2012年3月26日月曜日

フクシマをめぐる沈黙、嘘、隠蔽

ARD(ドイツ第一放送、日本語字幕付き)

今度は6分くらいの短いレポートの動画を翻訳して、この前「フクシマのうそ」の字幕を動画につける作業をしてくれた人にまたつけてもらい、それをYoutubeにアップしてもらった。
http://youtu.be/nLgouGEzOgc


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2012年3月20日火曜日

ドキュメンタリー「フクシマの嘘」日本語字幕付き

ドイツ第二テレビ放送製作

http://www.dailymotion.com/video/xpisys_yyyzdf-yyyyyyy_news

フクシマ事故が起こって1年。フクシマだけではない原子力ムラの実態をZDF(ドイツ第二テレビ放送)の記者ハノ氏が取材して30分のドキュメンタリーにまとめたもの。これを字幕用に翻訳し、その翻訳を、これまでにもいろいろな海外のフクシマに関するドキュメンタリーの日本語訳紹介に務めてきた友人の知り合い(私は面識はない)が映像に載せて、それをデイリーモーションにアップしてくれた。

新しい事実はないが、菅の独占インタビューなども出てくるし、それなりによくまとめられていると思う。

私はこういうドキュメンタリーや記事を翻訳することで何かの役に立てれば言うことはないし、だからこの作業も引き受けたのだが、なんだかこういう仕事を続けていることに「空しさ」を覚えるのが正直な気持ちだ。空しさ、というのは、つまり「外国の記者などにこうして実情を報道」され、日本のいわば恥、汚点がこれだけあからさまにされても、日本はこうも変わらないか、しかも日本人はそれでもただ他人事のように今の状況を見ているだけなのか、と思うと情けなくなって更に落ち込んでしまうからだ。震災から1年、もう原子力ムラのひどさも、利権の浅ましさも、政治家と官僚の罪も、マスコミのお粗末さも、学者の悪徳ぶりもわかったのではないか? それならなぜ、なにも起こらないのだろう。そして、これだけたくさんの人間がそれでもこうした「海外の報道」を翻訳して紹介しようとするのは、「海外から圧力がかかり、日本を救ってほしい」という他力本願の現われではないのか、と思えて仕方がない。しかし、「助け」を待っていても誰も助けには来てくれないし、自分が動かなければなにも動かない、自分以外の誰も自分の利益のための行動も発言もしてはくれないのだと、全員が思って言動できるようにならなければ、日本は変わるわけがない。こんな遠くにいて、私にはなにができるのだろう、と頭を抱えてしまう。(ゆう)


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2012年3月12日月曜日

福島第一の「設計基準事故を越える事故」

Super-GAU in Fukushima-1 Welche Verantwortung tragen die Verbraucher?
フクシマ第一の「設計基準事故を超える事故」
 ──消費者はどのような責任を負っているのか?

本文はこちら:http://www.sueddeutsche.de/wissen/super-gau-in-fukushima-es-wird-verschwiegen-vertuscht-und-beschoenigt-1.1304803

福島第一の「設計基準事故を越える事故」:
「黙秘され、もみ消され、言いつくろわれている
インタビュー: Markus C. Schulte von Drach 

チェルノブイリ、ディープウォーターホライズン、そしてフクシマ第一。これらの事故は、現在のライフスタイルのために私たちが支払わねばならない犠牲なのだろうか? 数多くのことは防ぐことができたはずだ、と述べるのは、リスク研究家のKlaus Heilmann氏だ。しかし、政治や経済の責任者たちは、それを認めるよりは、どうやら私たちに嘘をついている方がいいらしい。

Klaus Heilmannはミュンヘン工業大学の医学教授だ。リスク研究家として彼は数々の企業、連盟、組織をコミュニケーション問題に関しアドバイスしてきた。彼がアドバイスしてきた団体の中には、チェルノブイリ事故後のドイツのエネルギー経済界、バーゼルのシュヴァイツァーハレの火事が起こってライン川が汚染されたあとのドイツ化学産業界がある。彼が出版したばかりの著書「リスクの嘘、なぜすべてを信じてはいけないか」で Klaus Heilmann は、政治や経済の責任者たちが、大規模な技術とつながっている事故にどう対処するか、ということをテーマにしている。

南ドイツ新聞:貴書「リスクの嘘」は、チェルノブイリ事故、1984年に起きて数千人の死者をもたらしたインドのボパール化学工場事故、2010年のメキシコ湾のディープウォーターホライズンの炎上沈没事故、そして一年前のフクシマ原発事故などの恐ろしい事故がどのように起きたかを、説明しています。これらの出来事は、今の私たちのライフスタイルを保つために払わなければいけない代償なのでしょうか? それとも、このような事故は防ぐことができるのでしょうか?

