もチェルノブイリを一般の意識から消すことはできなかった。あの頃は誰もが知り合いの中に誰かしら、病気になったり、自分の家に住むのを諦めさせられた人がいたものだ。でも、誰一人として30年も不安のまま生きることはできない、だから人々はチェルノブイリの影響を克服したと信じたかったわけだし、年ごとに新しい区域で農業を営む許可が下りても不思議に思わないで来たのだ。そして今、リトアニアとの国境近くにあるオストロヴェッツで新しい原発が建設されているのに、地元では大した反対運動もないという。そこはもうすでに汚染されている地域なのだ。

次の日、私たちはタティアナとその息子イゴールと共に、もう存在しない村へと向かった。タティアナは村民が文化センターに呼ばれ、そこでもう森に入ってはいけない、井戸の水は飲んではいけない、庭でできた野菜を食べてはいけない、子供たちを外で遊ばせてはいけないと言い渡された時、32歳だった。でも彼女の村は、チェルノブイリから北東に約300キロも離れたところにあったのだ。ただ風向きが災いした。今度は私は古い靴を履いてきた。なんて馬鹿なことをしているんだ、と自分で思いなおす。一日経っただけでもうパラノイアになってしまったか? ホイニキの生物学者の言ったことが正しいとすれば、新しい靴も当然捨ててしまわなければならないし、終いには裸足になってしまう。安心のため、今日はガイガーカウンターを持参した。

車で走る途中、タティアナが話してくれた。まず土が剥ぎ取られ、校舎の壁が塗り替えされ、村民が四六始終監視されただけだった。彼女たちの値はほとんど通常の範囲内だったが、ほかのお母さんたちの間には、もう子供たちを授乳してはいけないといわれた人もいた。その地区の担当長はでもいつも、心配は無用と言い続け、自分では間もなく白血病で死んでしまった。彼女の旦那さんは彼女と同じように学校の先生で、数学のほかに保身術を教えていたので、放射線のことを少し知っており、自分たちのためにヨウ素剤を調達した。農民たちは彼らほど不安がらずに、じきに子供たちをまた外に出すようになった。ある時、学校の校長をしていた彼女の義理の父親がやってきて、チェコスロヴァキアの新聞を持ってきた。その新聞を翻訳して、彼らは情報を得ようとしたのだ。またある時は、まだ2歳にもならなかったイゴールに高い放射線値が測定され、すぐに病院に入れなければならないことになったが、それが一番つらい時だった。幸運にもイゴールは、その用紙に書かれてあった検査日に検査などされていなかったことがすぐ分かった。偶然にも同じ苗字と名前を持った別の子供が高度被ばくしていたのだ。

「目に見えないもの対処するというのは、難しいものです」

新生児における奇形などについては彼女は何も耳にしなかったが、昔よりずっとたくさんの人がガンで死ぬようになったことには気が付いたという。それが果たしてチェルノブイリのせいなのかどうかは彼女には判断できない。そのほかに目に付くのは、信じられないほど自殺する人がたくさん増えたことだという。彼女は最初は体がだるくて仕方がなかったが、次第に慣れてきた。小児科の医者は、できるだけ早く引っ越すように、できるなら避難命令が出される前にした方がいい、と彼女に言ったそうだ。避難命令が出たのは原子炉事故のなんと6年後だったのだが、住居が割り当てられるまで待つのはやめようと彼女は決心した。その代わりに彼らは自分たちでガイガーカウンターを持ちながら、自分たちの新しい故郷となるところを探したという。もとの村から約130キロ離れたところにあるマヒリョウで彼らはやっと、ガイガーカウンターの針が揺れないところを見つけた。
この地区の首都クラスノポリエで私たちは休憩を取り、タティアナのかつての同僚で今は自治体議会の議長をしている女性と話した。村で受けるのと同じように彼女は心温かく私たちを歓迎してくれ、彼女のふるさと自慢は痛々しいほどだった。かつては2万6千人の人がクラスノポリエに住んでいたが、今では1万人にも満たないこと、学校の給食は無料だしついこの間までは給料に特別手当が付けられていたのだが、それでも人口は増えなかったという。

「私たちは忘れられたとは思っていません」と議長は強調し、どの公共の建物でも線量が定期的に測定され、子供たちはサナトリウムかまたは外国で夏休みを過ごして回復しています、と語った。子供たちが健康なのに、なにから回復する必要があるのかについてはよくわからないという。私たちにどうしても新しくできたスポーツセンターを見せたい、と彼女は言い張った。こういうものはどこにでもあるものではないから、というので私たちが目にしたのは、ジェットバスと子供用プール、それから本格的な25メートルプールだった。

「どうです、素晴らしいでしょう。このほかにまだサウナもあるんですよ」

つい最近耕された畑やまだ若い松林をの脇を通り抜けていく。放射能のシンボルのついた立ち入り禁止の標識を過ぎて初めて、自然はそのままの姿で放っておかれている。(道路を固める)コールタールの痕跡は一切残っていない。道の端に、誰かがどかした丸太が横たわっている。ある十字路にかなり風化した石碑が立っているが、そこに刻まれた名前はもうわずかしか読み取ることができない。イヴァン・サイテフ、ユリ・ヤキモヴィッチなどが「ドイツのファシストとの戦いで命を落とした」。この石碑が属していた村はとっくにナチス軍に焼き払われてしまってない。

タティアナの村ももうこうした戦争記念碑しかないようだ。しかし、彼女の息子が森の中で教えてくれた。樹齢おそらく20年か30年ほどの松の林の真ん中に、ある二階建ての建物の構造壁が見えた。この建物はかつて教員の職員寮で、そこに彼らは住んでいたというのだ。イゴールが思い出せる最後の記憶は、彼の父親が電線を切断したことだそうだ。イゴールがどうしてそんなことするの、と聞くと父親は、短絡しないようにだ、と答えた。ブルドーザーは大抵夜中に襲ってくる。住民たちがドア、窓、床などを外しておく時間がないようにだ。しかしどこからか皆、どの家が次に取り壊されるか事前に情報を持ってきた。それで自分たちの家の最後の木材まで残らずバンに積んでモスクワでペンションとして売って金儲けをした人もいた。イゴールは、どうして土が出てくるまで職員寮は掘り起こされなかったのか、理由はわからない、といった。その他の住宅は皆木造だったので、もしかしたらコンクリートには、木より放射能があまり堆積していなかったからか、もしかしたら取り壊すのがもっと手間がかかったからだけかもしれない。

さらに森を進み、かつて食料品を売っていた店に出た。この店もコンクリートでできていた。屋根は落ち込み、桟がバラバラに落ちていたが、壁にはまだかつてチーズや肉売り場だった場所にタイルがあるのが見えた。

「昔はお店の前に駐車場があったんだ」とイゴールが教えてくれる。「車がたくさんあって、こんなに森閑としたとこじゃなかったんだよ」

それから私たちはコンクリートでできた3つ目の建物に到着したが、ここはかつてタティアナが毎朝、学校に着くと頭の禿げた義理の父親と顔を合わせた校長室の入り口のすぐ横にあった。壁には次の同窓会の日にちが貼ってある。89年度の卒業生は毎年8月最初の土曜日に集まることになっている。ウラジミール、もしこれを読んだなら、電話してくれ、と書いてある。木の床は抜けているが、催し会場でもあった体育館は壁にまだバスケットボールのバスケットゴールがついたままだ。不思議なことに、ガイガーカウンターを床においても点滅しない、建物の中でも以前校庭だった森の中でも、だ。私の靴底すら汚染されていない様子である。

帰り道、高速道路に絶滅収容所があったことを示す標識があった。トルステネツでは最低6万人の人間が殺されたが、そのほとんどはユダヤ人だった。この収容所を生き延びたごくわずかなユダヤ人はまた、解放後「スパイ」としてグラグで消息を絶っている。NKWD(内部人民委員部、ソ連スターリン政権下で刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた国家機関)は、彼らがドイツ人に殺されなかった理由はそれ以外にないと考えたのだ。いわゆる「放射能エコロジー・ゾーン」では、被ばくさせられた者は自ら「怪しい者」になっていく。

ミンスクにある私のホテルの部屋から、原子炉から140キロ離れたゴメリで医科大学長を務めていたユーリ・バンダジェフスキーとスカイプ電話をした。彼はがん発生率が急激に増加することを公に発表したあと1999年に逮捕され、6年後には亡命を余儀なくされた。今日では彼はキエフで研究を続けている。まず私は彼に、ベラルーシの役所では何のデータも収集していないのか、それとも収集してもそれを単に公表しないだけなのか、聞いてみた。

「それはわかりません。10年、12年来、ベラルーシからは核医学に関する論文で信頼のおける資料は何も出てきていません。でも、私たちが持っているデータをベラルーシに当てはめれば、あそこは放射線の影響がずっと強かったので、問題は小さくなるどころか、増加しているに違いないと思います」

「というとどの程度?」

「今いるのはチェルノブイリ事故から2代目の世代です、つまり事故後に生まれた人たちですね。その両親たちが遺伝子に損傷を受けたせいで、彼らはずっと数が少なくなっています。もうすでに死んでしまった人も多い。あるいは、子供を残すことができない人も多い。あるいは、子供を作ってもその子供たちが損傷を持った遺伝子を受け継ぐのです」

私は、立ち入り禁止区域にいたのにガイガーカウンターがならなかったことを報告した。ということはもう大丈夫なのではないですか? するとバンダジェフスキーは私を諭した。放射能はもう表面からは消えているので、その土地に立つことは問題ないが、その土地に生えるものを決して食べてはいけない、根を通じて放射能は植物に入り込むのだ、と。森林の火事もとても危険です、と彼は言う。ああ、それで立ち入り禁止杭域に入るチェックポイントのところに監視塔があったのか。

「私たちを案内してくれた生物学者の人は、売りに出される前に食品はすべてチェックされるから大丈夫と言っていましたが」
「ええ、検査することはしますが、値が高いと、汚染されていない食品と混ぜて、大体標準値になるようにするんです。そしてこういう食品が全国にばらまかれて売られているんです」
「でも標準値自体は安心できるものなんでしょう?」
「いや、もちろんそうではない、そのことを私はずっと言ってきたんです。遺伝子がすでに損傷を受けてしまっている世代にとっては、わずかな放射能の量でももう危険になるんです。それにですね、食べ物というのはレントゲン撮影とはまったく別物です。食べ物に放射能など、少しも入っていてはいけない」
「それじゃあこれは……殺人とは言いませんが、過失致死、集団過失致死じゃないですか」
「過失ではない、科学的に行われているんです、これは集団殺人です」

それで靴をどうしたものだろうか? 両方とも捨てるべきだろうか、新しいのももちろん?

ユーリ・バンダジェフスキーはモニターの中でおおらかに笑って「靴なんて、問題ありませんよ」と安心させてくれた。「どちらか1足をよく洗って、チェルノブイリの思い出に取っておけばいい」。

2016年2月16日火曜日

フクシマ訪問記

2015年11月に白河のアウシュヴィッツ平和博物館と同じ場所にある原発災害情報センターでのお話会に招いていただき、フクシマ事故後初めて東北を訪れた。そしてその翌日は、原発事故で線量が高くなって住めなくなり、白河に避難して新しい生活を始めていらっしゃるお二人の男性に、被災地を見せてもらう機会に恵まれた。私にとっては、それまで頭で理解していたはずのことが、実際に自分の目で見て衝撃を受けることばかりで衝撃的だった。その話をベルリンに帰ってから友人に話すと、放射線テレックス(Strahlentelex)にぜひ書いてみないかと薦められ、自信はなかったが自分の印象と気持ちを素直に書いてみることにした。それが2016年2月号の放射線テレックスに掲載されたわけだが、お世話になった白河のアウシュヴィッツ平和博物館の小渕さん、私たちに付き合って自分の故郷を見せてくださった横山さん、菅野さんにもう一度感謝の気持ちを伝えるためにも、ここに日本語に訳すことにした。思いがけないすばらしいおもてなしをしていただいただけなく、私たちのために時間をかけて故郷を一緒に回っていただいたことには、言葉では言い表せないほどの贈り物だった。また、今回私はつくづく自分がジャーナリストには向いていないと自覚した。ちゃんとした記録も残さず、メモも走り書きばかりでゆうきさんと雅子さんにあとからいろいろ私の記憶の穴ぼこを埋めてもらった。皆さん、本当にありがとうございました。
(ゆう)

Strahlentelex2016年2月号
本文はこちら:http://www.strahlentelex.de/aktuell.htm#aktuell


フクシマ訪問記
前の晩、雪がしんしんと降り始めた。初雪だそうだ。2015年11月25日。パリに長く住んでいる、バイタリティあるゆうきさんに同伴する形で、私は事故後初めて東北に足を踏み入れた。あの三重の災害があってもうすぐ五年だ。ゆうきさんは寒がりで、あちこちに使い捨てカイロを貼り付けている。白河にある原発災害情報センターの集いの部屋に、お話会の後交流会が行なわれるということで場所を移したが、石油ストーブが燃えている。子供時代を髣髴とさせる石油ストーブの独特の暖かさだ。とりあえず私は、ストーブに張り付いているしかなかった。部屋の中央に置かれた長い机には、次から次へと皿や鉢に盛られたご馳走が並べられていく。参加者がそれぞれこの集まりのために自宅で作り、持ち寄ってくれたものだ。お酒や飲み物、お茶が加わり、予想していなかったご馳走つきの「交流会」が始まった。およそ20人くらいだろうか、白河近郊からこの原発災害情報センターに集まってきたこの人たちが、ことにこの5年来、どのような生活を送り、なにを経験してこられたのだろうか、私には詳しく知る術もない。この情報センターはアウシュヴィッツ平和博物館と同じ土地に建っている。博物館の館長を務める小渕さんは、以前は町から町へと移動してナチの犯罪を伝える展示会を催していたということで、それから展示会を催していた場所が閉鎖になったところ、白河で土地を無償で提供してくれる人が現われ、それでここで博物館を開くことになったという。小渕さんがそこに江戸時代中期の古民家を移築させてさらに建て増したのが、アウシュヴィッツ平和博物館のかわいい建物だ。中に入れば、ドイツの収容所跡や博物館などで見てよく知っているナチスのおぞましい過去の事実を証言する写真や資料、遺品などが展示されている。奥には特別企画の展示室があって、これまでにパレスチナの写真展や世界ヒバクシャ展、チェルノブイリ写真展などが催されてきた。さらに建物の隅にある図書室で、私は生まれて初めて本物のドイツ語の『我が闘争』を手にした(ドイツでは禁止されていたからだが、著作権が切れて、このたび歴史家コメント入りの本が発売されたばかりだ)。どうやら結婚のお祝いに花嫁花婿に町の市長から贈られた本らしい。恥ずかしいことに、私はここに招かれるまで、アウシュヴィッツ平和博物館が日本にあることすら、知らなかった。

