2020年8月14日金曜日

2020年8月6日付けツァイト紙

「ファットマンが遺した猛毒」

 

本文はこちら:https://www.zeit.de/2020/33/us-nuklearanlage-hanford-nagasaki-hiroshima-atomwaffentests-strahlung
 

日本の敗戦から75年。広島・長崎原爆投下からも同じだけ歳月が経った。各地における当時の責任者、権力者、司令官、加害者、命令に忠実に従って大きな歯車の中のネジとして機能した名もなき多数の「陳腐な悪」者はほぼこの世からいなくなり、その間に第二次世界大戦が始まり終わるまでの経緯は忘れられるかいいように修正され、その代わり後遺症、「負の遺産」は今も深く残っている。それだけではなく、フクシマ事故や未だに行われている核兵器開発、原発操業に見られるように、今も進行形で人類が招き続けている冥界の使者として核・原子力問題は私たちの生命と未来を脅かしている。今年はコロナ禍で各地であまり大きなメモリアルイベント・デモ等が開催できなかったが、このツァイト紙で見つけた記事を訳すことで私のささやかな「追悼アクション」としたい。(ゆう)

 

「ファットマン」が遺した猛毒

アメリカの原爆が広島と長崎を破壊したのは今から75年前のことだ。これらの兵器は アメリカでも傷跡を残している。当時出された核廃棄物が当時も今も人間に健康被害を与えている旧核施設ハンフォード・サイトを訪れた。

報告:Caterina Lobenstein


ハンフォードのエンジニアたちは、戦争が残した「汚物」を適切に廃棄するために、ありとあらゆる手の限りを尽した。彼らは放射能を最小限に抑えるためコンクリートの覆いを作ったし、廃棄物を貯蔵するためのトンネルを掘らせた。それから放射性物質の溶融スラグを保管するための巨大なタンクを作らせた。メンテナンス計画書を作成し、安全テストの予定を組み、確率計算を行いリスクを査定した。でもたった一つ彼らが計算に入れていなかったことがあった。それはドナルド・トランプのような大統領が出現することだった。

ハンフォード核施設はアメリカ北東部、ワシントン州にある。シアトルから車で東に3時間走ったところだ。人口の少ないアメリカの田舎である。この地方は、まるであらゆる色という色を洗い落としたような風景だ。灰色と茶色がかったステップ草原、褪せた黄色っぽい丘、日に焼けた草。その中をくねくねと幅広い帯のようにコロンビア川が流れている。その河畔にかつての原子炉が入ったコンクリートの廃墟が風化している。数キロメートル行ったところから警告標識や背の高いフェンスに囲まれた立ち入り禁止区域が始まる。

この場所に来ても、どれだけ強い毒性なのかは全くわからない。匂いもなければ音もしない、何も見えない。立ち入り禁止区域の中で地面から突き出ているパイプが地面の下にある危険な廃棄物のことを想起させるだけだ。そしてここから何千キロと離れた場所で、ある兵器が 爆発した日のことを。この兵器の破壊力はあまりにひどかったため、それからもう誰もその兵器を使おうとしないでいるのだ。

1945年8月9日にアメリカの爆撃機ボックスカーが原子爆弾を日本の長崎市上空に投下した。この爆弾をエンジニアたちはファットマンと命名した。その3日前にはリトルボーイが広島を完全に破壊しつくしていた。推定で少なくとも4万5千人の人が即死、長崎では2万2千人と言われている。その中でもことに膨大な爆風と熱に晒された人たちからは灰すら残らなかった。さらに1万人が放射性フォールアウトの結果、白血病や甲状腺がんなどで命を落とした。日本ではこのような人たちを表現する言葉がある。被ばく者、というのだ。

核兵器の破壊力は、その中で引き起こされる連鎖反応によるものだ。この連鎖反応を起こすには、核分裂性物質が必要だった。広島の原爆ではウランが用いられ、長崎の原爆ではそれがプルトニウムだったが、これはちょっと前に発見されたばかりの珍しい要素だった。当時これを大量に製造することができた世界で唯一の場所がハンフォードの原子炉だった。これは細長い煙突が立つコンクリートの塊が入り組んだ建物で、どこともいえないような藪の中にあった。