Klaus Heilmann:原則的には防ぐことはできません。それは基本的にはでも、技術的な問題のせいではなく、責任者たちがもっている犯罪的エネルギーのせいです。このことを私は、この過去10年間に起きた大事故すべてに対して言いたいと思います。今は、責任者たちが当時なにを知っていてなにをしたか、なにをすることができたはずでなにをしなければいけなかったはずか、が詳細にわかっています。つまり事故の影響はかなり抑えることができたはずなのです。しかし、人々は政治や経済の責任者から平気で嘘をつかれた。そしてこれからも黙秘され、もみ消され、言いつくろわれていくのです。

どうやって子孫たちに伝えるか?

この記事は、単に「原発」の危険というだけでなく、別の側面を扱っている意味で、興味深い。核をめぐる人間の「浅はかさ」ぶりはここでもはっきり見える。どうしてこんなことを平気でいつまでもしているのか? (ゆう)
本文はこちら:http://szmstat.sueddeutsche.de/texte/anzeigen/37073/1/1

核のゴミをめぐる記号学
どうやって子孫たちに伝えるか?

核廃棄物はほぼ永久的に放射能を出し続ける。したがって、研究者たちは1万年後にも危険性を理解してもらえる警告表示を考え出さなければいけない。フクシマの原発事故から1年が経った今、この問題の重要性は高くなる一方である。
(Alexandra Lau とRoland Schulz執筆 )

なんの予告もなしに電話が鳴る。まるでスリラー物のようだ:政府の代表者から電話がかかり、大切な話がしたいと言ってきた。80年代の初め、ロナルド・レーガンが大統領になったばかりの頃のことだ。インディアナ州の記号学専門の教授で、記号・シンボルの研究で有名なThomas Sebeokのところに、政府がどうしても彼の話を聞きたいと言ってきたのだ。電話の向こうの女性は、「それはゴミの件なのです」と言う。放射能のゴミ、と。Sebeok 教授はすぐに「放射能廃棄物のことなど、何もわからない」と答えた。「でも教授は記号の専門家でしょう」と電話の相手の女性が言う。Sebeokは「はい」と答える。「それなら政府のところにぜひおいでください」と女性は言った。どうやったら核廃棄物のゴミを警告することができるか、どうしても彼の話が聞きたい、と。何世代もあとになってもわかるような記号、百年も、千年も、いや、1万年経ってもはっきりそれとわかるような記号を考え出さなければいけない、と。

フクシマの原発事故とドイツの脱原発決定から一年経った今、この問題が再び専門家たちを悩ませている。半減期が人間の想像力をはるかに超える、恐ろしい規模の核エネルギーの「遺産」をどう扱っていけばいいのか? この問題が単なる技術的な問題だけでなく、哲学的問題でもあることを、記号論学者Thomas Sebeok はフクシマ事故の起こるずっと前から主張してきた。 

Sebeok教授がサン・フランシスコで召集された政府の委員会の第1回の話し合いに出向いた時、彼を迎えたのは12人からなる専門家グループだった。中には行動学者、社会学者、法律家などがいた。ロナルド・レーガンのもとで働く職員たちは、アメリカの原発から出てくる核廃棄物の量が増える一方なのを憂慮して、研究会を動員したというわけだった。核のゴミはどこにやればいいのか? そしてそれをどこかにもっていけたとして、その危険をどうやって警告すればいいか?

フクシマ原発事故より一年:災害はまだ終わっていない

「フクシマ」が全世界に行き渡り「チェルノブイリ」と同じような意味で定着してから、1年が経つ。ドイツでも「1周年」を記念して、あらゆる記事・番組が相次いでいる。その一環で、この記事は、「日本政府に対し『国を開け』という訴え」を行っていることから、それに共感して翻訳した。
去年、フクシマの事故があって毎日大きく報道された地震・津波・原発事故の様子があっという間にドイツのメディアから姿を消したのは、独裁者ガダフィを「糾弾する」戦争がすぐそのあと起きたからだ。あの時、ガダフィは「自国の非武装の市民たちに発砲し殺戮する冷血な独裁者」として武装介入され、滅びることとなったのだが、その是非はさておき、非武装の市民たちを「武器で殺戮」しないまでも放射能の垂れ流しと保護を怠った「過失」でいわば「見殺し状態」にしている大企業や政府に対し、「人権」の立場から日本を国際的に糾弾し、一人でも多くの人間を救い、被害を少なくするために動き出すことはできないのか、と思わずにはいられない。もちろん、「外から」の救いを待つのは、陳腐な甘えに過ぎないといわれればそうかもしれないが、この際、甘えでもなんでもいい、これ以上日本政府や東電になにを期待しても無駄ならば、せめて国際的な圧力で少しでも多くの人間を救ってほしいと思ってしまう私だ。
本文はこちら:http://www.hannover-zeitung.net/aktuell/vermischtes/47195109