招待はゆうきさんを通じて回ってきた。彼女は以前から小渕さんと知り合いで、本当は彼女一人が情報センターで話をするように招かれていたのだ。でも、原発大国であるフランスのあまり幸先のよくない反原発運動の話をしても気が重くなるだけだからと、ちょうどベルリンから東京に来ている私を一緒に招いてはどうか、と推薦してくれたのだった。ドイツの脱原発に至った状況や、エネルギーシフトについて話してほしいということだった。小渕さんはさらに、1泊してくれれば次の日に被災地を見せる、とまで言ってくださった。私はでも、なかなか決心がつかなかった。大体、私などそんなところに行って皆さんの期待に応えられるような話ができるだろうか? ドイツに関するエキスパートであるようなフリはしたくなかったし、そもそもいわゆるダークツーリズムをしたくなかった。被災地をちょっと訪れただけで「私は被災地を見て、被災者たちに会ってきた」というのはいやだったのだ。でも、最終的に行くのを決めたのは、これまでメールや電話でしか話したことのなかった飛幡祐規(たかはたゆうき)さんに実際に会って話がしたかったことと、ドキュメンタリー映画監督の坂田雅子さんが同行するといってくれたこと、そして、いったいどんな人が白河でアウシュヴィッツ平和博物館を営んでいるのか知りたかったからである。

菅野さんはユーモアのある気さくな男性で、年金生活者とは思えぬ若さだ。彼が今回、自分の車で突然失われてしまった故郷を見せてくれるという。もう一人の物静かな同伴者は横山さんといい、高校で日本史の先生をしていたそうだ。実直でとてもまじめそうな男性で、彼は私たちのためにすでに巡回ルートを考えて準備してくれており、その周辺の地図までコピーしてくれていた。私たちが宿泊していた旅館に翌朝迎えに来てくれると約束していたが、ぴったり9時半に部屋の電話が鳴った。受話器をとると、旅館の女性があまりにシュールなことを言ったので、私はあまりに驚いてその言葉を一人胸のうちにしまった。彼女はこういったのである。「アウシュヴィッツからお迎えが来ました」

白河はいわゆる「中通り」にある。奥羽山脈と阿武隈高地に挟まれ、宇都宮の北、郡山の南に位置し、東北新幹線を使えば東京から新白河まであっという間だ。迎えに来ていただいた旅館からまず二本松まで北上し、それから菅野さんの故郷である川俣を通って東へ進み、飯舘を通って南相馬まで行き、そこから太平洋沿岸を東に浪江、双葉、大熊、富岡、楢葉を走る。福島第一原発の事故さえなければ、私はこれらの小さな町の名前を知ることはおそらくなかっただろうが、今ではこの名前はどれも、毎日のように日本から入るニュースで馴染み深くなっている。

菅野さんは農家の出身で、通学に毎日長くかかった、と控えめに語ってくれた。小さいときはバスで、少し大きくなってからは自転車で通ったそうだ。すると行きはよいよいで帰りは大変だったに違いない。彼の家は川俣でも山木屋地区にあり、ここは汚染がことに激しかった地域だ。山木屋は海抜約500メートルほどの山の奥にある。ここでは線量があまり高かったため、町全体が避難する権利を得られるよう町長が奮闘したという。菅野さんの土地からは谷の向こう側に別の部落が見えるが、ここは二本松に属していて、線量は同じくらい高いにもかかわらず、二本松の住民たちは避難の対象とならなかったため、子供を含む住民がすべてここに残った。

菅野さんの家は典型的な日本家屋の黒い屋根瓦を持つ立派な家で、玄関の前に立つ大きな柿の木には、大きな柿がオレンジ色に生っている。まるで絵本のようだ。車寄せ付近に二十個近いブルーの「フレコンバッグ」が並んでいる。おぞましい「フレキシブルコンテナーバッグ」の略だが、これはこの地域の平らな場所にはいたるところに今やあふれかえっている。ほとんどは黒い色で、この袋にはいわゆる「除染作業」で削り取った土が入っている。菅野さんに、ここも除染したのかと聞くと、想像もしていなかった答えが返ってきた。「いや、ここにはうちの家財道具が入っています」町長が住民と一緒になって運動したため、国はここを田んぼも含め除染することを決定した。2013年の8月には、避難指示解除準備区域に指定されたので、家にあるものすべてをフレコンバッグに入れて家の前に出し、収集できるようにしておくようにとのお達しがあったのだが、何カ月経った今もこのままだ、と菅野さんは語る。この目の前に置かれた十数個の水色のフレコンバッグを見て、今菅野さんが話した言葉の意味を理解したとたん、涙が思わずこみ上げてきた。彼の家は大きな地震にも持ち堪え、津波にも襲われなかったのに、目に見えない放射線が、彼の住居を、愛着のあったもの、彼の人生に何らかの意味を持っていたもの、彼と生活をともにしてきたものと一緒にあっという間に汚染し、住めなくしてしまったのだ。彼はあたふたとすべて持っているものをそのままに去らなければならなかったのだ。私は息が詰まる思いがした。原発の最悪事故というのは、そういうことだったのだ。菅野さんは、自分が建てた家、何年も住み、本職の傍ら農業も営んでいた土地が荒れ果て、自分の人生を具象化したすべてがこうして放射性廃棄物と宣言されてプラスチックの袋の中で荒れ朽ちていくのを、傍観していなければならないのだ。私は唖然として言葉も出ないのと同時に怒りがこみ上げてきてたまらなかった。フクシマからの話をたくさん聞いてきたはずなのに、自分には十分想像力がなかったということか。

菅野さんの家に行くには、車道から脇に入った急な坂を昇らなければならないが、その道には格子のついた金属の蓋が乗った下水路と思われる溝が横に走っている。ここに入ったとき、菅野さんがわざわざ車を降りて、コンクリートで舗装された道の上に外して寝かせてあったそのがっしりした格子を溝に戻すのを私たちは見ていた。また車に乗って出発するときに、菅野さんはこれと反対の動作をした。黙ってその様子を見守る私たちに、理由を説明してくれた。「空き巣狙い対策です」

私たちはさらに東に向かう。菅野さんは口数は少ないが時折車窓から「あそこが私の母校の中学です」とか「これが私の通学路でした」と語ってくれる。川俣から飯舘に入ったところにあるモニタリングポストは毎時0.6マイクロシーベルトを示していたが、予想通り私たちが借りて持っていたガイガーカウンターが示すのはそれより高い値だった。浪江の立ち入り禁止の警戒区域に入るところでは毎時0.8マイクロシーベルト。どこをみてもパワーショベルと除染作業員ばかりだ。道路沿いに「除染作業中」と書いた旗がはためいていて、あたり一面、黒いフレコンバッグがぎっしり並んでいる。夏の終わりにはこうして削り取った汚染土を入れた袋が嵐で阿武隈川に流されてしまいスキャンダルとなったので、それ以来通し番号を通すことになったそうで、黒い袋に番号が書いてあるのだが、これだけ信じられない量の数字で果たして意味があるのか、私にはわからない。信じられないほど広範囲の土地、おそらく田んぼだったに違いない平らな土地の表面が削り取られ、フレコンバッグに詰め込まれて何重にも重なって並べられている。このプラスチック容器はもちろん放射能に汚染された土を入れるために作られているわけでも、長期間野外で保管するようにできているわけでもない。フクシマ事故があってから比較的すぐ詰められた袋はすでに風雨にさらされて破け、壊れ始めている。菅野さんは言う。「除染できているのは大体10%くらいです。山はほら、除染しようがないでしょう」

常磐自動車道を通って浪江に向かう。車中で毎時0.5マイクロシーベルトを測定した。それから私たちはつい最近開通された沿岸沿いの国道六号線を走る。国道六号線は事故以来ずっと閉鎖されたままになっていて、津波で残された自動車を運び去ることもできないまま放置されてきた。ちょうど数日前に私は東京で、この地方に住むとても気持ちのよい話し方をする、私たちのお話会にも出席してくれた武藤類子さんの講演に出かけたのだが、その時武藤さんがちょうど、政府寄りの団体が推進して実現した国道六号線の清掃ボランティア活動「みんなでやっぺ! きれいな6国」について話してくれたばかりだった。スキャンダルは、この清掃活動の実行委員会が若者たちをボランティアとして参加させたことだった。約200人ほどの地元の中高生たちが10月10日に、まだ場所によって高線量のこの国道で「ボランティア」としてゴミを拾い、清掃活動に携わった。当然だがたくさんの団体や市民たちがこの「郷土の復興」という名においてなされる無責任な計画ややり方に反対し、抗議した。武藤さんは講演参加者に新聞「福島民友」に掲載された、開沼博(かいぬまひろし)なるいわき市出身の人物が書いた記事をコピーして配ってくれたが、これは、罪なき市民を攻撃し、根拠ない偏見を助長し、殺人者扱いするヘイトスピーチを行なっている、という、この市民団体等の抗議を非難する文章だった。

この国道六号線を南に下り、事故のあった原発に近づく双葉と大熊の間の約14キロほどを進んでいくと、線量計は最高毎時4.8マイクロシーベルトまで上がった。ゆうきさんは約10分ほどはコンスタントに2マイクロシーベルト以上で下がらなかった、と記録している。私はその場で自分の目で見ることと、同時にたとえば若者による清掃活動がここで行なわれたという話を飲み込むことができない。どうして中高生がここでわざわざ道路に立って落ちているゴミを拾わなければならなかったのだ? このプロジェクトはもともと、原発事故が行なわれる前に計画されていたそうで、「ハッピーロード構想」といって桜の木を植える予定だったらしいが、3.11があって延期になったそうだ。このアイディアはだから延期はされたものの中止にはならなかったのだ。誰のためのハッピーロードだろう?

車でさらに進んでいくが、約5年前に津波に呑みこまれたとは信じられないほどの活気だ。ここにはまた元のように生活し、仕事をする人がいて、遊ぶ子供もいるのが、制服を着た中高生や子供の姿で分かる。南相馬では列になって並んで建っている、なんとも殺風景で哀しい仮設のプレハブ住宅を見た。これはもともとは一時的な応急住宅として建てられたはずだが、ここにまだいる人たちにとっては、それが長期の住まいになってしまったわけだ。警戒地区の入口ではユニフォームを着た男の人たちが立って見張っているが、彼らは簡単なガーゼのマスクをつけているだけだ。菅野さんも横山さんも通行許可書を持っていなかったが、横山さんが車を降りて交渉すると、通ってもいいという合図が出て、私たちはゴーストタウンにゆっくり入っていった。浪江だ。地震でつぶれた家屋がまだそのままの形で残っている。歪み、潰れ、傾いたまま、生気なく取り残されている。それでも、あの強い地震に持ち堪えた家屋もかなり多くあったことに驚く。それなら、もちろんここでもう一度復興することはできたはずだ、放射性物質という目に見えない毒がこの土地を半永久的に汚染しないでいたならば。

私たちに同伴してくれた菅野さんと横山さんは、確かに恵まれている方なのかもしれない。お二人ももちろん故郷を、家財道具を一切失ったわけだが、彼らには年金も入り貯金もあり、あの哀れな仮設住宅に留まることなく新生活を白河で始めることができた。きっとそれよりもっとひどい悲劇が、不幸が、絶望的で未来の見えない状況があるに違いない。でも、それでもみんなに共通することが一つある。それは、彼らが皆人生の真っ只中で引き裂かれた、ということだ。それも単に大地震や津波によってではなく、目に見えない、おぞましく気味の悪い毒によって。しかもその毒は一度だけ拡散したのではなくて、今も続いて水に、空気に、食物に、土に流れ込み、家族、友人関係、社会に大きな溝を掘り、傷を深くしているのだ。そういう意味で原発事故というのは戦争と同じだ、これは無作為に与えられる暴力だからである。そしてその暴力に人間は長い時間にわたって絡めとられ、それを耐えることを余儀なくされる。核の脅威といえば普通は核戦争を指すが、核戦争と原発事故はどこが違うのだろう? 私にはその違いが分からない。

横山さんは双葉の出身で、車窓から指してこう言った。「あそこに海が見えます。前はここからは海は見えなかったんですが、津波でみんな倒されてしまったので、今はここから海が見えるんです」確かに遥か向こうに太平洋が光って見える。双葉を通る道路から、横山さんが指で国道の反対側を指した。「あそこに私の自宅があります」私が、家の様子を見に、定期的にお戻りになるんですか、と聞くと、彼は口数少なく語る。「いえ、もう長いこと帰ってないです」以前は何度か戻って最低限のことを済ませていたが、今ではもう長い間帰っていないという。哀しいとか、つらいとかいう形容詞を使わずに、ただ淡々と行動や状況を説明するに留まる彼の口調に、私はでも底なしの哀しさを感じてしまう。もう生きている間にここに戻れることはないと思っています、と横山さんは語った。

いわゆるファミリーレストランで遅い昼食を摂ったが、思いがけず満員だった。ここで私たちは軽食を食べながら横山さんと菅野さんにいろいろ質問した。たとえば原発災害情報センターがどのように設立され組織されているのか、なにをしているのか、などだ。私たちがお話会をしたホールも、それからお食事会となった集いの場所も、両方とも古民家様式と校倉(あぜくら)造で、寄付された木や梁、屋根で有志によって手作りで建てられたものだそうだ。この近辺に住む、自分の居場所ではなかなか自由に発言することのできない人たちがここに集まり、交流する場所、不安、悩み、問題を語りあい、体験や意見を交換する場所となっているのだ。ここで人々は情報を集め、勉強し、話し合い、議論し、どういう問題があるか、なにができるか考えあったり、時にはお酒とおいしいご馳走を持ち合って、生の喜びをわかちあう場所なのである。

高速を通ってとうとう出発点である新幹線の新白河駅まで送っていただいた。丸一日私たちのために割いて案内してくださったお二人を昼食に招くことも許されなかった私たちは、せめてガソリン代だけでも、と言ったが、二人とも頑なに受け取ってくれなかった。「遠くからわざわざ来ていただいたお客様からそんなものはお受取りできません」それではせめて災害情報センターへ寄付としてお受け取りください、と何度も言って、頼むように封筒を受け取ってもらった。

もうすぐあの三重の災害から5年が経つ。恐ろしいニュースはあの時、何段階にも分けて私のもとに届いた。最初は地震、それから津波、そして福島第一原発の爆発だった。津波と爆発後画像で見た、あれほどショッキングな図はこれからはもうあまり出てこないかもしれない。しかし脅威で不安を与えるニュースはこれからも続いていくだろう。傷の深い、不吉な余波は静かにやってきて長く留まり、どんどんひどくなっていく。その間に、それらを近くで見ない人たちはフクシマを日々忘れ去っていくのだ。私がこの短い滞在の間に見たもの、聞いたことは長く余韻となって残った。今でも、菅野さんの家の前の木になっている見事なオレンジ色に熟れた柿が目に見える。そして、その横で菅野さんの人生を形作っていたものが放射性廃棄物となって水色のプラスチックの袋に入れられ、置きっ放しにされていたのを、私は忘れることができない。これらの静かな悲劇を理解するよう努力し、このようなことが二度とあってはならないと思いを噛み締めるのが、私たちのような「外部者」の役目ではないだろうか。この短い滞在で信じられないほどたくさんのことを授かった私は、ここに来ることができたことを本当にありがたく思う。そして今一度思いを新たにしたのは、本当に百聞は一見にしかず、ということであった。