今日ではこの建物は観光名所だ。グレーのリノリウムの上にミントグリーンの線が引かれた廊下を通って15メートルの高さで眩いばかりに電気が煌々と灯るメインホールに入る。ここには黒鉛の巨大な塊があるが、この中に燃料棒が押し込まれている。その前に立つのが、青のポロシャツを着たガイド、マーティだ。彼はコロンビア川からポンプで汲みとられた冷却水が流れたというパイプを指で指すが、量は一分間に30万リットルだったという。それから原子炉内部で起こっていることを監視するための繊細な測定器各種、それからプルトニウムの重さが測られたという金の秤を見せてくれる。

40年代初めにアメリカ政府はマンハッタンプロジェクトという秘密計画の名の下に、原子力爆弾を開発するための国際的な科学者チームをここに呼び寄せた。この新兵器を戦争の決め手にしようというのだった。

研究者たちが目標に近づけば近づくほど、核分裂性物質への要求も激しくなった。1943年にアメリカ政府は4万人の労働者をハンフォードに送り、僅か数か月以内でプルトニウムを濃縮するための巨大な原子炉を建設させた。そのためいくつもの村が移住を余儀なくされ、この核施設の名を飾ることになったハンフォードという村もその1つだった。何もなかった土地に何百というバラックが建てられ、大厨房も設けられた。建設工事ではたった1日でなんと2500キロのソーセージが平らげられたものだ、とガイドのマーティが語る。工事に携わった労働者は、戦争に重要なインフラ整備を建設しているのだということは言われていたが、それがなんなのかを知っている人はほとんどいなかった。原爆製造は極秘の機密計画だった。

狭い廊下を通って原子炉の制御室に行くと、ここには何メートルもの台にレバー、スイッチ、ランプが並んでいる。壁には時計がかかっているが、その針はこの施設のどの時計でもそうなように10時48分で止まっている。1944年9月28日のこの時刻にハンフォードの原子炉は操業を開始したのだ。世界最初のプルトニウム工場である。

1945年7月、アメリカ軍は最初の原爆実験を行った。それからまもなく爆弾が広島と長崎に投下され、日本は降伏した。アメリカ政府は、原子力爆弾が世界に平和をもたらしたと公言した。今日ではたくさんの歴史家が、太平洋戦争を終結させるのに核兵器は必要でなかったと信じている。

ハンフォードほど放射性廃棄物がある場所は
アメリカのどこにもない

数年後、核軍備競争の時代が始まった。1949年にソ連が初の核実験を行い、ハンフォードはフル回転した。コロンビア河畔に原子炉がさらにいくつも建設された。それから数十年の間、ここで74トンのプルトニウムが製造された。これはアメリカにあるウランの量の3分の2以上である。1963年当時の大統領ジョン・F・ケネディがこの施設を訪れて、こう言った。「ここで働いている諸君は新たな世界史を書いているのだ!」

しかし世界史は別の転回をたどった。80年度後半にアメリカとソ連は軍縮条約を結び、1987年にハンフォードは操業停止となった。

この核施設の歴史はでもまだまだ終わらない。何十年もの間ここは 軍事的立ち入り禁止エリアだった。今ではとにかく民間の監査機関がここに入ることが許されている。そして住民たちや環境保護団体が恐れてきたことを確認した。つまり、プルトニウム製造により夥しい量の生命を脅かす廃棄物が残されたということだ。何トンもの放射性廃棄物が地下に埋められるか川に流された。2億リットルもの、極めて危険なスラグ、液体が177台の地下のタンクを満たしているが、このタンクは1つ1つがほぼ4階建ての建物くらいの大きさである。

これらのタンクの多くに漏れがあり、中身が流れ出して地下水を汚染している。1800種類もの化学物質がタンク内にあると識別されているが、その中には発ガン物質のものもあれば、爆発の危険が高いものもある。プルトニウム239、ストロンチウム90、水銀、ニトロソアミン、ベンゾール。このように科学者、弁護士、市民たちの団体Organisation Hanford Challengeが記録しており、放射性排気物質の妥当な処理を求めている。