フクシマ原発事故より一年:災害はまだ終わっていない

3月11日で、日本がまず大規模な地震と津波に襲われてから一年が経つ。その自然災害がその次にはフクシマ原発では最悪なる炉心溶融事故へとつながった。この一周年を記念に、欧州議会の緑の党の招きで原発反対を訴える人たちが集まり、日本から専門家や市民を招いて日本での事故のもたらした結果や現状を語ってもらい、話し合うこととなった。

欧州議会の緑の党/EFAの議員団代表Rebecca Harms は、こう表明している:「事故から一年経った現在でも福島にある、壊れた原子炉周辺地域の状況はとても収束したとはいえない。破壊した原子炉ではなんども温度上昇が観察されている。風向きによっては放射能が立ち入り禁止区域外の人口密度の高い.場所にも入り込む。フクシマ地方の住民たちは毎日高度の放射能にさらされながら生きており、不安や恐怖を誰と分かつこともできずに暮らすことを余儀なくされている。

私たちは、日本政府に対し、「国を開く」よう求める訴えを支援するものである。原発事故がもたらすあらゆる結果、影響に対処していくには、国際的なタスクフォースの方がよりよく機能できるはずだ。住民の保護、廃墟となった福島原発安定や制御のための努力、そしてさらには除染や廃棄物処理の作業も、それぞれの分野で何十年も経験を積んできた専門家をチームに組み入れて対処する方がより効果が出るだろう。チェルノブイリ事故が起きてから学んだ経験を生かし、日本を救うことができるかもしれない。

これまでは日本政府からは国際原子力機関にしか介入の要請が入っていない。しかしこの国際原子力機関(IAEA)はこの事故の規模もその影響も、過小評価してきた。フクシマ原発事故を日本の原子力技術と安全文化だけの問題だと思わせようとするのは、陳腐なトリックだ。このIAEAは日本だけでなく世界中で、人間の安全を真剣に心配するより、ずっと原子力産業の利益の方を配慮して行動してきている。EU は自分たちの安全のためにも、これら管轄当局の無責任さに対し措置をとっていくべきである。

現在、日本はほとんど「原発なし」状態だ。54基ある原発のうち、たった2基しか稼動していない。この状況を、持続的で本当に安全なエネルギー供給へと方針変換する出発点にしてほしい。それについては、ヨーロッパが今まで蓄えてきた経験をもとに貢献することができるだろう。

EU内でも、フクシマ事故以後の正しい結論を引き出す必要がある。ストレステストは危険な状態を変えたわけではなく、これまでは単に古い原子炉の継続可動を可能にするためだけに行われてきた。この高い危険性を秘めた技術をあきらめて初めて私たちは、「フクシマ」が二度と起きないと確信を持って言うことができるようになる。ドイツのように原子力からの撤廃を決定した国には、それを推進していく責任がある。」

2012年3月5日月曜日

エゴイストの私たち

エゴイストの私たち
 ──フクシマと私たちの確信の終焉

ヘルムット・ケーニヒ

「フクシマ原発事故」から1年を記念して、ドイツでもいろいろ特別番組や記事が作られている。日本の悲惨な状況、東電・政府の情報隠蔽/過小評価、原子力ムラの実態なども報告されている中、この記事は、単に「フクシマ」や原子力時代の終焉を語るだけでなく、私が最近テーマにしている、フクシマ1周年を迎えた私たちが現在抱えている問題、状況を分析したものとして、かなり的をついており、ことに「自由」の概念に関しては示唆されることが多かったので、それを訳した。

 2012年3月1日付けツァイト紙

過去20年の間に、4つの根本的な政治的確信と信念のシステムが壊れた。そしてその4つの内、一番最後の「難破」はちょうど1年前に起きた。福島の原子炉事故である。日本では技術をめぐる夢物語が終わりを告げた。技術と産業の発達で自然が支配できるといったイメージは壊れたのである。政治と経済がどれだけ動揺しているように見えても、次のことだけは変わらずに存在し続けるかのように見えたものである:つまり、技術的合理性ととどまることをしらぬ技術進歩に対する信仰だ。