2015年11月3日火曜日

なにごともなかったように

COP21国連気候変動会議が11月30日から12月11日までパリで開かれる。原子力大国であるそのフランスでやっと「エネルギー移行法」が成立したようだが、いったいどの程度まで「本気」なのだろうか。原子力エネルギーを悪とするドイツの風潮と違い、フランスの原子力神話も原子力ロビーの力も相変わらず強いからだ。ツァイト紙にちょうどそれに関する記事が載ったので、訳した。(ゆう)


2015年10月29日付け ツァイト紙 
なにごともなかったように
Als wäre nichts geschehen
DIE ZEIT Nr. 44 vom 29. 10. 2015

フランスでもやっとエネルギー移行法ができた。原子力からの移行を約束する法律だが、電気会社も市民も、それを本気にはしていないようだ。

Georg Blume報告

一見した限りでは、あたかもフランスもやったか、という感じを与える。国連気候変動会議を開催する国として、フランスが原子力大国から一挙に風力発電や太陽光発電の国に生まれ変わりでもするように。国民議会が夏に長年の約束だったエネルギー移行法を成立させたときのことである。「我々は皆、地球に対し責任がある。だから我々は世界に対し例を示す必要がある」とフランスの大統領フランソワ・オランドは言った。

11月にパリで、新しい気候変動枠組条約を話し合うために集まるその世界はしかし、オランドのビジョンを目の当たりにすることはないだろう。フランスのエネルギーシフトは、その最初の段階で留まってしまっているからだ。新しい太陽発電設備や風力発電設備を建てる代わりに、フランスはまた原発を建設しようとしている。昔のように勇ましく独力でローヌ川やロワール川沿いに建てるわけではなく、中国の財力を使って、イギリスに建てようとしているとは言っても、である。

フランスのエネルギー政策に関する2015年の大きな出来事は、この新しいエネルギー移行法の成立ではない。フランスの電気会社EDFが中国のパートナーと最近交わした契約である。EDFは発電量から言えば、今でも世界最大の電気会社だ。EDFの社長ジャン=ベルナール・レヴィはロンドンでこのたび、中国の建設会社2社と原発建設契約に署名した。これは、イギリスの西南部に2基の原子炉を建設する融資契約だ。

こうして、中国の取引相手の尽きることのない資金を頼りに、財政的に行き詰っていたEDFはフランスの新エネルギー移行法がもたらす束縛から同社の原子力ビジネスのコンセプトを救済したい考えだ。レヴィのメッセージはこうである。「恐竜はまだ生きているぞ!」

フランスの現在エネルギー政策にまつわる戦いは、ドイツではちょっと想像しがたい。先週レヴィと環境大臣セゴレーヌ・ロワイヤルは公開文書ですら攻撃しあっていた。レヴィが大臣に、フランスのフラマンヴィルにあるプロトタイプの原子炉の建設期間延長を申し入れたところ、ロワイヤル環境大臣は、その代わりにドイツとの国境沿いフェッセンハイムにあるEDF最古の原発を廃炉にするよう求めたのである。しかしレヴィは、フラマンヴィルの新原子炉が稼動してからしかフェッセンハイムの原子炉を廃炉にはしたくない。オランドはしかし、2017年までの彼の大統領任期中にフェッセンハイムを廃炉にすることを選挙の公約にしてしまっている。この争いがどう落ち着くかは、まだ誰にもわからない。

EDFは命令を与えられてそれを実行する家来ではない。ドイツではフクシマ事故とメルケル首相が原発の運命を決定した。それ以来E.onやRWEなどのドイツ電気供給会社の上にはなんの星も輝いていない。フランスはしかし、EDFの意向でフクシマ事故後原子力エンジニアを派遣した。あたかもフクシマ最悪事故が日本人の無知によってのみ起こされたかのように演出したのだ。チェルノブイリ事故のあとも同じだった。ソ連の原子炉事故後も、フランス人は自国の放射線量が上がったことを認めようとはしなかった。EDFはチェルノブイリ後もフクシマ後も、なにごともなかったかのように平然とそれまでどおりを続けていくことができたのだ。

EDFは730億ユーロの売上金と15万5千人の従業員を誇るフランスの例外企業だ。1946年に創業以来企業としての誇りは高く、労働組合も強い。70年代から80年代にかけてEDFは約60基もの原発をフランス国内に建設した。競合会社など事実上誰もいなかった。
これらの原子炉のうち58基が現在でも稼動している。旧式原子炉の現代化や放射能廃棄物の処分など、結果として生ずる費用は実際には組み込まれて計算されていないので、フランスの1キロワットごとの電気料金はヨーロッパで一番安い。今でも原発電気会社EDFはフランス国内で一番好かれている企業である。2000年以降ヨーロッパで新しく作られたエネルギー関係の法律ができて初めて、EDFはその独占企業の地位を返上しなければならず、新しい私経済的構造を押し付けられ、株式市場に上場したが、その核心では何も変わっていないのが実情だ。現在でもEDFの株の80%以上を国が所有しており、フランス国内の90%以上の電力を - そのうちほぼ75%が原子力発電だ - それも比較的安い電力料金で供給している。レヴィはすでに2050年までに、古い原子炉に取って代わるべき新原発を40基建設するという計画を出している。

風力や太陽による再生可能エネルギーではしかし、フランスはヨーロッパの中でも後れを取っている。国内の電力需要の5%も満たしていない。それはことに、EDFのせいだ:パリのエリート学校を卒業したEDFのトップマネージャーたちや労働組合のリーダーたちはこぞって、「すべてを原発エネルギーで賄う」企業方針をパリの政府だけに留まらず、小さな田舎の村一つ一つに至るまで浸透させるだけの影響力を持ち続けてきたからだ。

グローバルにこの分野をリードするカリフォルニアの太陽エネルギー企業サンパワー社ですら、フランスでは成功できなかった。彼らはフランスの石油マルチ企業トタルを2011年に買収してEDFをつまずかせようと思ったのだが、目論見どおりにならなかったのだ。「原子力ロビーはいまだに強力だ。国中で彼らの原発があらゆる税金を使って政党や市庁舎に金を出している」とパリのサンパワーのマネージャーフランソワ・ル・ニーはEDFに対する彼の長年の戦いを説明している。「公式には再生可能エネルギーを推進しているが、実際には1%以上にはならないのだ」と。

新しいエネルギー移行法は、それをこそ変えるつもりのようだ。ここにははっきりと目標が書かれてある。2030年までにフランスの発電の40%が再生可能エネルギーで満たされること、2025年には遅くとも、フランスの国内電力の50%しか原発による発電であってはならない、としている。しかしそのためにはフランスでは「文明変換」が必要だと、国立太陽エネルギー研究所の所長ジャック・ル・セニュールは認めている。EDFだけでなく、あらゆる市庁舎、そして市民たちが電力の消費と生産について新しい考え方をするようにならなくてはならない、と大統領が研究所を訪れた際に、ついでのように述べている。

しかし、誰がフランス人に考え方を改めるよう強制するのだ? 「我々が陥っている罠は、安い電力料金です」とジャック・ル・セニュールは語る。再生可能エネルギーが電気料金を高くした場合に、フランス人の誰がそれをよしとするだろうか?

ここにEDFのごり押しの権力がある。EDFは、かかる費用に合わせて電力料金を値上げする代わりに、原子力経済の結果かかる費用を消費者に請求書の枠内で払わせる代わりに、借金をするのである。国家が所有者として保証をするので、EDFはそれが可能だ。債務は370億ユーロに膨れ上がった。これは年間の売上高の約半分に相当する。 

これは本来ならスキャンダルのはずだ。というのも、借金は税金を払う市民がいつの日か払わせられることになるからだ。しかし、この自己欺瞞に終わりを告げようとする人は誰もいない。大統領ですら、同じだ。そして約束のエネルギー移行法を実現するためには、電力料金は上がらざるを得ない、さもなければどんな刺激策や補助金を持ってきてもEDFと競合しようとする会社が市場占有率を上げるのは難しい。しかし、電力料金を極端に値上げすれば、反対運動が高まるだろう。そんなことはオランドはできっこない。エネルギー移行法はどうあれ、だ。

2015年10月11日日曜日

これで日本は滅亡するか、という問題だった

フクシマ事故発生当時総理大臣だった菅直人が今ドイツに来ている。秋恒例のフランクフルトブックフェアで、ドイツ語訳された彼の著書「東電福島原発事故 - 総理大臣として考えたこと」を紹介するために招かれたのだ。それに伴い、ベルリンでは、ベルリン日独センター主催で緑の党の財団ハインリッヒ・ベル財団の会場で講演をおこなうことになっている。シュピーゲル・オンラインが菅直人とおこなったインタビューをここに訳した。 (ゆう)

菅元首相、フクシマ事故について語る
これで日本は滅亡するか、
という問題だった
インタビュー:ヴィーラント・ヴァーグナー
本文はこちら:http://www.spiegel.de/politik/ausland/ex-premier-ueber-fukushima-die-frage-war-ob-japan-untergeht-a-1056836.html

フクシマの原発事故は、もっとひどいことになっていた可能性がある。単に偶然が重なり、日本全体が崩壊せずに済んだのだ」と当時首相だった菅直人氏は語る。彼は巨大都市東京を避難させることも考えたという。

シュピーゲルオンライン:菅さんは首相として2011年3月11日とそれからの数日間、福島第一原発の事故とその影響に対処していたわけですが、世界が想像していたより事態は深刻だったのでしょうか?

菅直人:私たちは、間一髪のところでもっとひどいカタストロフィーになることから逃れたと言っていいでしょう。もし当時、東京とその周辺の約5千万人の人間を避難させなければならなかったとすれば、日本という国の壊滅となっていたでしょう。首都東京はフクシマから250キロしか離れていません。そうならなかった理由としては、結果として2つの点が挙げられます。1つは、東電の社員が献身的にわが身を犠牲にして残ってくれたこと、もう1つは、幸運が偶然にも重なったことです。これはまさに神の加護としか言いようがない。

シュピーゲル:日本の原発はそれまで、まったく安全と思われてきました。それなのに、実際は偶然しか頼りにならなかったわけですか?

:はい。例えば、4号機の燃料棒を入れておく貯蔵プールにまだ水があったというのは、まさに幸運であったというほか説明のしようがありません。また、1号機から3号機までの格納容器には穴が開いていたため、圧力の抜け道がありました。もし格納容器が爆発していたら、被害者の数はもっと多くなっていたことでしょう。それに原発敷地はもっと汚染がひどくなっていて、救助隊が近寄れない状態だったはずです。

シュピーゲル:どうして東京を避難させなかったのですか?

:東京が危険になる可能性があることは、すぐに考えました。しかし、首相としてそれを公に話してしまえば、パニックを招くことになったでしょう。それに、そういうことになれば避難計画があることが必要だったでしょう。その代わり私がおこなったのは、避難の範囲を福島第一原発から徐々に広げていったことです。まず3キロから5キロ、そして10キロ、最終的には20キロまで半径を広げました。今知っていることを当時の私が知っていたとしたら、その半径をいっぺんに広範囲に広げていたと思います。しかし、こういうことの決断はとても難しいのです。半径を倍に広げれば、その分多くの人間を安全な場所に避難させなければいけないからです。

シュピーゲル:当時知らなかったことで、現在わかっていることとは何ですか?

:例えば、当時言われていたように、地震があった次の日ではなく、地震があってからわずか2時間半後に炉心溶融が始まっていたことです。すべてがものすこいスピードで進んでいくので、その事態の発展に私たちはあとからもたもたとついていくだけだった。高線量の下で作業しなければならないので、東電は3月12日の午後、格納容器から水素を放出するため、2つのベントを開くことに成功しました。でも、それまでにかなりの水素が出てしまっていたのです。それで原子炉のタービン建屋が爆発してしまいました。

シュピーゲル:原子炉建屋は次から次へと爆発しましたが、そのとき無力感を感じませんでしたか?

:1号機の爆発を、私はなんとテレビで初めて知ったのです。そのときにはすでにもう2時間が経っていました。私は何の情報も渡されていなかったのです、省庁からも、東電からも一切なにも、です。

シュピーゲル:それでも菅さんは3月15日の早朝に車で東電本社まで行き、東電の菅理職たちを一喝したということで、日本のマスコミから非難されましたね。総理大臣としての権限を越える行為だと。

:あの時、東電の社長は経産大臣に「福島第一原発に残っている作業員を撤退させたい」と言っていたのです。私にとってはそれは、日本が滅亡するかという問題だった。だから私は、自分で東電に行って幹部とどうしてもそこに残るようにと説得するよりなかったのです。もし本当に5千万人もの人間を避難させなければならない事態が生じていたら、誰が責任をとったでしょう、東電ですか?

シュピーゲル:日本のような産業大国が原子力発電事故を想定して準備していなかったというのは、ちょっと信じられないのですが。

:私は以前に厚生大臣や財務大臣も勤めましたが、専門家の助言を信頼して受けることが出来ました。しかしフクシマ事故後、原子力安全保安院長に事態を聞いてみても、彼が何を言っているかさっぱり分からない。それで「あなたは原子力の専門家なのですか?」と聞いたのです。すると彼は「いいえ、私の専門は経済です」と答えたのです。官庁の人事ですら、原子力発電の事故は原則としてないものと考えていたのです。

シュピーゲル:菅さんも首相として、始めは原発安全神話を信じていらっしゃったのではないですか?

:フクシマを経験してから、私の考えは180度変わりました。私は日本だけでなくできれば世界中で原子力エネルギーを放棄することを求めています。

シュピーゲル:フクシマではいまだに汚染水が太平洋に流れ込んでいます。同時に、今の安倍総理大臣はフクシマ事故後停止されていた日本の原発をまだ再稼動しようとしています。

:これは私に言わせれば完全に間違っています。原発がどれだけ大きい危険をはらんでいるか知った今となっては、ドイツが決定したように、我々も原発はすべて停止し、別のエネルギー源を開発すべきです。

シュピーゲル:市民の大多数が反対しているにもかかわらず、日本政府はなぜ今も原発に固執しているのでしょうか?