そのための計画はもう長いこと存在している。アメリカのエネルギー省は何年も前に地下水を浄水し、スラグをガラス固化すると約束した。2008年にそれは開始の予定だった。今ではその計画はしかし、2036年まで延期されてしまった。

Hanfordはしかし、マンハッタン計画がその傷痕を残した唯一の場所ではない。広島の原爆に使われたウランが製造されたテネシーのオークリッジがそうであり、最初の原爆実験が行われたニューメキシコ州アラモゴード近くのホワイトサンズミサイル実験場がそうである。50年代にはサウスカロライナ州に巨大な核複合施設サバンナ・リバー・サイトが誕生した。しかし、そのアメリカでもハンフォードほどたくさんの核のゴミが置かれている場所はほかにない。ここにはアメリカ合衆国の放射性廃棄物の3分の2が貯蔵されている。1500キロ平米以上の面積を持つこの土地は、ハンブルク州の2倍ほどの大きさだ。これほどの場所を除染するのは何百年もかかる大課題である。そして時間との戦いでもある。2017年5月に放射能のゴミが詰まったトンネルが崩れ落ちた。トンネルシステムを支えていた木製の梁が朽ちたためだと、今年初めに出された調査報告に書かれている。また安全規則が厳しく適用されていない、さらなる事故が起こる可能性が高いとも報告されている。

エネルギー省が9千人以上の労働者を雇い、政府も毎年25億ドルを供給しているにもかかわらず、除去作業は遅々として進まないのが現状だ。Organisation Hanford Challengeの弁護士であり代表を務めるTom Carpenter氏によれば、除去作業はこれからももっと遅くなるに違いない、という。これまでどの政府にも重大な事故や失敗はあったものだが、今の大統領は除染に関して言えば「深刻な危険」だ、と彼は語る。ハンフォードではトランプが注意を向けるかもしれないわずかな時間に、ここで製造されたプルトニウムの半減期が対比させられているのだ。それはなんと24,110年である。

ドナルド・トランプが核兵器に興味がないというわけではない。彼はアメリカ本土に竜巻が来ないように原爆を使ったら、と提案したくらいだ。しかし、核兵器の製造で出るゴミに対する興味は一切なしだ。ハンフォード管轄のエネルギー省の重要なポストをトランプは何か月も空席のままにしておいた。そしてエネルギー省はオバマ大統領の任期が終わるちょっと前にリスク分析を提案していたが、トランプ政府はこれを拒否した。アメリカのジャーナリストMichael Lewis氏は、その著書「高まったリスク」の中で「故意の暗愚」だと書いている。 ここで彼は、ハンフォードを徹底的に除染してきれいにするには少なくとも100年かかり、1000億ドルの費用がかかるだろうと述べたエネルギー省の役人の言葉を引用している。

2019年にトランプ政府はついにこの問題について言及した。高レベル放射性廃棄物の一部を低レベル廃棄物に等級変更することを提案したのだ。低レベル放射性廃棄物なら処分する基準はそれほど厳しくない。環境保護団体や民主党の政治家たちは激しく抗議している。
この原子炉を見学しても、放射性廃棄物に関しては、長崎の死亡者に関するのと同じくらい、情報はほとんどもらえない。その代わりガイドはこの施設を「アメリカのエンジニア技術の珠玉」と褒め称える。天井からはアメリカの国旗が垂れ下がり、背景ではカウントリーミュージックが流れている。

パブの呼び物「ガイガーカウンタービール」と
「プルトニウム黒ビール」

川を約1時間ほど下ったところに人口6万人の町リッチランドがある。ここの住人のほとんどがハンフォードで働いている。昔はプルトニウム製造に携わり、1987年以来はその核廃棄物を処理しているのだ。リッチランドの高校にはフットボールチームがあるが、その名を「リッチランド・ボンバー」という。チームのロゴは緑のRの上にキノコ雲が立ち上っている図案だ。すぐそばには「アトミック・エール・ブリューパブ」があって、ここでは「ガイガーカウンタービール」と「プルトニウム黒ビール」が注文できる。去年ここの地方新聞は日本から来た交換留学生のことを報道した。この男子学生はこれを見て信じられない、と言っていたそうだ。

