2012年11月21日水曜日

原子力ロビーが作成したWHOの鑑定書


原子力ロビーが作成した世界保健機関(WHO)の鑑定書
Atomlobby verfasst WHO-Gutachten

「恐ろしい過小評価だ」という声はWHOを厳しく糾弾する医師グループのたくさんの批判の一つに過ぎない。WHOが作成したフクシマの報告書は独立性もなく、科学的でもない、と彼らは語る。 Andreas Zumach報告

2012年11月6日TAZ紙
原文はこちら:http://www.taz.de/Fukushima-Folgen-heruntergespielt/!104996/

ジュネーブ:世界保健機関(WHO)の福島原発事故の被害の調査レポートは、表向きとは違ってどうやらまったく独立性がないらしい。この結論に達したのは、核・原発に反対する医師たちのグループIPPNW(核戦争防止国際医師会議)による分析だ。

それどころか、WHOの報告書作成に携わった30名の著者はいずれも、原発エネルギー促進側であるウィーンの国際原子力機関(IAEO)か、または政府付属機関である原子力委員会や放射線防護関係の官庁に勤めている人たちであることがわかった。ドイツからは連邦放射線防護庁のFlorian GeringとBrigitte Gerichがこの報告書作成に加わっている。

日本国民の放射線被害に関する「一時的な被爆量評価」は、その詳細な分析が非科学的なものであり、恐ろしい過小評価である、とこの医師団体は非難する。IPPNWはまた、「WHOはフクシマの原発事故の健康被害に関する医学的調査を大幅に拡大すべきだ」と要求する手紙をWHOの事務局長マーガレット・チャン博士宛に送った。(訳注:この手紙の和訳は次のリンクで見られます: http://www.fukushima-disaster.de/fileadmin/user_upload/pdf/japanisch/who_letter_chan2012_japanisch.pdf

この手紙の中で医師たちは、「独立した放射線疫学調査と、原発事故によりさまざまな原因から1ミリシーベルト以上の被爆をしたと予想される人々を包括する記録を即刻に作成すること」を要請している。

甲状腺がんの予防なし
それに対しWHOは報告書の中で、日本の官庁が測定した1~50ミリシーベルトという被爆量を「微量」とよんでいる。これらの値は危険だと認められる限界値を下回っている、というのだ。IPPNWの派遣団は8月末に福島県を訪れたが、彼らは1時間あたり最高43ミリシーベルトまでの放射線量を測定した。被害のあった地域では甲状腺がんを予防するためのヨウ素剤も配布されなかった。

IPPNWはWHOに対し、将来の検査を「子供たちの甲状腺スクリーニングにだけに限定」しないことも要請している。それだけでなく、1986年のチェルノブイリ事故後に見られたように、奇形児の出生、死産、流産、その他発生し得る疫病に対しても調査を行うべきである、と。

公表されたものよりも黙殺されたものの方が多い
デュッセルドルフ大学病院の小児科医Axel Rosen氏によるWHO報告書のIPPNW分析では、こう書かれている。「フクシマの原発事故による放射線放出量、被爆量評価、考えられ得る健康被害に関し、これだけ明らかな情報がありながら、WHOの報告書は実際に公表しているものより黙殺しているものの方がはるかに多い」と。

専門家委員会が述べている想定の中には、「疑わしいか、あるいははっきりいってまったく間違っている」ものも少なくないという。この報告書は「フクシマの悲劇の結果をなるべく過少に評価しようとする試みであるかのように読むことができ、市民たちの放射線被爆を確定しようという真剣で科学的調査だとはとても思えない」と彼は語る。

いい人生とはなにか?


いい人生とはなにか? 

いい人生とはなにか? 私もそれを聞きたい。そしてみんなが「自分にとっていい人生とはなにか」考えてほしい。どういうふうに生きたいか? どんなふうに子供たちに育ってほしいか? そういうふうに考える時間を多く持つことによって、リベラルな経済的な考えなどまったく馬鹿げた、非人間的なものであることを自覚するようになれば、少しはましになるのではないか? それとも、そういう私もナイーブなのだろうか? でも、こうした「ナイーブ」な問いかけを、ハーバードの先生もし続け、しかも信奉者が多いということなので、少し安心した。ことに、私がこの記事を読んで感心したのは、「練習と慣れ」の点だ。正義や民主主義も「練習」を積み、慣れていかなければできるようにならない、というのは、まさにそうだ!と思う。それで、この記事を訳した。(ゆう)