:電力会社、官僚、産業の利権が主な原因です。

菅直人:69歳。2011年3月11日に福祉まで最悪原発事故が起きた答辞に日本の総理大臣だった。太平洋沖で地震が発生した後、福島第一原発で複数の原子炉で炉心溶融が起きた。2011年9月、危機管理を非難されて辞任した。総理大臣就任後、わずか15ヵ月後のことであった。フランクフルトのブックフェアで菅氏は、原子力発電事故を巡る彼の体験をつづった『東電福島原発事故 ─ 総理大臣として考えたこと』のドイツ語訳を紹介する。

2015年10月10日土曜日

安倍話法

「市民の意見30の会」に依頼され、安倍が終戦から70年の今年8月に出したいわゆる「安倍談話」に関し執筆し、10月号に掲載された文章。(ゆう)


安倍話法
梶川ゆう

 戦後70年を記念したやたらに長い安倍話法の談話に関しては、日本でもかなり分析され、批判があった。この談話を「評価する」とか「評価しない」という表現が目立ったが、評価より前に根源的な問題は、この「談話」がいったい何のために出され、誰に向かって出されたかがもとより不明であることだ。「侵略」や「植民地支配」、「お詫び」に「反省」といった言葉があるかないか以前に、総理大臣がなにを意図してどういう内容のメッセージを出すかが問題だ。しかしこののらりくらりの作文は、キーワードは散りばめたか知らないが、自分を主語とする意見表明を一切避けた、掴みどころのない空のおしゃべりになってしまった。それはまず、この談話を発信する対象である「相手」がないからだ。そればかりか「自分」すらそこにいない。

 どこかで見覚えがあると思ったが、文章は文科省認定の歴史の教科書と同じだ。表面的には「過去」の出来事が描写されているようで、そこには主語がない。「飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々」「たくさんの市井の人々が無残にも犠牲になりました」「将来ある若者たちの命が、数知れず失われました」「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」と、あたかもすべて天災などの不可抗力であったかのような言い方だ。飢えや病に苦しませ、殺す原因を作ったのは誰か、たくさんの人々を無残に犠牲にしたのは誰か、若者たちの命を数知れず奪ったのは誰か、女性の名誉と尊厳(この表現もあまりに無責任だが)を傷つけたのは誰か、はここでは一切問われていない。もちろん問いたくないからである。まして「歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです」にいたっては、これが一国の総理が戦後70年という節目に公表する談話の内容だとはとても思えない戯言だ。取り返しがつかないから何も言わないというのが、この国の総理というわけか。

 それでも、世界で初めて原爆を落とされた犠牲国であることに関しての意識は相変わらず高い。今年5月にニューヨークで開催された核不拡散条約再検討会議で日本は、各国の指導者は広島・長崎の被爆地を訪問すべきだという素案を出し、中国の反発を受けてその提案は丸ごと削除された。日本が「被害者」に徹し「加害者」としての意識をさらに捨て去ろうとしているのが認められなかったのは当然だ。

 同じく5月、中国・韓国でかつて日本に強制労働を強いられた被害者の賠償訴訟や慰安婦問題で活躍している日本人弁護士グループがドイツの例を勉強しに訪れ、それに通訳として同行する機会があった。通訳をしたのはドイツの「記憶・責任・未来基金」(以下EVZ)と、ナチスドイツの強制労働者賠償問題に被害者側に立って携わってきたハンブルクの弁護士2人との話し合いだ。「EVZ」は、ナチスによるかつての強制労働者に対する賠償を行う目的で2000年に設立された基金で、基本資金の52億ユーロの半分は国が、残りの半分は経済界が出し、2007年に賠償金支払いを終えている。100カ国に散らばる合計166万人の元強制労働者に合計44億ユーロが払われ、現在は歴史を伝え、人権擁護を訴え、ナチス被害者を支援することを主な活動目的に、教育、若者の理解・交流振興、人権アピールのプロジェクト等を支援したり、奨学金を出したりしている。EVZとはその名が示すとおり、ナチスが行ったあらゆる犯罪、迫害、暴力、強制を記憶し、その規模、実態、状況、結果をはっきりと理解し、今と未来に伝える責任と、同時にその過去を償う責任がドイツにはあるとして、それを行動に示した基金だ。興味深いのは、資金を出した企業には、ナチス時代に強制労働者を雇っていた古い企業だけでなく、戦後できた企業も入っていたことだ。若い会社も「過去の清算を共に負担する」ことでイメージアップを図ったわけである。また強制労働者を雇っていた企業が、その下請け会社にも参加を要求した。実際は、この基金に寄付すればその分税金免除になったため、企業は免税の理由もあって金を出したともいえるし、その分国家が半分以上資金を出したのだともいえる。それでも「過去の清算」をする努力をアピールする意志があり、それを「望ましい態度」として受け入れる社会があったのだ。

 補償を行うにあたり、EVZは調査を丹念に行い、元強制労働者を見つけ出して登録し、強制労働の程度(収容所に入れられた人を最高レベルとして)に応じて賠償金を支払った。しかし期限内に登録できなかった人は、これでもう賠償金を受領する権利がなくなったし、受領した人たちもそれ以上に請求することは不可能になった。その次に私が通訳をしたハンブルクの弁護士2人は、ことにそのことを手厳しく批判していた。つまり、ドイツ国家は「要するにこれだけのことをしたから、もうそれ以上は要求するな」と言えるために、このような方法を選んだのだと。ナチスの負の遺産リストは長く、叩けばいくらでもぼろが出てくるようだ。それでもドイツはまがりなりにも向き合う姿勢を見せ、主語で謝り、「謝る」相手を定義してきている。

 安倍は「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言ったが、安倍が岸の孫であるように、私たちの子や孫は「あの戦争」をしてきた国で生まれ育つ以上、現在に続く関わりを否定することはできない。そこで思い出すのが1998年に小説家マルティン・ヴァルザーがドイツ書籍平和賞を受賞した際、アウシュヴィッツの罪については疑う余地はなくとも、その過去を毎日のように突きつけられては目を背けたくなる、過去の克服が儀式的になり単に道徳的な懲らしめとなっている、記憶の想起、罪の意識、償いは個人的なものであるべきだという主旨を謝辞で述べ、大論争になったことだ。当時のユダヤ人中央評議会議長ブービスはこれを「精神的な放火魔」と糾弾し、いわゆる「ヴァルザー・ブービス論争」に発展した。加害者は「これだけ償いをしたからもういいだろう」という権利はない、ということがこの時盛んに言われたが、謝罪をせざるを得ない宿命を作り出した根本が何なのかを見据えない限り、何も始まらない。謝罪というなら、その罪の内容を把握、分析、理解しなくては謝ることはできない。その罪を誰が誰に与えたのかをはっきりさせない限り、誰が誰に謝ることも、誰が誰を赦すこともできない。しかし発信相手も発信する主語もない安倍の空虚な談話では、お詫びや反省という言葉があろうがなかろうが誰の胸にも入りはしない。彼は主語で何も語っていないし、誰に対しても語りかけていないからだ。このような虚言を敗戦70年の談話として総理大臣がもったいぶって話したのだから、なんとも情けない国である。

2015年9月19日土曜日

なにがなんでもあっては困る ── フクシマの子どもたちの甲状腺ガン

IPPNWアレックス・ローゼン博士による、
福島県の小児対象2巡目甲状腺スクリーニング検査の
結果についてのコメント

今年8月末に福島医科大学が、小児対象の2度目の甲状腺スクリーニング検査の新結果を発表した。またもやたくさんの子どもたちに甲状腺ガンが見つけられたわけだが、これでもまだ国も福島県も「フクシマ事故」との因果関係は認めたくないらしい。IPPNWドイツ支部の小児科医師アレックス・ローゼン博士が、それについてコメントしているので、それを訳した。                     (ゆう)

原文:http://www.fukushima-disaster.de/deutsche-information/super-gau/artikel/c0954b1c87134eef0b3444d988c2d152/da-nicht-sein-kann-was-nicht-sein-da.html 

なにがなんでもあっては困る
  ── フクシマの子どもたちの甲状腺ガン

【2015年9月8日付け】
2015年8月31日に福島医科大学は福島甲状腺ガン検査の最新データを発表した。過去4年間、合計30万人以上の18歳未満の小児・若者たちが調査対象となり、それぞれ異なる時期に2回にわたり、検査を受けた。

いわゆるスクリーニング検査の1巡目では、537人に超音波検査で異常が発見され、穿刺細胞診断が必要となった。病理診断で、この中から113人にガンの疑いがあるとされた。これらの子どもたちのうち99人は転移または腫瘍が危険な大きさまで成長したということで手術を受けなければならなかった。手術後、一人が良性の腫瘍と判明したが、手術を受けたその他の98人では、すべてガンが確認された。

2巡目のスクリーニング検査で、対象の子どもの数が最初のスクリーニング検査の対象より多かったのは、フクシマ事故後に生まれた子どもたちも対象に含まれたからである。

2巡目のスクリーニング検査では、2014年4月から2016月3月まで合計37万8778人の小児を対象に、これまでに16万9445人が検査を受けている。この二度目のスクリーニング検査からはまだ、15万3677人の小児(40.5%)の分しか結果が出ていない。このうち88人は穿刺細胞診断が必要となり、病理診断で合計25人に新しくガンの疑いがもたらされた。このうち6人は転移または腫瘍が危険な大きさまで成長したということで手術を受けなければならなかった。そして全員にガンが確認された。

ということは、これで合計104人の子どもたちに甲状腺ガンが診断されたことになる。その全員が転移またはガン腫瘍が危険な大きさまで成長したことで手術を余儀なくされている。さらに33人の小児において甲状腺ガン発症の疑いがもたれており、手術を受けることになっている。

2巡目のスクリーニング検査では58.4%に結節や嚢胞が発見された。1巡目のスクリーニング検査では、その率は48.5%だった。ということは、最初のスクリーニングで甲状腺異常がまったくみられなかった28,438人の小児に、今回結節や嚢胞が確認されたということである。そのうちの270人の結節や嚢胞はしかもあまりに大きかったため、さらなる検査が必要となったほどである。最初のスクリーニング検査で小さい結節や嚢胞が確認されていたさらに553人の子どもたちにおいては、いちじるしい成長が見られたため、さらに踏み入った診断をしなれければならなくなったほどである。甲状腺ガンが確認された症例の6人は、初回のスクリーニング検査と2巡目のスクリーニング検査の間にガンが発生している。

初回と2巡目のスクリーニング検査の間に言われているとおり二年が経過しているとすれば、一年間の発生率は10万人の小児に対し年間2人ということになる。日本の小児甲状腺がんの発生率は、フクシマ炉心溶融事故以前は10万人の小児に対し年間0.3人だった。この増加はもはや「スクリーニング効果」では説明できるものではない。さらに、被ばくした福島県の子どもたち6万7千人が検査対象に入っていないこと、そして20万9千人以上の子どもたちがまだ2度目のスクリーニング検査の順番を待っている状態であることを忘れてはならない。これにより、甲状腺ガン症例の数がこれから数ヶ月のうちにまだ増加するであることを憂慮する根拠が十分あるということだ。ガンには潜伏期間があるため、放射能被ばくによる影響が最も顕著に現れるのは、今後数年の間だと予測される。

福島医科大学が甲状腺検査の新しい数字を公表したその日、福島県の行政はこの警戒すべきデータに反応を示した。予測以上に高い数字で小児甲状腺ガン発症が検出されたことが、福島第一原発の複数の炉心溶融により放射性ヨウ素が放出されたことと関係があるかどうかを調査するよう、ある研究チームに要請したのである。この調査の結果はしかし、始める前からすでに決まっていたようである。「福島県で発生している甲状腺ガン症例が原発事故が原因であるとは考えられない」というものだ。このような発言を研究が始まる前にすでに行なってしまうのは、検査の重大さそのものを疑うことにもつながり、驚きを隠せない。

こうして、福島県も日本政府と同じように、国内の原子力産業と実に癒着構造にあり、いわゆる「原子力ムラ」の影響は今も巨大であるということが確認されるだけだ。「原子力ムラ」とは日本では、原子力経済、原発推進派の政治家、金で言いなりになっているメディア、腐敗しきった原子力規制当局等から成り立っている集合体を指し、これらが日本国内の原子力産業を存続すべく推進している。これでは、放射線被ばくによる甲状腺ガン発生に関する、信頼できるまじめな検査を福島県が行なうとは考えられず、今年中には発表されるという結果も、前もって彼らが行った明言と同様であろう。すなわち、「甲状腺ガン発症例が著しく増加したことと、2011年3月に起きた何重もの最悪規模の事故にはなんの因果関係もみあたらない」というものに違いない。それは、なにがなんでもあっては困るからだ。

アレックス・ローゼン医学博士
ドイツIPPNW

2015年8月15日土曜日

原子力 ── 最後の生き残り

ツァイト紙2016年8月11日付け
川内原発再稼動に関連した記事

2015年8月11日、川内原発一号機が再稼動した。これについては、書くのも不愉快なのでこれ以上コメントしないが、これはドイツでも話題になり、どの新聞・ニュースでも報道された。
ARTEのニュースはこちら:https://youtu.be/Bpm6BLRTlsU
どの報道にも出てくるのが「日本の市民の大半は反対しているのにもかかわらず」ということと、安倍政権が市民の言うことなどに耳を貸していない、ということだ。この記事では、さらにアメリカの原子力ロビーからの圧力があったことがはっきり書かれているので、訳した。まあ、新しいことではないけど。        (ゆう)

本文はこちら:

原子力 ── 最後の生き残り

KERNENERGIE
Die Letzten ihrer Art

世界の中でも、アメリカは日本の原子力技術に依存している。だからこそ、脱原発をしないようにという日本政府へのアメリカからの圧力も大きかったのだ。

Marlies Uken報告
世界中の原子力産業の心臓部は、日本の北海道の南部、人口約10万人のあまり有名とはいえない工業都市室蘭にある。世界のどこでも作られないものがここで製造されている。室蘭にある日本製鋼所は1万4千トンのプレスで、原子力産業の鍵となるコンポーネントの、いわゆる圧力容器を鍛練しているのだ。圧力容器は溶接による継ぎ目なしに一体成形で製造される。

この巨大な鋼鉄でできた容器は非常に重宝されている。たとえばフランスのアレヴァ社のEPR原子炉などの第三世代の原子炉は、この室蘭で作られるモンスター容器が必要だ。溶接の継ぎ目がないということは、それだけ安全性が高いことを示す。そのためにこの鋼鉄の巨大な塊を買おうとする客は、何ヶ月という納期遅延も我慢して受け入れるのだ。

原発を建設しようとすれば、日本と取引せざるを得ない。日本の大企業、日立、東芝、三菱重工などは原子力発電の重要な原子力関連メーカーだ。同時に、これらの企業はアメリカの企業と密接に結びついている。日本の東芝グループは2006年に米企業ウェスティングハウスを54億米ドルで買収した。日立はまた、何年も前から米国のシーメンスといえる、ジェネラルエレクトリック社と提携している。

新原発の建設はすごく高価で手間がかかるため、世界で四つの企業しかこのセクターでは活動していない。フランスのアレヴァ社、ウェスティングハウス/東芝、ロシアのロスアトム、そして中国核工業集団公司がそうである。ドイツのシーメンスグループは2011年の3月にフクシマで原発事故が起きてから、原発新建設事業から撤退した。とはいっても、ミュンヘンに本社を持つシーメンスは今でも従来の原発で使用される蒸気タービンなどに必要な部品はまだ製造している。

