「市民の意見30の会」に依頼され、安倍が終戦から70年の今年8月に出したいわゆる「安倍談話」に関し執筆し、10月号に掲載された文章。(ゆう)
安倍話法
梶川ゆう
戦後70年を記念したやたらに長い安倍話法の談話に関しては、日本でもかなり分析され、批判があった。この談話を「評価する」とか「評価しない」という表現が目立ったが、評価より前に根源的な問題は、この「談話」がいったい何のために出され、誰に向かって出されたかがもとより不明であることだ。「侵略」や「植民地支配」、「お詫び」に「反省」といった言葉があるかないか以前に、総理大臣がなにを意図してどういう内容のメッセージを出すかが問題だ。しかしこののらりくらりの作文は、キーワードは散りばめたか知らないが、自分を主語とする意見表明を一切避けた、掴みどころのない空のおしゃべりになってしまった。それはまず、この談話を発信する対象である「相手」がないからだ。そればかりか「自分」すらそこにいない。
どこかで見覚えがあると思ったが、文章は文科省認定の歴史の教科書と同じだ。表面的には「過去」の出来事が描写されているようで、そこには主語がない。「飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々」「たくさんの市井の人々が無残にも犠牲になりました」「将来ある若者たちの命が、数知れず失われました」「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」と、あたかもすべて天災などの不可抗力であったかのような言い方だ。飢えや病に苦しませ、殺す原因を作ったのは誰か、たくさんの人々を無残に犠牲にしたのは誰か、若者たちの命を数知れず奪ったのは誰か、女性の名誉と尊厳(この表現もあまりに無責任だが)を傷つけたのは誰か、はここでは一切問われていない。もちろん問いたくないからである。まして「歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです」にいたっては、これが一国の総理が戦後70年という節目に公表する談話の内容だとはとても思えない戯言だ。取り返しがつかないから何も言わないというのが、この国の総理というわけか。
それでも、世界で初めて原爆を落とされた犠牲国であることに関しての意識は相変わらず高い。今年5月にニューヨークで開催された核不拡散条約再検討会議で日本は、各国の指導者は広島・長崎の被爆地を訪問すべきだという素案を出し、中国の反発を受けてその提案は丸ごと削除された。日本が「被害者」に徹し「加害者」としての意識をさらに捨て去ろうとしているのが認められなかったのは当然だ。
同じく5月、中国・韓国でかつて日本に強制労働を強いられた被害者の賠償訴訟や慰安婦問題で活躍している日本人弁護士グループがドイツの例を勉強しに訪れ、それに通訳として同行する機会があった。通訳をしたのはドイツの「記憶・責任・未来基金」(以下EVZ)と、ナチスドイツの強制労働者賠償問題に被害者側に立って携わってきたハンブルクの弁護士2人との話し合いだ。「EVZ」は、ナチスによるかつての強制労働者に対する賠償を行う目的で2000年に設立された基金で、基本資金の52億ユーロの半分は国が、残りの半分は経済界が出し、2007年に賠償金支払いを終えている。100カ国に散らばる合計166万人の元強制労働者に合計44億ユーロが払われ、現在は歴史を伝え、人権擁護を訴え、ナチス被害者を支援することを主な活動目的に、教育、若者の理解・交流振興、人権アピールのプロジェクト等を支援したり、奨学金を出したりしている。EVZとはその名が示すとおり、ナチスが行ったあらゆる犯罪、迫害、暴力、強制を記憶し、その規模、実態、状況、結果をはっきりと理解し、今と未来に伝える責任と、同時にその過去を償う責任がドイツにはあるとして、それを行動に示した基金だ。興味深いのは、資金を出した企業には、ナチス時代に強制労働者を雇っていた古い企業だけでなく、戦後できた企業も入っていたことだ。若い会社も「過去の清算を共に負担する」ことでイメージアップを図ったわけである。また強制労働者を雇っていた企業が、その下請け会社にも参加を要求した。実際は、この基金に寄付すればその分税金免除になったため、企業は免税の理由もあって金を出したともいえるし、その分国家が半分以上資金を出したのだともいえる。それでも「過去の清算」をする努力をアピールする意志があり、それを「望ましい態度」として受け入れる社会があったのだ。
補償を行うにあたり、EVZは調査を丹念に行い、元強制労働者を見つけ出して登録し、強制労働の程度(収容所に入れられた人を最高レベルとして)に応じて賠償金を支払った。しかし期限内に登録できなかった人は、これでもう賠償金を受領する権利がなくなったし、受領した人たちもそれ以上に請求することは不可能になった。その次に私が通訳をしたハンブルクの弁護士2人は、ことにそのことを手厳しく批判していた。つまり、ドイツ国家は「要するにこれだけのことをしたから、もうそれ以上は要求するな」と言えるために、このような方法を選んだのだと。ナチスの負の遺産リストは長く、叩けばいくらでもぼろが出てくるようだ。それでもドイツはまがりなりにも向き合う姿勢を見せ、主語で謝り、「謝る」相手を定義してきている。
安倍は「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言ったが、安倍が岸の孫であるように、私たちの子や孫は「あの戦争」をしてきた国で生まれ育つ以上、現在に続く関わりを否定することはできない。そこで思い出すのが1998年に小説家マルティン・ヴァルザーがドイツ書籍平和賞を受賞した際、アウシュヴィッツの罪については疑う余地はなくとも、その過去を毎日のように突きつけられては目を背けたくなる、過去の克服が儀式的になり単に道徳的な懲らしめとなっている、記憶の想起、罪の意識、償いは個人的なものであるべきだという主旨を謝辞で述べ、大論争になったことだ。当時のユダヤ人中央評議会議長ブービスはこれを「精神的な放火魔」と糾弾し、いわゆる「ヴァルザー・ブービス論争」に発展した。加害者は「これだけ償いをしたからもういいだろう」という権利はない、ということがこの時盛んに言われたが、謝罪をせざるを得ない宿命を作り出した根本が何なのかを見据えない限り、何も始まらない。謝罪というなら、その罪の内容を把握、分析、理解しなくては謝ることはできない。その罪を誰が誰に与えたのかをはっきりさせない限り、誰が誰に謝ることも、誰が誰を赦すこともできない。しかし発信相手も発信する主語もない安倍の空虚な談話では、お詫びや反省という言葉があろうがなかろうが誰の胸にも入りはしない。彼は主語で何も語っていないし、誰に対しても語りかけていないからだ。このような虚言を敗戦70年の談話として総理大臣がもったいぶって話したのだから、なんとも情けない国である。
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