ここでは、長崎で起こったことだけでなく、リッチランドでのプルトニウム製造が何をしでかしたかということが集合的に抑圧されている。流産が多いって? きっと偶然だろう。無精子症になった男性がいるって? かわいそうだが、特殊ケースだろう。それからガンで死亡したたくさんの住民は? 彼らのことは英雄と讃えていいだろう。ハンフォードの原子炉でできたプルトニウムがあったからこそ、アメリカ兵士が日本の本土に侵攻せずに済んだのだから。

Abe Garza氏も、今でこそ彼が明らかだと思っていることを何年もの間見ようとしなかった。Garza氏は68歳の目の色が濃く白い口髭を生やした小柄な男性で、リッチランドはずれの一戸建て住宅が並ぶ区域に住んでいる。1983年に彼はハンフォードで測定機器技術者として働き始め、測定器具の較正を行ったりメンテナンスをしてきた。毒性の高い排気物質の入ったタンクのバルブやガス抜き用パイプを取り扱っていると、よく変な匂いがしたものだった、と彼は語る。アンモニアや玉ねぎ、または使い古した靴下のような匂い。しかし数年するとその匂いも気にならなくなった。臭覚を失ってしまったからだ。

Garza氏は自宅のベランダに座り、浅く息をしながらしゃがれ声で話す。 何年もの間彼は何の心配もしていなかったそうだ。そうしたら体の不調が突然始まった。規則的に歯医者に通っていた彼なのに、ある日突然臼歯が抜けてしまった。タバコを吸ったことすらない彼が呼吸困難になった。いつも朝の通勤バスで本を読んでいた彼が、突然記憶喪失になった。「1つの段落の終わりに来ると、もう一度始めから読み直さなければならなかった、3度も、4度も同じ段落を繰り返して読まないとわからなかった」。Garza氏の隣に座っている妻が思い出す。「彼はどんどん忘れっぽくなって家賃を2度払ったり、道路の名前を忘れたり、ついには息子の名前まで思い出せなくなってしまった。人格が変わってしまった」。

Garza氏は何度も病院に運び込まれた。あらゆる医者が彼を診ては去ったが、症状は変わらずに残った。年金生活者になる少し前の2015年の8月になってやっと、自分の言っていることが真剣に受け止められるようになったと感じられるようになった。当時、1台のタンクから大量の毒ガスが漏れ出し、作業員が避難しなければならなかったからだ。Garza氏の肺がそのために深刻な損壊を受けていたことが確認された。彼はそれに、そこでの仕事のせいで脳に損傷も受けたのだと確信している。

同年、ワシントン州の法務大臣が労働組合とOrganisation Hanford Challenge と一緒にエネルギー省とタンクのメンテナンスを担当している契約会社を訴えた。現在この訴訟手続きは中止されている。エネルギー省はガスマスクを渡すなどの作業員をもっと保護する義務を負うことを約束した。 しかし、これは数多く起こされている訴訟手続きの1つに過ぎない。Abe Garza氏など当事者の中には、すでに損害賠償の支払いを受けた人もいる。

リッチランドはこの除染・除去作業のため何十億ドルというお金がつぎ込まれるのため、豊かな町だ。放射性廃棄物以外には、金が稼げるものはあまりない。製紙工場が1つと農業が少し。Abe Garza氏は「金の手錠」と呼ぶ。「お金にはすぐ慣れる。だからやめないんだ」と。

ここの住民のほとんどが2016年にはトランプに投票した。明らかにそれとわかる危険を無視する姿勢に関して言えば、彼らは大統領とよく似ている、とGarza氏は語る。危険に直接晒されていれば晒されているほど、危険に対し盲目になるのだと。

それが早く変わる見込みはない。今年初めトランプ政権は、ハンフォードの除染・除去作業のための費用を削減すると告知した。その分支出を増やしたいところがあるのだ。新しい核弾頭の製造である。

2 件のコメント:

  1. 翻訳ありがとうございました。Facebookの自分のTLに転載してもいいでしょうか。

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  2. コメントをいただきながら、ちっとも見ていなくてすみません、今発見しました。もう遅いですが、どうぞ転載してください。ソースだけ入れてください。お願いします

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