しかし、このビジネスは世界中で後退しつつある。あらゆる国が原発の部品を調達するのが困難だったり、納期が遅れたりして奮闘している。フクシマ原発事故で投資者は弱気になり、再生可能エネルギーのブームで電気市場は、かなり混乱状態だ。世界中で投資者も、政権も、市民も原発建設には乗り気でない。フランスのアレヴァグループの株価は、ここ数年来低迷状態だ。格付け機関であるStandars &Poor’s に及んでは、同社の株をハイリスク資産とすら評価している。

フクシマ事故の起きる前の年の2010年、世界各地ではまだ15基の原発建設が始まっていた。原発業界に批判的なWorld Nuclear Reports(世界の原子力産業現状報告)の発表によると、去年はそれがたったの3基だったそうである。新建設はそれに、これまで以上に国による補助が必要になった。最近の例では、イギリスのヒンクリーポイントCがそうだ。フランスの電気会社EdFは何年もキロワット時単位の電気料金を高く設定して法的に保証させてきた。現在、競合電気会社が欧州裁判所で競争法に反するとして訴えている。

原子力ルネッサンスは起こりそうにない。原子力エキスパートのマイケル・シュナイダー氏がハインリッヒ・ボル財団の支援で年に一度発表しているWorld Nuclear Report(世界の原子力産業現状報告)では、現在世界で建設中の第三世代の原発として18基をリストアップしている。その中でもトップを切っているのが日本である。ウェスティングハウス/東芝の原子炉モデルAP100 は、その内8基で建造中で、その後続くのが、あまり驚くことではないが、アメリカが占める3基だ。

日本のノウハウに依存
それだけに、日本が原発から撤退するのではないかとのアメリカの懸念は大きかった。アメリカは日本のノウハウに依存しているからだ。というのも、世界中でアメリカほどたくさんの原発が稼動している国はない。現在のところ99基が稼働中だ。それに応じて米国の原子力ロビーの力は大きい。シュナイダー氏の言うことを信じるとすれば、アメリカのリーダー格にある政治家たちが福島原発事故直後に、日本が原発を固持するよう圧力をかけたというのは公然の秘密らしい。日本政府が原発の未来を信じないで、どうやって東芝・ウェスティングハウスのような日本企業が信憑性高く製品を販売すればいいのだ? 「脱原発するという合図が日本から出されたときは、アメリカの原子力産業からそれこそカタストロフィと見られたのです」とシュナイダー氏は語る。

そしてその通りに、首相安倍晋三率いる保守政権は180度の方向転換を行なった。この火曜日にほぼ4年の中止期間を経て、日本の原発が初めてまた再稼動されたのである。原子力ロビーは胸をなでおろしたことになる。日本の原子力産業は国際的にこのセクターで欠かせない担い手なのだ。「この第1号が再稼動したことを、世界の原子力産業が声を合わせて歓迎する」と世界原子力協会の会長Agneta Rising氏が火曜日にコメントを出している。

シュナイダー氏の言うことを信じるとすれば、この喜びはでもつかの間かもしれない。というのは、原子力分野でまだ未来がある部門があるとすれば、それは原発廃炉ビジネスだ、と彼は言う。世界各地にある原発はどれも老巧化し、これを現在の安全基準に適合するように再装備する価値があるだけのケースはごくわずかしかない、と彼は語っている。

2015年5月18日月曜日

ダイヴェストのすすめ

どうやったら気候温暖化を本当に止めることができるのか? 新しく各地で始まったダイヴェストメント(Investment、投資の逆、すなわち投資した資本を撤回すること)運動は資本家に石炭・石油・ガス企業から資本を撤退することを訴え、成功している例がいくつもあるという。世界各地で2月13日と14日にグローバル・ダイヴェストメント・デーとしてあらゆるアクションが行なわれたそうだ。私の住むベルリンでもアクティビストがいろいろ活躍していることを知った。彼らがベルリン市に提出した公開状Fossil Free Berlinには、私が好きなHarald Welzer氏もサインをしていた。
最新のツァイト紙の「経済」欄に大きくこの行動についての報告が載ったので、それを訳した。(ゆう)

Holt das Geld da raus!

Die Zeit vom 13.05.2015

記事はまだオンラインで読めないがこちらを参考:https://fossilfreeberlin.wordpress.com/2015/05/13/fossil-free-in-der-zeit-vom-13-mai/

報告:フェリックス・ロアベック(Felix Rohrbeck)

金を取り上げろ!

マティアス・フォン・ゲミンゲンがベルリンの市庁舎で必要としたのは、三人の偵察隊だ。23時47分に偵察メンバー第1号から携帯に連絡が入る。「今こっちに来た」。来たというのは市庁舎を警護している制服を来た警察官たちで、彼らは自分たちが巡回の間監視されていることを知らない。

39歳のフォン・ゲミンゲンは残りのチームと市庁舎の後ろで待機する。警察官たちが彼のそばに来るまで、残るは10分あまりだ。60キロもある赤いホンダの発電機のエンジンがかかる。この発電機につながっているのは、車のトランクルームに隠してある巨大なプロジェクターだ。

マティアス・フォン・ゲミンゲンが合図をする。「行くぞ!」

グループの一人がプロジェクターのスイッチを入れる。瞬く間に市庁舎の正面に大きく、白い文字が照らし出される。「Divest!」と書いてある。「渡した金を取り上げろ」とでもいえばいいか。

グループのカメラマンがシャッターをパチ・パチ、パチと何度か切る。それから次の文字だ。「石炭、石油、ガスから撤退しろ」。またパチ、パチとシャッターの音。ぐずぐずしている暇はない。警官たちがすぐそばまで来ている。ゆっくり映写された文字を見ている暇はない。

しかし次の日、ここで撮った写真が世界を駆け巡る。運動家たちはこれらの写真をフェースブックやその他のソーシャルメディアで拡散する。彼らには世界中にヘルパーがいる。ベルリンの小さいグループの背後には、グローバルな、大きく成長しつつある運動が潜んでいるのだ。

イギリス、フランス、ルクセンブルク、米国、カナダ、フィリピン、ニュージーランドと、各地でこのベルリンのようなアクションが行なわれている。企業、大学、市、年金基金、保険会社、教会などに送られるメッセージは常に同じだ。「石炭、石油、ガスから撤退しろ!」

具体的に言えば、こうだ。このメッセージを受け取った団体は、最大級の化石燃料のたくわえをもっている、株式市場に上場されている企業200社に投資をするな、というのである。Gazpromもここにリストアップされているし、同じくExxon、BP、Statoil、PetroChina、Coal India、RWE、BASFがそうだ。これらの企業の株や公債を持っているものは、それを売り払うべきだというのである。

活動家たちは石油、ガスや石炭を使って商売をしている企業を、この方法で金銭的に「干上がらせよう」としているのだ。これらの企業も投資家が見つからなくなれば、化石エネルギー源は地中に埋もれたままで燃やされることはない、というのが彼らの計算だ。地球温暖化をもたらすビジネスはもう利益を上げないようになるべきなのだ。

2012年以来、これを支持する投資家の数が増えている。自ら確信して進んで始めた人もいれば、ベルリンの運動家たちがやっているように運動家の圧力に負けて、考え直したという人たちもいる。

アメリカではサンフランシスコやシアトルなどの市がダイヴェストメントすることを公言した。オーストラリアのブリスベン、イギリスのオックスフォード、スウェーデンのエレブルーもそうだ。70以上の教会系団体も、スカンディナヴィアの年金基金、カレッジや大学もそこに並んでおり、ことに大学では名声の高いスタンフォード大学がダイヴェストメントを公言している。創立者がかつてその石油帝国をもって巨大な財産をつくりあげたロックフェラー・ブラザーズ基金ですら、ダイヴェストメントを自らに義務付けている。ほとんど毎日、新しい団体がそのリストに名を連ねる。Amundiのような大きな資産管理会社ですら、ダイヴェストメント運動の条件にはまるような投資のプログラムを用意しているのだ。

本当にそんなことがありだろうか? ほぼ二十年来、あらゆる国や政府の代表者たちがサミットで世界の二酸化炭素排出量を減らし、将来の温度上昇を二度に制限しようとしながら大した成功をあげていない。そこに大して金も専門的構造もないわずかな活動家たちが現れて、それをやってのけるというのだろうか?

ベルリン市庁舎でのアクションの1時間半前、フォン・ゲミンゲンはアレキサンダー広場にある壁に腰掛けて、グループと待ち合わせしていた。彼は灰色のキャップを被り、フード付きのトレーナーを着込み、茶色のメガネをかけている、無精ひげを生やした若々しいタイプの男性だ。彼は仕事では、インターネットでの食料品オーダーを専門とするベルリンのスタートアップ会社のマーケティングをしている。彼は自分のことを、市民運動家としては「別世界から入り込んだ新参者」と称している。彼はこれまでの15年間、熱心に仕事をし、バンドでサクソフォンを弾き、結婚し、リュックサックを背負ってメキシコ、ブラジル、南アフリカなどに旅行していたという。政治的にはしかし、全く運動などしたことがなかった。せいぜい、オンラインの請願書に署名したくらいだった。

ところが、サンパウロに住むフォン・ゲミンゲンの友人たちが急に水がなくて困っている話を聞いた。南アフリカで彼がキャンプファイヤーをして楽しんだ砂浜がもうじきなくなりそうだ、というニュースが入った。気候変動はそれからというもの、彼にとって抽象的な危険ではなくなってしまったのだ。彼がそれまで知っていた世界がすでに変わり始めているのである。フォン・ゲミンゲンはこれに対抗してなにかをしたいと思った。ただ請願書にデジタル署名をする以上のことがしたいと。

フォン・ゲミンゲンはダイヴェストメント運動のことをインターネットで知った。彼は勇気を出して、ベルリンでの最初の集会を組織した。「ここでは本当になにかができる」と彼は言う。「署名を集める紙をボードに挟んで、何年も歩行者天国をうろうろする必要はない」と。政治的にもっと大きなテーマに取り組んでいる古典的な市民運動より、この運動のテンポはずっと早い、と彼は言う。世界のどこかで常に小さな勝利を勝ち取っている、と。フォン・ゲミンゲンの解釈はこうだ。「お金は回転が速いので、疑いがあればそれを撤退させるのは簡単だ。」

議会外でグループが集会に集会を重ね、ビラを配って議論をしている間、ダイヴェストメント運動は敵の資本論的ロジックを都合よく利用し、それをさらに倫理的プレッシャーに結び付けている。例えばダイヴェストメント運動家たちはハーバード、オックスフォードやメルボルン大学の運営管理部にこう質問するのである。「教授たちが講義室で気候変動に関する厳しい内容の講義を行っているというのに、その大学が同時に気候変動で金儲けをしているというのは分裂症的ではないのか?」大きな大学では何百億ドルという資産がああって、それをファンドを通したり直接株を買ったりして石炭生産者の企業に投資しているところが多いのだ。国の政府も、聞かれたくない質問攻めにあっている。なぜ、地球を救済する会議を催しておいて、同時に年金生活者のためのお金を石炭、石油、ガスで増やそうとするのだ? ヨーロッパの年金基金だけで、欧州緑の党の調査によれば、2600億ユーロが石炭、石油、ガスに投資されているという。慈善事業と謳う基金や財団などですら、怪しいものだ。慈善事業をするといいながら、どうして汚いエネルギーに資金を投資して増やそうとするんだ? というわけである。今攻撃の的となっているのは例えば、ビル&メリンダ・ゲイツ財団だ。

倫理的な圧力をかけるのに、運動家たちは経済的な論拠を用意している。ダイヴェストメント運動が要求していることは、投資家の利益にもつながると証明しようとしているわけだ。

アメリカの作家ビル・マッキベンが2012年に初めて、こうした論拠をローリングストーン誌で大衆向けに発表した。本当は、彼はただロンドンのNGOカーボン・トラッカー・イニシアチブの無味乾燥な数字を分析評価しただけだったのだが、ソーシャルネットワークでこれが飛び火のように拡散された。ローリングストーン誌の編集者がマッキベンに電話をし、こんなことは今まで経験したことがない、と言ったそうだ。なんと雑誌の出た二ヵ月後にはこの記事は11万2千件のフェイスブックの「いいね!」を記録し、1万2千件以上ツイッターで言及され、5千件以上の読者コメントがあったというのだ。

この記事の計算は、こうだ。もし気温上昇を二度に抑える目標をおざなりにもある程度守ろうとすれば、人類は2050年までに565ギガトンの二酸化炭素しか大気中に排出してはいけないことになる。それで終わりにならなければならないのだ。今日地中に眠っている石炭やオイル、ガスのリザーブはしかし、燃やせばその5倍以上を大気に排出することになってしまう。と言うことは、このリザーブのほとんどは企業がすでに確保しているが、これらは決して燃やされることがあってはならないと言うことになる。でなければ気候が過熱するからだ。

マッキベンの説が正しければ、これは投資家にとって恐ろしいニュースとなるはずである。将来、政治が本気でこの気温上昇を二度に抑えることになって、たくわえのほとんどを燃やすことができなくなれば、それらは無価値のもの、ということになるからだ。私欲からだけ考えても、化石エネルギーへの投資からお金を撤退するのが投資家にとってはベストだ、と彼は主張した。この論理で行けば、化石エネルギー原料で金儲けをしている企業への投下資本は今日、予想しているよりずっと価値が低いことになる。こういうのをバブル、と呼ぶのだ。

この説はエコロジー運動家の空想の産物ではない。金融界でもいわゆる「カーボン・バブル」を真剣に受け止め始めている。石油会社は彼らの株価の60%を失う可能性がある、とイギリスの最大銀行HSBCが2013年の調査で警告している。保険会社のマネージャーたちも懸念している。英国銀行の総裁は先日、政治が機構保護措置を厳しくした場合には、化石エネルギーへの投資が「多大なる打撃」をこうむることになる可能性がある、と警告したばかりだ。機関投資家専門の大手証券ブローカーであるケプラー・シュブルーのリサーチチームは、エネルギー業界の損失は28兆ドルになると予測している。カーボン・バブルがはじければ、2007年の金融危機でバブルがはじけたときと同じくらい大変なものになる可能性があるのだ。

マッキベンは金融業界の論拠をエコロジー運動の世界にもたらしたのである。この記事を発表してからすぐ、彼は作家から気候運動家にすっかり成り変わり、ダイヴェストメント運動を始めて、今日でもその運動を代表する顔となっている。2014年の12月には彼は、それでもう一つのノーベル賞を受賞している。

その2年前の2012年11月、マッキベンは彼が作った小さな組織350.orgを率いてアメリカで初めてのダイヴェストメント・ツアーを開始し、全国のあらゆる集会ホールを埋め尽くした。ここに、当時学生として350.orgで研修をしていたティネ・ラングカンプ(Tine Langkamp) がいたわけだが、彼女が現在ドイツで唯一の専任の運動家だ。マッキベンの「公演」は2012年にはすでにただの啓蒙運動ではなくなっていて、太鼓を叩くものあり、DJあり、反グローバリゼーション運動家のナオミ・クラインなどのビデオ中継が入るような大イベントとなっていた。そしてマッキベンがビールを片手に舞台にのっそり登場すると、こう説明するのだ。二酸化炭素というのはアルコールのようなものだ。「ちょっとならいい。しかし両方とも限度というものがある」。

それからカーボン・バブルの数字を見せる。そして集会に来ていた人たちは誰でも納得するのだ。これではどこかおかしい、と。

集会が終わると、聴衆の多くが質問状を出し始める。自分が在籍する大学へ、自分が住む町へ、自分が所属する教会へ。彼らの質問はこうだ。化石エネルギーのビジネスにお金を投資しているか? もしそうなら、額はどれくらいだ? それからその金を撤退するようにという要求が続く。今ではアメリカでは500以上のこのようなキャンペーンがある。それに応じない者は、この運動の圧力を感じることになるわけだ。

イェール大学では例えば、大学の学長の事務所を学生たちが占領し、学長が将来大学の基金の240億ドルの内1ドルたりとも汚いエネルギーに投資しないことを要求している。4月にはデンマークでは、年金基金の6つがその株主総会でダイヴェストメント提議を審議しなければならなくなっている。ロンドンでは著名なガーディアン誌がジャーナリストの「一定間隔を置く」原則を破って、ビル&メリンダ・ゲイツ財団とイギリスのウェルカム・トラストに対する請願書で、化石エネルギー関係の投下資本から資金を撤退させることを求めている。この請願書にはすでに20万人以上の人が署名をしている。

それではドイツではどうだろう?