たくさんの問題が、技術の発展の中で初めて生まれてきたにもかかわらず、「傷をもたらした刀がその傷も癒す」といった神話的原則を信じ、技術によらぬ解決案は初めから「幻想的」と相手にされてこなかった。ことに核技術に関しては、その槍の穂先がほかに例を見ぬほどの日和見主義的性格で、その意味や存在の必然性を疑ういかなる懐疑的視線からも何の咎めも受けずに来た。しかし、福島の事故があって以来、(人間に火を与えたことでゼウスの怒りを買った)プロメテウス的な厚かましさを備えた彼らの中にもようやくわかりかけてきたようである。つまり「この傷は、それをもたらした刀によってはもう癒すことはできない」ということだ。

2つ目の「難破」は2001年の9月11日に起こった。ツイン・タワーと共に、冷戦後10年近く支配してきた自由主義的政治のビジョンが消えた。歴史の終焉はしかし見られず、人権、多文化性、少数民族保護、男女平等、といった文句は、誰もが認める標語とはならず、それらをめぐって世界がもっとリラックスして動き出す、という風にはならなかった。21世紀はその代わりに20世紀が終わりに至ったちょうどその時の情勢、血なまぐさい戦い、戦争、途方もなく気の狂ったような非合理主義を続けることで始まった。

3つ目の「難破」を蒙ったのは新自由主義的ユートピアだ。2008年に起きた世界金融危機がこれを反故にした。この新自由主義の終焉と共に、無限の富というはかない夢も去った。この夢では、一般化された利益、ボロンテ・ジェネラル(一般意思)あるいは公益といった意識が復活すれば、市場と社会の、その利益をもたらす「善行」が阻止されるだけだと信じられていた。2008年の9月には、国家のさしのべた手だけが金融市場を救うことができた。それ以来国家というのはどこも巨大な借金に圧迫され、どうやっていつこの危機が終わるのか、誰にも分からないのが実情である。

2012年3月1日木曜日

ヨーロッパはただの始まり

本主義の終焉を裏付ける話は耐えないが、それにかわる主義どころか、方向すら見出されていないのが現在である。その方向性を探って、ツァイト紙では去年の暮れ、いろいろな記事やインタビューが載った。その中で、私が評価するものを訳していきたい。ロイの語る、「私たちに必要なのは、新しい想像力です、進歩という言葉の意味の新しい定義、自由、平等、文明、地上での幸福、それらの新しい定義を見つけなければならない」という言葉は、本当に実感がある。 (ゆう)

資本主義の終焉は近い。そのことをインドの作家アルンダティ・ロイ(Arundhati Roy、女性)は確信している。金持ちは貧しい者たちから今後さらに隔絶していくだろう、武器の力を使って。

ツァイト:インドの観察者たちは、今の世の危機を遠くからどのように見ているんでしょうか?

アルンダティ・ロイ:もちろん状況はかなりきな臭い気がします。ヨーロッパの貧しい人たちは怒りをあらわにし始めましたが、彼らの政府の処置はもう効き目がありません。危機は飛び火のようにこちらの国からあちらの国へと移っていっているように見えます。私には、ヨーロッパの権力者たちが、そして権力者といった場合、はっきりマスメディアも含めて、危機にしっかりと立ち向かっていくのを怖れすぎているように見えます。彼らはいまだに、救援計画や警察出動などで問題を解決できると信じているのです。でも、これで得られるのはせいぜい、一時的な息継ぎの休みだけです。

ツァイト:ヨーロッパ人の啓蒙された社会意識はこうして魅力を失っていくのでしょうか?

ロイ:この魅力はこれまでも決して信頼できるものではありませんでした。ヨーロッパがかつてその自由や平等といった理想を発達させていった間にも、ヨーロッパはほかの国を植民地にし、大量殺戮を行い、奴隷制を実行していきました、それも信じられない規模で、です。民族を全て虐殺したりしたのです。ベルギー人はコンゴで1千万人の人間を殺戮しました。ドイツ人は西アフリカでヘレロ人を絶滅させました。

ツァイト:でもそれが現在の不安を持ったヨーロッパとどんな関係があるのでしょう?

ロイ:急かさないで聞いてください。ジェノサイドは産業革命のための原料調達に役立ちました。そして産業革命が西側の資本主義の基盤となり、これにより物を過剰に生産するようになって、その上に現代の民主主義の理想の基盤は生まれたのです。この資本主義はでも、今日の危機を生み出しました、この危機は経済的なものでもあり、同時に生態学的なものでもあります。