アメリカのマッキベンのもとでの研修を終えてドイツに帰ったラングカンプは、ミュンスター大学でキャンペーンを始めた。彼女は大学管理本部に書状を送り、化石燃料へ投資している資本があれば、そこから資金を撤退するよう求めた。当大学が管理する基金には、大手のエネルギー企業の株を持っているファンドに資金を入れているところがあるのだ。

しかし書状が何の効果ももたらさないので、2014年7月に行なわれた大学祭に、白黒の衣装を着たウェイトレスが登場することになる。このウエイトレスたちは唖然としている客に向かって「石油ドリンクはいかが?」と聞いて回ったのだ。シャンペングラスに入れられた液体は黒くてねばねばしているものだった。

それから運動家たちが大学長ウルスラ・ネレスの演説を中断し、白いポスターを舞台の上で広げて見せた。そこには赤い文字でこう書いてあった。「石炭、石油、ガスから撤退しろ!」ネレスは腕を組んで、グループに話をさせたが、要求内容に耳を貸すつもりはなかった。「あなた方のメールはもうスパムファイルに入るようになっています」と彼女は舞台の上で何百もの客の前で言い放った。そして大学際が終わる頃、誰もいないところでこう言った。「あんなごろつきに指図は受けない」。

ラングカンプにとってはしかし、このアクションは考え抜いたコンセプトの4つの段階のうちの、第一ステップに過ぎない。まず、ミュンスター大学のような小さな組織にダイヴェストするよう運動する。そこで問題となる資金の額は小さいが、これでマスコミが注目するようになるはずだ。二番目のステップでは、スウェーデン国教会やスタンフォード大学といった大きな組織や団体に賛同してもらい、この運動が広く認められるようになって大きく躍進する。そして三つ目の段階では、本当に大きな額が対象となる、銀行、保険会社やファンドに圧力をかける。そして最終的に四段階目で政治が切羽詰って賛同せざるを得ない状況に追い込まれる、というものだ。

しかし、ミュンスター大学の学長が賛同せず、第一段階目でもめていたらどうすればいいのだろう?

ミュンスターのグループはそれで、市に訴えた。そして市議会は本当に、市の公務員の年金のお金を石炭・石油・フラッキング産業の会社には投資しないことを決定したのである。これがドイツでの一番最初の小さな勝利だった。

2014年10月に、ラインハルト・ビューティコーファーの事務所がラングカンプに電話をしてきた。欧州緑の党の代表が彼女の運動について詳しく知りたいと言ってきたのだ。彼らはベルリンで食事を一緒にした。ラングカンプは最初は確信できないでいたが、それから得心した。「彼は本当に運動の一部になるつもりだ」と彼女は言う。

半年後の2015年4月、ミュンヘンのメッセ会場のホールを3000人以上の人が埋め尽くした。ミュンヘン・リュック保険会社の株主総会だ。ミュンヘン・リュック保険会社は、2730億ユーロの総合収支を計上する世界で最大級の再保険会社だ。株主総会の株主の中にビューティコーファーの顔もあった。批判的な株主には議決権を彼に委任している人もかなりいたので、彼は話す権利があった。ビューティコーファーはそれでマイクに向かった。「カーボン・メジャーへの投下資本に何百億ユーロの資金を再保険しているのか?」と彼は舞台の上の役員会に質問した。そして「化石エネルギーへの投資から段階的に撤退するつもりがあるか?」

役員会代表のニコラウス・フォン・ボムハルトは言葉を濁した。当社は2500億ユーロに相当する投下資本を持っているが、「そのうちどちらかといえば化石エネルギー分野に投資されているものはわずかだ」と言うのだ。ビューティコーファーはこのような曖昧な答えでは納得できず、質問を白い紙に書いて、書面で質問を提出した。数日後に届いた回答には、こう書いてあった。オイルとガス業界への投下資本は、当社の投下資本の1.2%にあたる。当社では、カーボン・ダイヴェストメントイニシアチブの目標を資本投資の上でも考慮すべきか検討するが、今のところ具体的なダイヴェストメントを行なう計画はない」。

ビューティコーファーは引き下がるつもりはない。「ダイヴェストメントほど気候保護に活力をもたらす運動は今のところ他にない」と彼は言う。自然科学的な論拠はすでに人が知るところである。「しかし、エコロジストたちが金融戦略的論拠を持ち出してくるとは、誰も全然予想していなかったことですからね」と。ビューティコーファーは欧州中央銀行の総裁マリオ・ドラギにも書状をしたためたほどだ。彼はそれで、カーボン・バブルについて科学的諮問委員会に調査させることにした。

権力者が行動に移すのだけを待っているつもりのない人はたくさんいる。ミュンスターからドイツ全体にラングカンプの与えた刺激は波及したのだ。いまや17の都市に自治的グループのネットワークが出来上がった。

ベルリンでも同じである。マティアス・フォン・ゲミンゲンは、同志と共にベルリンの市長宛に書状を書き送った。ドイツの首都には「約10億ユーロの投資可能な金融資産がある」。「経済的リスクと地球体系(Earth system)に対する破滅的な結果」を考慮し、ミュラー市長は化石燃料への投下資本から資金を撤退すべきだという内容である。市長からまだ回答はない。しかし、真夜中の12時ちょっと前、巡回の警察官たちがもうほんのそばまでやってきているとき、フォン・ゲミンゲンたちはもう一度督促状を送った。市庁舎の赤いレンガの上に照らし出された最後のメッセージには、こう書かれてあった。「ミュラーさん、早く!」

2015年5月12日火曜日

ドリス・ドリー監督がフクシマの立ち入り禁止地区で映画撮影


ドイツ人映画監督ドリス・ドリー(Doris Dörrie)が今、南相馬の仮設住宅地で映画を撮っているという記事を南ドイツ新聞で読んだ。私は彼女が2008年につくった「花見」という映画が大好きで、しかもそこに登場する舞踏家の女の子の名前が「ゆう」であることや、私のふるさと井の頭公園がでてくることで、「これは私のふるさと映画」と勝手に決めているのだが、そのドリス・ドリーがフクシマの映画を作っているというので、見るのが楽しみだ。(ゆう)


南ドイツ新聞2015年5月9日付
ドリス・ドリー監督がフクシマの立ち入り禁止地区で映画撮影

本文はこちら:http://www.sueddeutsche.de/kultur/doris-doerrie-film-strahlung-im-hintergrund-1.2470988


放射能を背景に映画撮影

ドリー監督がカメラを回す。今回のストーリーは福島の立ち入り禁止地区での物語りで、避難者たちがテーマだ。セットを訪ねてみた。

Christoph Neidhart報告

背が高く金髪な美人。別世界から来た若い女性が南相馬の仮設住宅地の近所でフラフープを腰で回している。上下に体を揺らしながら、指が春の空高くくるくると回る。この若いドイツ人を演じているロザリー・トーマスが、日焼けした二十数人の女性にプラスチックの輪でフラフープの回し方を教えているのだ。「それじゃ今度は、もっと勢いよく!」
マリーの背は、生徒の女性たちよりずっと高い。そしてその生徒たちと言えばきっとマリーのおばあさんくらいの歳だろう。背の低いおばちゃんたち、「おばちゃん」というのは日本語で、もう若くない女性に親しみを込めて呼ぶ言い方だ。ドイツ語と英語をごちゃ混ぜにして、マリーはフラフープの回し方を教える。この非常用仮設住宅に住み始めてじき四年になろうとしているこのおばちゃんたちは、一生懸命だ。プレハブでの日常に訪れた気晴らしに喜んでいる。でも、彼女たちに才能はないようだ。マリーはため息をつきながら日本語でお礼をいい、今日はもう終わり、と告げる。色とりどりの輪を集めながら、サトミとけんかになる。サトミというのは、やはりこの仮設住宅に避難してきている、この土地最後の芸者だ。

サトミを演じるのは63歳の桃井かおりだ。彼女は日本では有名な俳優で、フラフープはしなかったが、隠れて皆が練習するのを見ている。実は彼女は4本も同時に回すことができるので、マリーに馬鹿にするように演じて見せる。それから面と向かって「Bullshit」とののしるのだ。もうたくさんだ、というのである。

映画監督のドリス・ドリーはもう先週からこの仮設住宅地で新映画「Grüße aus Fukushima フクシマからの便り」の撮影を続けている。ここにいるおばちゃんたちは俳優でもなければ担ぎ出されたエキストラでもなく、本当にこの約170もの灰色のプレハブ住宅に住んでいる避難民たちだ。地震と津波で車で半時間位南に行ったところにある故郷の村小高は壊滅されてしまった。さらに、この村は警戒区域に指定されて立ち入り禁止になっている。

これまでの作品と同じように、ドリス・ドリーと数人の撮影チームは、実際の撮影舞台で日常が変わらずにそのまま続けられるように話を展開している。ドリス・ドリーのストーリーの背後でも話が一人歩きをする。それで俳優たちもカメラのハノ・レンツを含むクルーも皆、アドリブで対応することを余儀なくされる。皆が驚くことも稀ではない。「でも小さいチームだから、私たちはとてもフレキシブルよ」とドリーは言う。彼女は、自分はアメリカ人がやるようには撮影できない、と語る。ロザリー・トーマスは、それが私には合っているの、と答える。「私はここにいる人たちの顔を見て、調子を合わせ、あまり演技をしようとしなければいいの」と。

「Grüße aus Fukushima」ではこれまでのドリーの映画と違って、撮影する舞台とそこの住民たちの運命が話の前面に置かれている。12万5千人の人がいまだに原発事故からの避難者として仮設避難住宅で暮らしている。彼らは世界から忘れ去れている。東京では「まるで原発事故などなかったように」政府が動いている、とドリーは言う。警戒地区の一部は立ち入り禁止が解除になり、政府が住民たちをそこに戻そうとしているという。しかし、そこに戻った者は、住居がどんなに被害を受けていても、買い物をする店などの周囲のインフラ整備がまだなくても、国からの援助を失うことになる。だからこの仮設住宅からでられなくなっている人がほとんどなのだ。ここでの生活に皆がもうずいぶん慣れてきてしまっている。お年寄りの中には、もうこのプレハブ住宅を離れたくないと言っている人もいる。もう二度と、慣れた生活から引き離されるのはいやだというのだ。日本人の中でまだ誰もここで映画を撮ろうとした人がいないのが不思議で仕方がない、とドリーは語る。
避難所での生活が耐え切れずにすさんでいく人もいる。ことに年取った男性がそうだ。鬱病になり、自殺をする人もあり、酒に溺れたり、パチンコに通い詰めになったりする。それに引き換え女性は、踊りや編み物のグループを始めたり、なにか催し物を企画したりして持ちこたえようと努力する。

「災害のあった後で医療設備が整い、きれいな水が与えられ、世話を受けて仮設でも眠れる場所が出来たら、その次に必要なのは魂の救済です」と語るのはピエロのモシェ・コーエンだ。「そこから私たちの出番です」。「国境なきピエロ団」の創立メンバーの一人である彼がドリーの映画でピエロとしてこの仮設住宅村に登場する。「このごろでは救援組織からお呼びがかかることすらあります」。津波のあった年の夏、コーエンは北日本を何ヶ月も避難所から避難所と巡回した。ドリーの映画ではミュンヘンに住むミュージシャンのカマタナミさんと共演している。苦しみをくぐりぬけてきた家族一家が一緒に笑っているのを見るのが一番うれしい、とコーエンは語る。マリーもフラフープの授業で避難住民たちの気持ちをほぐそうとしている。

おばちゃんたちは喜んでいる。ドリス・ドリーは皆をじっと見守りながらもほとんど指示は与えず、かえっておばちゃんたちを元気づけようとしているようだ。彼女が演出しているのは仮設住宅での娯楽だけではない。映画の撮影事態が、ここでは大きな気晴らしだ。そういうものをこの仮設住宅村の住民たちは必要としている。彼らの多くは失業している。おばちゃんたちがことに感激しているのは、俳優の桃井かおりだ。おばちゃんたちはテレビで彼女を見ながら歳をとってきたと言っていい。その彼女が、数週間ずっと一緒にいてくれるのだ。しかし、おばちゃんたちはドリーがあるシーンを何度も何度も繰り返し、一つが終わると今度は別の角度から、と飽きずに何度もやるので面倒くさくなってきたようだ。いやいやしか協力しようとしなかったり、急に水がほしいと取りに行ったりする。フラフープなどとっくに出来るのに、それをなぜ映画で出来ないふりをしなきゃいけないのか、理解できないのだ。

映画では、マリーも避難民だ。失恋をした彼女は心の痛手にバイエルンからフクシマに逃げ、そこで本当に苦しんでいる人たちを助けようと決心する。自分の苦しみを相対化しようというわけだ。「でもたくさんの人がそうであるように、彼女も理論的にしか、つまりテレビなどでしか、自分が一体どんなことに足を踏み入れようとしているのかわかっていなかった。仮設住宅に行ってみたら、彼女はまったくお手上げだったのです」とドリス・ドリーが説明する。こうしたお手上げの状態は、撮影のクルーも半分味わったのです、と彼女は打ち明けてくれた。2011年3月の事故前は南相馬は、時間が止まってしまったような村落が散在する片田舎に過ぎなかった。この村の南部は、三つの原子炉がメルトスルーした福島第一から遠くない立ち入り禁止地区以内にあり、避難を余儀なくされた。避難命令が出なかった部分でもたくさんの住民が避難した。ことに子供のいる家族だ。南相馬はゴーストタウンになってしまったのだ。

ライフラインであるインフラストラクチャーはそれ以来また機能するようになり、緑の芝生にはまた新しいショッピングセンターが出来た。しかし、社会生活を実際に動かしていた細かく複雑なネットワークは、そう簡単に再生できるものではない。ドリーと撮影チームは道路の脇に急遽建てられた格安ホテルに寝泊りしている。食堂などは一切なく、あるのは飲み物の自動販売機だけだ。これでも、泊まる場所がみつかっただけ幸運だった方である。こうしたホテルに寝泊りするブルドーザーの運転手や土木作業員などはここでまだ何年も必要とされることだろう。

「Grüße aus Fukushima」が通常の映画撮影と違うことは、ここに来る途中ですでに明瞭だ。高速道路の脇にも表示板が立てられていて事故を起こした原発後部の放射線量を示している。この午前は0.2 ~ 5.6マイクロシーベルトだ。ドリーはドイツにいる専門家と、リスクについて十分検討したという。「どんな映画であろうと、健康を損なう危険を冒してまで作る価値はないから」。

この水曜日に撮影した別のシーンでは、欲求不満になっている元芸者のさとみがマリーの部屋のドアをノックしてきて、運転できるの、と聞いてくる。さとみは立ち入り禁止区域にある、自分の壊れた家を訪ねたいのだ。そして行ってみると、今度は仮設住宅には戻りたくない、という。こうして二人の女性が少しずつ近づきあう。そしてついにはさとみがマリーに、一緒に自分の家を修理するよう頼むまでの仲になるのだ。ここで二人は互いに多くのことを学ぶことになる、いわゆる「感情教育」だ、ことに自分に対して常に厳しかったさとみにとっては...「日本の映画にはよく師と弟子の話があるのですが」とドリーが言う。でも先生や師とその弟子はいつでも男だ、しかし私は女性を見せたかった、と彼女は続ける。ことに硬直化した男性優位の日本社会で実際に力を出しているのは、いつも女性なのだから、と。

「Grüße aus Fukushima」はドリーの「日本」映画三作目だ。1999年の「Erleuchtung garantiert」では二人のドイツ人が日本に行き禅寺で修行をしようと決心するのに、東京でその意思がどんどん砕かれていってしまう様子を描いた。外国人が日本に行ったときの困惑、どうしていいかわからない様をこんなにうまく描けるのは彼女だけだろう。そしてその外人たちもいつかまた、自分を取り戻していくのだ。2008年の「花見」では妻を亡くしたばかりのショーンガウ出身の公務員が、富士山のふもとで自分自身と和解していく姿を描いた。彼はそこで死ぬ準備までしていたのだ。両方とも、ドイツからの変な外人を日本人が助ける作品だ。日本はこうした外人を個人として受け止めないにもかかわらず、だ。自らが厳しい掟に縛られた混沌にうずもれているからかもしれない。

映画「Grüße aus Fukushima」は来年の春、公開が予定されているそうだ。他の二本の作品で頼りなげに放浪していた男たちよりはずっと足取り確かに東京を闊歩しそうなマリーは仮設住宅村に来て、一風変わった訪問者として誰からもその存在を意識されただけでなく、さとみを手伝うことにも成功する。これまでの映画で描かれてきた消極的な癒しというような、慰めをもたらす日本の力は、この三重の悲劇を通じて変化したのだろうか? ドリーはそうではないという。「フクシマはドイツが核エネルギーから足を洗う手伝いをしてくれた。しかし日本は何もなかったかのようにしている。冬はうちの中を24度に温め、夏は16度に冷やし、車のエンジンはかけっぱなし。ほとんどなにもあの事件から教訓を得なかった」と彼女は怒る。そして仮設住宅の避難民たちも忘れ去られている。そして彼女はこう言ってから口を閉ざした。「でも映画館は教育施設じゃないのよ」。

2015年2月12日木曜日

情熱の力を持っているのは誰か? パリでの襲撃事件後

情熱の力を持っているのは誰か?
パリでの襲撃事件後

正月早々起きたパリでの襲撃事件後、「事件解説」の記事が世の中にあふれた。その中でも、ツァイト紙に続けて載った哲学者による記事が私にはとても興味深かった。スラヴォイ・ジジェクはパリで精神分析を学んだスロベニアの哲学者だが、彼の説明は頷けるところも多いのに、過激な部分もあり、ことに「過激派左翼」の部分にも同感できないし、イスラム原理主義者の「劣等感」も、ジジェクも残念ながら西洋中心主義に取り付かれているのかと思ってしまうが、そう思っているところに2週後、それに対する「反論」をベルリン芸術大学で哲学と文化科学を教えている韓国人のByung-Chul Hanが書いた記事が載った。これには同感させられたし、考えさせられた。この記事は両方あわせて読まなければ意味がないので、続けて訳すことにした。(ゆう)


まずは1月15日に掲載されたジジェクの記事から。

活力に欠けたリベラリズムと宗教原理主義者との戦いを終わりにすることができるのはただ一つ、過激派左翼だけ
スラヴォイ・ジジェク
Die Zeit vom 15.01.2015 (Nach den Pariser Attentaten) Wofür wir kämpfen müssen
本文はこちら:http://www.zeit.de/2015/03/slavoj-zizek-charlie-hebdo-fundamentalisten


シャルリー・エブド編集部殺戮事件のショックが去った今こそ、落ち着いて考え直す勇気を持つ瞬間が来たようだ。今であって先延ばしは許されない、陳腐な真実を好む友たちが我々を説得しようとしているのが目の前にこうして見えている間に。今しなければならないのは、思考という行為をこの瞬間の熱と調和させることだ。「その後」の冷たさの中で反省しても、バランスの取れた真実は導くことができず、状況を正常な状態に戻してしまい、真実の刃先を避けるのを自分たちに許してしまうことになる。

考えるとは、襲撃事件後爆発的に広がり、大騒ぎが1月11日にその頂点を迎えた、一般大衆が示した連帯感のパトスを超える、ということである。あの日曜日、キャメロンからラブロフ、ネタニヤフからアッバースまで、世界中の大物政治家がこぞって手を繋いだ。偽善的な偽りの像というのがあるとすれば、これがそうだ。本当のシャルリー・エブドなら、こんな出来事を突き放して露骨に、ネタニヤフとアッバース、ラブロフとキャメロンやその他がペアになって情熱的にキスをしながら、背中ではナイフを研いでいる風刺画を描いて嘲笑っているだろう。

この殺人は、何の誤解の余地もなく私たちのあらゆる自由の中でも中核をなすものに対する攻撃であると、もちろん私たちは非難すべきだ。それも「でもシャルリーはちょっと挑発しすぎた、あの雑誌はイスラム教徒をあまり馬鹿にしすぎた」というような暗黙の断りをつけずに、である。そして、もっと規模の大きいコンテキストの情状酌量を促すような指示も、すべて拒否すべきである。例えば、襲撃した兄弟たちはアメリカによるイラクの占領で恐怖を体験していた、というようなことだ。それはそうかもしれないが、それなら彼らはではなぜ、米軍の施設を狙わず、フランスの風刺雑誌を狙ったのだ? 西側諸国に住むイスラム教徒は事実上、ぎりぎりのところで大目に見られ、搾取されている少数派だというなら、アメリカの黒人などはもっと大きい規模で同じ状況にあるのに、彼らはそれでも暗殺も殺人もしない、など、などである。このように複雑な背景の呪文がかかっていることの問題点は、それがヒットラーに関してもうまく機能するものだ。つまり、彼はヴェルサイユ条約の不公平性を自分の目的のために利用することに成功したが、それでもナチ政権を可能な限りの方法で打倒しようとするのはまったく正当だったということだ。テロ暗殺行為の基盤にあるよからぬ情況が真実かどうかということが問題なのではなく、不公平に対する反応として現れ出てくる政治的イデオロギー的プロジェクトが問題なのだ。

原理主義者たちはひそかに劣等感を持っている
でもこれだけでは不十分だ。私たちはもっと先へ考えていかなければならない。そして、もっと先へ進んで考える、というのは決して「では西洋にいる我々とは一体何者なのだ、第三世界で恐ろしい殺戮を繰り返してきた私たちが、このような行為を咎められるというのか」というようなよく知られた文句の、犯罪行為を陳腐に相対化することとは違う。そしてそれはまた、西洋のリベラル左派の多くが持っている、イスラム恐怖症だと思われたくないという病的な不安とも、もっと関係がない。この似非左派どもは、イスラムに対するあらゆる批判に対し、それが西側諸国のイスラム恐怖症だとレッテルを貼り、ちょうどサルマン・ラシュディにかつて同じようにレッテルを貼ったように、イスラム教徒を不要に挑発し、彼を死罪と宣告したファトワー(イスラム教の勧告、宣告等)に対し(少なくとも共同)責任があると言っているのだ。このような態度が招く結果は、このような場合はっきり予期できる。つまり、西側のリベラル左派が自分の罪の意識を感じれば感じるほど、彼らはイスラムの原理主義者たちから、自分たちのイスラムに対する憎しみを必死になって隠そうとする偽善者だと咎められることになるのだ。このような状況は超自我のパラドックス以外の何物も生み出さない。他者が自分に求めているものに従えば従うほど、自分の罪が重くなる、というわけだ。イスラム教に寛容であればあるほど、イスラムが与えるプレッシャーが強くなっていくように見えるのだ…

Guardian紙に1月7日に掲載されたサイモン・ジェンキンズ(Simon Jenkins)が言っているような、「慎み、控えめ」を求める声では、私は従って不十分だと考える。ジェンキンズによれば、我々の義務とは「敏感に反応しすぎず、(襲撃が及ぼす)影響をマスコミで過大に言い立てるのではなく、今回の事件を一過性のおぞましい災難として捉える」ことにある、という。しかし、シャルリー・エブドの襲撃は決して「一過性のおぞましい災難」などではなかった。これは厳密な宗教的政治的プログラムに基づいて実行されたものであり、その意味で紛れもなく、もっとずっと大きなモデルの一部だったのだ。もちろん、盲目的なイスラム恐怖症に陥る、ということに関して言うなら過剰反応するべきでないのは確かだ。しかし、このモデルを何の容赦もなくきちんと分析することが大切である。

テロリストのことをヒロイズムに嵌った自爆テロの狂信者だと、悪魔の申し子のように見るよりももっと重要で説得力があり効果的なのは、こうした悪魔の神話を暴くことである。かなり前にフリードリヒ・ニーチェは、西洋文化は大きな情熱や義務感を失った無関心無感情の生き物「最後の人間」になる方向に動いている、と信じていた。夢を持つことができなくなってしまい、人生に嫌気がさし、この生き物はもうなんのリスクも背負わなくなり、ただ安楽と安全だけを追い求めるようになる、寛容さそのものになったつもりで:「ところどころにちょっとだけ毒を入れると、心地よい夢が見られる。毒がたくさんだと心地よい死に至る。〔...〕昼間必要な快楽と夜に必要な快楽を。でも健康がそれでも一番。『我々が幸福という概念を発明したのだ』と最後の人間は言って目くばせする」。

だから究極的には、寛容的第一世界と、それに対する原理主義者の反応の間に横たわる溝は、物質的および文化的富に恵まれた長くて満足のいく人生VSもっと上位の目的を追った人生というこの、差がどんどん広がっていくだけの対立と同じになっているように見えるかもしれない。しかしこの対立は、ニーチェが言っていた「パッシブ」なニヒリズムと「アクティブ」なニヒリズムとの対立ではないのか? イスラム過激派がすべてを賭け、自分を殺してでも戦いに身を投じる心の用意があるのに対し、西洋の我々はニーチェの言うところの最後の人間で、くだらない日常的な快楽を追ってばかりだ。ウィリアム・バトラー・イェイツの「帰還」という詩がこの私たちの状況をしっかり言い当てているようだ:「善良な者は疑いに満ち、悪者たちは情熱の力に満ちている」。この箇所は現在の活力に欠けたリベラリストと情熱的な原理主義者たちとの間の溝をうまく表現しているように読めてしまう。「善良」なものたちはもはや心底賛同してなにかに打ち込むということはできなくなっており、「悪者」たちは人種差別的、宗教的、性差別的ファナティズムにどんどん嵌っていくのだ。

ただ、この表現は本当にテロリストの原理主義者たちに当てはまるのだろうか? チベットの仏教徒とかアメリカのアーミッシュなどの真の厳格な「原理主義者」の間ではすぐに観察できる「なにか」が、彼らには欠けているようだ。それはルサンチマンや妬みの不在、そして不信心者の生き方に対する徹底的な無関心さ、である。今日原理主義者と呼ばれている者たちが、本当に真実に至る道を見つけたと思っているとしたら、なぜ彼らは不信心者に脅かされているなどと思うだろう、なぜ彼らを妬む必要があるだろう? 仏教徒が西洋の快楽主義者に出会っても、別に非難したりせず、単ににこやかに、快楽主義者の幸福の追求は不成功に終わる運命にある、と確信するだけだろう。真の原理主義者と違って、似非のテロ原理主義者たちは不信心者の罪深い生き方によって駆り立てられ、魅惑され、魔法をかけられているのだ。罪深い人間を制圧しようと戦いながら、彼らが自分たち自身の誘惑と戦っているのが感じられるのだ。

この点において私たちの現在の不幸に対するイェイツの診断は表面的過ぎるといえよう。テロリストの「情熱の力」は本当は、真の確信の欠乏を露呈しているのである。風刺雑誌に載った馬鹿な風刺画を見て脅威を感じるようなイスラム教徒の信仰など、どの程度抵抗力のないものだろうか? 原理主義的イスラムの恐怖とは、テロリストが自分たち自身の優越性を確信していて、自分たちの文化的宗教的アイデンティティをグローバルな消費社会による征服から守ろうとしていることにあるのではない。原理主義者たちとの問題は、彼らは私たちより劣等だと私たちが思っているのではなく、彼ら自身がひそかに劣等感を持っていることにあるのだ。だから、我々が彼らを見下しながら、ポリティカルコレクトネスに沿った言い方で、私たちは彼らに対し一切優越感などもっていない、などということが、彼らの怒りをもっと煽り、彼らのルサンチマンをもっと強くしているのである。この問題は文化的相違(自分たちのアイデンティティを守ろうとする彼らの試み)などではなく、反対に、原理主義者たちが実は我々のスタンダードを自分たちのものとしてしまい、自分たち自身をその標準に照らし合わせて評価しているという事実にあるのだ。パラドックスにも、イスラム原理主義者たちに本当に欠けているのは、自分たちが誰よりも優れているのだと確信する、真の人種差別的優越感なのだ。

イスラム原理主義の最近の運命的な打撃は、どのファシズムの興隆も、失敗した革命から生まれる、というヴァルター・ベンヤミンの古い見解を裏書している。すなわち、ファシズムが始まるのは、左派が役立たずだったからであり、同時に左派がうまく動員できなかっただけで、革命的ポテンシャルと現在の状況に対する不満は実際に存在する証拠である、というものだ。これは今のいわゆるイスラムファシズムにも言えることではないだろうか? ラジカルイスラム主義がこれだけ広まったのは、イスラム教徒の国々で世俗の左派が衰退したことの相互作用ににあるのではないだろうか? 2009年の春にターリバーンがパキスタンのスワット谷を掌握した際、ニューヨークタイムズは「右派の大地主からなる小さなグループと土地を持たない小作人たちとの間にある深い溝を利用した階級闘争」を企んでいる、と論じていた。ターリバーンがしかし「実質的にはまだまだ封建社会であるパキスタンのリスクを前に」、農民の困窮を「利用し」、それにより事実上パキスタンのリベラル民主主義を阻止し、かつ米国がその困窮を同じく「利用して」土地を持たぬ農民たちを助けるのを阻止することで、警鐘を鳴らしたとしたら? この問いに対する悲しい答えは、パキスタンの封建的権力はリベラルな民主主義の「自然の同盟者たち」であるという事実にある…

2つの極端による終わりのない悪循環
それでは、リベラリズムの基本的価値はどのようなものだろうか? パラドックスなのは、リベラリズム自身は、原理主義的襲撃から身を守れるほど強くないということだ。原理主義とは、反応なのだ。もちろん、神秘化された、嘘の反応ではある。それでもリベラリズムの真の欠点に対する反応であり、だからこそ常に何度でもリベラリズムから起こってくる。他に頼るものがなくなって取り残され、リベラリズムはどんどん自らを破壊していく。そしてリベラリズムの中心的価値を救えるのは、生まれ変わって再生した左派だけだろう。この決定的な遺産が生き延びるためには、リベラリズムは、左翼の過激派の兄弟愛的助けに頼る以外にないのだ。原理主義を打ち負かすにはこの方法しかない、つまり彼らの根を絶つのである。

パリでの殺人行為について今考えるということは、寛容なリベラリズムの高慢なうぬぼれを捨て、リベラルな寛容と原理主義の間の摩擦はとどのつまり嘘の紛争であると認めることである、互いが互いを生み出し、互いが互いを前提条件にしてしまっている、二つの極端な形態の悪循環であるということを。マックス・ホルクハイマーが1930年代にすでにファシズムと資本主義に対して言っていたこと、つまり資本主義を批判的に捉えようとしない者は、ファシズムに対しても口を閉ざすべきだという説は、現在の原理主義にも当てはまる。リベラルな民主主義を批判的に捉えようとしない者は、宗教的原理主義に対しても黙っているべきだ。


次に紹介するのがByung-Chul Hanの反論。この2つは必ず合わせて読んでほしい。
敵への憧れ
Sehnsucht nach dem Feind
本文はこちら:http://www.zeit.de/2015/05/terrorismus-radikale-linke-antwort-slavoj-zizek

マルクスは死に、もう戻っては来ない。
新左翼の過激派も、イスラム原理主義者に対する戦いには勝てない。
我々に必要なのは新しい生活形式だ、
ネオリベラリズムの実存的空虚感から救済してくれる生活様式が。
「情熱の力」を訴えたスラヴォイ・ジジェクに対する反論

今日左翼というのはどのような位置に立っているのだろうか? スラヴォイ・ジジェクは、そのパリの襲撃事件について書いたテキストの中で、左翼の過激派を懇願していた。活力のない、頼りない西洋のリベラリズムと宗教的で情熱的な原理主義者の間の闘争を終わらせることができるのは、左翼の過激派だけだと、彼は述べていた。どうやったらそうなるのだろう?

ジジェクはまず、テロリストの原理主義がその劣等感症候群からきていると理解している。原理主義者たちは不信心者により存在を脅かされ、彼らを攻撃しているのだと。仏教徒なら、西洋のヘドニズム信仰者にあっても、別に非難などせず、その幸福の追求が失敗することはもとより決まっているとにこやかに確信するだけだという。このような真の原理主義者と違って、テロリストの似非原理主義者たちは不信心者たちの罪深い生活様式に魅惑されていて、それで自分たちの誘惑を克服するために罪深い他者たちを制圧しているのだ、と。

しかしジジェクが考えているのとは異なり、仏教の原理主義というのは仏教の基本的信念から言って、ありえない。仏教というのは神が存在しない宗教だ。原理も絶対者もないと信じることが、仏教の特徴である。それに反し、一神教はその内面構造から言って、暴力を、別の信仰に対し反発を持ちやすい。さらに仏教は意志も情熱も放棄している。この理由から言っても、仏教徒のテロというのは考えにくい。快楽主義者に対する仏教徒の平静さはだから、「彼らが真の原理主義者」であるからではない。

イスラムのテロリストの情熱とは、本当は心底確信しているものがないことの現われだ、とジジェクはさらに続ける。「馬鹿な風刺画を見て脅威を感じるようなイスラム教徒の信仰など、どの程度抵抗力のないものだろうか?」と彼は問う。イスラムの恐怖の根にあるのは、テロリストがひそかに、自分たちを劣等だと思っているからだ、というわけだ、イスラムの原理主義者には、自分たちの優越性に対して確信がない、と。

憎しみはテロリストの側にあるだけではなく、両側にある。過激なイスラム教徒だけが憎しみで西洋を揺るがそうとしているわけではなく、西洋だってイスラムに対して憎しみを持っている。ドレスデンではしかも、イスラムというのは想像上の空間にしか存在しない。西洋文明が本当に強いものだと思っているなら、このイスラムに対する憎しみはどうやったら説明できるだろう? 実は、活気のあるイスラム教に対し、ひそかに劣等感を感じているのではないのか? 健康というものが「新しい神」(ニーチェ)として崇められ、人生がヒステリックなサバイバルとなってしまった社会で、テロリストの持っているあの決意の固さ、ジジェクが書いているような「自分を殺してでも戦いに身を投じる心の用意がある」、その決然とした態度に対する妬みが生まれてはしまいか?

西洋のリベラルなヘドニズムをジジェクはニーチェと共に「パッシブなニヒリズム」、「最後の人間」の文化だと呼んでいる。何の危険も冒そうと馳せず、快適さと安全だけを求めている、と。彼らの理想は長くて健康な人生だ。それに対し、イスラム原理主義者たちの精神的あり方についてジジェクは、やはりニーチェに従い、「アクティブなニヒリズム」と呼んでいる。彼らはあらゆるリスクを冒し、神のためには自らの死すら捨てる用意があるのだ。

ジジェクがイスラムの原理主義と「アクティブなニヒリズム」を同じものとみなすのはしかし、問題だ。なぜなら、「アクティブなニヒリズム」とはニーチェにとってはとてもポジティブで生産的なものだからである。アクティブなニヒリズムとは、これまでなかった新しいものに地盤を提供することだ。浄化作用のある嵐のような形で現れ、あらゆる信仰による確信を拒否するものだ。となれば、イスラムの原理主義は「アクティブなニヒリズム」とはおよそかけ離れたものである。それはニヒリズムなどではなく、西洋のヘドニズムと物質主義に矛先が向けられた、信仰による確信により歴史の流れを逆戻りさせる、暴力的な形態だ。

過激派左翼が本当にテロリズムを防ぐことができるのだろうか? 快楽主義的な西洋と、「最後の人間」の文化とさっぱりと縁を切り、テロ暴力の原理主義に反応することができるのだろうか? おそらく「最後の人間」は過激派の左翼を正当な評価に値する人間と認めはしないだろう。彼らは単にちょっと困惑して、目をしばたたかせるだけだろう。今日では、左翼が有機栽培の店で買い物をし、ヨガ講座に通う「最後の人間」になってしまったのだから。

幻想的な自由の名において死で自分の生きがいを達成
ジジェクは、ファシズムの興隆はどれも不成功に終わった革命から始まる、しかしそれは同時に革命のポテンシャルがあるという証拠であり、それをただ左翼が動員できなかっただけだとするヴァルター・ベンヤミンの見解を引き合いに出している。しかし、どの革命を彼は指しているのだ? ジジェクはそれからフランスやヨーロッパを去ってパキスタンに飛び、「金持ちの大地主の少数派グループと土地を持たぬ小作人の間にある深い溝」のことを語っている。彼は、過激なイスラムは、世俗の左翼がいなくなったことと相互作用して出現した、と予測している。それなら、大地主から土地を取り上げるマルクス主義的革命が起これば、原理主義は克服できる、とでもいうのだろうか? そんなことはない。パキスタンと違って、例えばイラクは封建制度国家ではないが、ここでこそ「イスラム国家」(IS)猛威を振るっている。イラクでは封建的な社会は1958年の革命までしか続かなかった。その後は土地改革が実行されたのだ。それだけでなく、原理主義は世俗的な左翼が防ぐことのできない世俗に対する反応である。

ジジェクはマルクス主義に固執するあまり、革命という概念から離れられない。しかし、マルクス思想が今日世界を説明することも改善することもできない事実を、彼は見そこなっている。我々はポスト・マルクス主義の時代に今生きているのだ。

労働からの疎外がマルクス主義の核をなす思想だ。労働者が富を生産すればするほど貧しくなっていくというパラドックスに基づいた思想である。自分が生産するものの中に自分を見出すことができない、それは労働者から生産物が取り去られるからだ。彼が生産する物は、彼の所有物ではない。彼の労働は持続的に彼を「自己実現から遠ざける」ものである。革命しかその疎外した状態を終結することはできない。

この、マルクスが説いた疎外はしかし、今日の労働と生産の関係を表現してはいない。ネオリベラルな体制にあっては、搾取はもはや疎外や自己実現からの疎遠としてではなく、自由と自己実現として行なわれる。自己実現すると信じながら、自分で自分を搾取するのだ。そしてそれが燃え尽き症候群や精神の高揚状態の最初の段階でもある。自己陶酔して人は仕事に打ち込むのだ。そして最後には疲れ果てて倒れてしまう。死ぬほど、自己実現してしまうというわけだ。ネオリベラルな支配が幻想的な自由の背後に隠れている。そう、この支配は、自由という化けの皮をかぶっているのだ。支配は、それが自由と共に一致した瞬間に完結する。自由だと皆が感じている自由が怖いのは、それがどんな抵抗も革命も不可能にしてしまうことにある。

別の言い方をすれば、こうである。ジジェクはマルクス主義的幻想の信奉者だ。彼は、再生された左翼が先導して起こすべき革命を夢見ている。しかし、疲労困憊した鬱病の個人主義者たちは、反対運動のうねりを作り出すことは不可能だ。このことがジジェクにはわかっていない。エッセイの最後で彼は、議論でまったく違うレベルに飛び移って、矛盾したことを述べている。突然イスラムの原理主義はもはや劣等感症候群ではなくて、「リベラリズムの真の欠陥」に対する反応なのだ、と言っている。他に頼るものが誰もいなくなって、リベラリズムはどんどん自らを破壊していく、「生まれ変わった左派」しか、その中心的価値を救うことはできない、とジジェクは述べている。リベラリズムは過激な左翼の兄弟愛的な助けに頼る以外にない、というわけだ。しかしジジェクはそのような「過激な左翼」がどのようなものなのかはまったく語っていない。ジジェクにあっては、ただ亡霊のように現れているのだ。

イスラム原理主義に関わる問題は、それよりもっとずっと複雑である。過激派の左翼がいても、それを解決することはできないだろう。イスラム教も西洋も両方とも敵のイメージになりきっている。敵という図式に圧倒されていた冷戦後、新たに敵が戻ってきたのだ。ジジェクはしかしこの、敵対関係という問題をまったく捉えていない。

敵とは何だ? 敵とは、カール・シュミットによれば社会的なカテゴリーには属さず、現存的カテゴリーに属している。シュミットは、敵とは「存在論的根源性」だという。敵がいて初めて、私が誰かが定義される。敵は自分のアイデンティティに安定性を与えてくれるものだ。「敵とは、存在形式としての自分自身の問いそのものだ。だから、我々は、自分の大きさ、自分の限界、自分の姿を得るために、敵と戦わなければならない、そのことで我々は実は、自分と向かい合うのだ」。リベラリズムではしかし、敵がいなくなる。敵の代わりに現れるのは「競争相手」だが、競争相手はアイデンティティを与えてはくれない。グローバルなネオリベラリズムが生み出す現存論的空虚はしかし、またその敵を蘇らせる。ペギーダにせよイスラム過激派にせよ、彼らに共通しているのは「敵を持ちたいという憧れ」だ。イスラム過激派にとって敵は西洋であり、ペギーダの「欧州愛国者」たちにとっては、イスラムなのだ。

グローバルなネオリベラリズムはどんどん安全や確かな関係といったものをなくしてきた。今日、安心できる職場などなくなった。純粋にただ競争のみに還元されたこのシステムでは誰も安心感など持てない。大勢の人間があらゆる不安にさいなまれている。うまく機能できないかもしれないという不安、失敗するかもしれない不安、置いてきぼりにされてしまうかもしれない不安。完璧なネットワーキングにより監視される接続はあっても、本当の関係、身近に思う人や近所づきあいなどというものはどんどんなくなっていく。持続して存在するものは何もなくなっていく。ここで生まれるのが、なにか確かなものに対する憧れだ。この憧れをうまく利用しているのがイスラムの原理主義であり、過激派右翼である。このような場所で生まれ変わった左翼などに何ができようか。左翼の原理主義が提供されるというなら話は別だが。

フランスの作家ミシェル・ウエルベックがあるインタビューで、短期間の間に親しい者たちの死を経験したことが、新しい小説「屈服」を書くきっかけとなったと述べている。自分の無神論では、自分の愛犬や両親の死を乗り切れなかったという。損失は耐え切れないほどつらかった。それで彼の小説の主人公フランソワも当てにできる確かなものを求める気持ちに追い立てられる、人生の意味を求めるようになるのだ。この小説のタイトルはもともと「屈服」ではなくて「改宗」というタイトルだったそうだ。最初の下書きでは、主人公はカソリックに改宗する。しかし最後の原稿では退廃的で疲労しきった西洋に背を向け、彼はイスラム教徒になる。

私たちが今日必要なのは、まったく新しい生活様式だ。右でも左でもなく、確かで当てになるものと、確かに私たちを結び付けてくれるものを生み出すことのできる生活様式、それでいて暴力や排除の形式を一切持たない、秘教(エソテリック)的ではないスピリチュアリティが、システムが原因で生まれた損傷を治癒するためだけのセラピー形式として場所を与えられるような生活様式、シェアリングを超えた本当の分かち合い、Giveがちゃんと成立する生活形態が。

もしかしたら、このような新しい生活様式は革命など前提としなくてもいいのではないか。いや、その反対である。有名なカフカのことを書いた文章の中でヴァルター・ベンヤミンはこう書いている。「せむしの小男という民謡で同じことが象徴化されている。この小男はゆがんだ人生を生きる羽目になっている。救世主が来ればそれは消滅する。その救世主についてある偉大なラビがこう言っている。救世主は暴力で世界を変えるつもりはない、そうではなくて世界の歪みをほんのちょっと元に直すだけだ」と。