いい人生とはなにか?
Was ist ein gutes Leben?
資本主義批判
金がすべてではない。哲学者マイケル・サンデル(Michael Sandel)の新著は、資本主義にモラルによる限界を設定しようと試みる。ハーバードで彼にインタビューした。
エリザベート・フォン・タッデン(Elisabeth von Thadden)報告

ツァイト紙2012年10月25日付

彼は千切れた入場券をまだもっている。ミネソタ・トゥインズがドッジャーズと戦った7度目の野球の試合で、当時12歳だった彼はお父さんの横に座り、ドッジャーズのピッチャー、サンディー・クーファックスがトゥインズを破り、優勝杯を手に入れるのをがっかりして眺めていた。それは1965年のことで、入場券は当時、たった8ドルしかしなかった。今ではトゥインズの試合だと72ドルはする。それも、当時はまだなかったスカイボックスの桟敷席と比べたら、まだ安い方だ。今は金持ちと貧乏人の席は天と地くらいに離れている。そしてミネソタ・トゥインズの花形選手は年間2300万ドル稼ぐ。80年代前半からネオリベラルな数十年を経て、野性剥き出しの市場は、ミネアポリスのこの少年の情熱そのものであったスポーツもまんまと征服した。そのかつての少年が現在、人間を二極に分ける金がもつ力の話を語る。マイケル・サンデルである。

サンデルはとっくに「グラウンド」を替え、今ではハーバード大学で哲学を教えている。彼の正義に関する講義はとても有名で、数年前から世界中の哲学者の中で霊媒能力のあるスーパースターのような扱いを受けている。政治学者たちの部屋があるクネイフェル・ビルの4階で彼はジャケットを脱いで座っているが、決してだからといって貧相には映らない。サンデルはマスコミとの応対に慣れていることを顔に出さない。この日は、窓の外でも伝説的なインディアン・サマーの輝きは灰色の雨を駆逐することはない。サンデルはそこで、アメリカが遅まきながら、どう自分自身を理解するか、という論争をなぜ始めなければいけないか、説明している。

2012年11月19日月曜日

回答ばかりでなく責任ある行動を


回答ばかりでなく責任ある行動を
学術専門家・研究者にもっと持続性に対し意欲を燃やすようにとの批判が増えている。科学年では、さまざまな意見が対立した(ドイツの連邦教育・研究省が2000年来テーマを決めて、学術専門家・研究者と一般の交流を深めるため催す企画。2012年のテーマは「未来プロジェクト・地球」だった)。Christiane  Grefe報告
ツァイト紙2012年10月25日付
Verantworten statt antworten

タイトルはちょっとした言葉の遊びとなっている。Antwortenという動詞は「答える、回答する」で、それに「Ver」という前つづりをつけると、Verantwortenという「責任を負う」「責任をもって行動する」という動詞になる。要するに、ああいえばこういう、というごまかしの答えばかりして人を煙に巻かず、しっかり責任を取れよ!ということで、それは日本のいわゆる「その道の専門家」諸君に言いたいことではないか。持続性、という言葉が言い出されてから久しいが、(地球上で一握りの)人間は、過去数十年の間に、自然環境を猛スピードで荒廃させ、毒を撒き散らし、生命を脅かし、遺伝子まで組み替え、はては細かい網の目を駆使した複雑なシステムを世界中に張りめぐらせて甘い汁を吸い、その他の(99%?)人間たちはそこから身動き取れずに数十年のあらゆる「毒」の後遺症に喘いでいる、というのが実際の姿だ。先日、フランスとドイツの共同テレビ番組ARTEで報道された番組を見たが、それは世界中でその「毒撒き散らし」システムに対抗し、地道に、しかし確実に、しかも成功しながら真の「持続性」を実践している人たちの紹介だった。ここでは日本の「提携」システムが画期的な方法として、世界でもどんどん真似され始めていると、紹介されていた。原発は「トイレのないマンション」と呼ばれることになっているが、私はこの表現が好きではない。トイレがなくては困るのは確かだが、ほんとうに私たちが出す糞尿だけなら、生分解性だし、何にも残らないだけでなく、むしろバイオガスにも、肥やしにもなりうる。原発の出す猛毒をそんなものと比較してはいけないではないか。原発は「反持続性」の一番トップに来るものだ。しかし、人間・動物・自然環境を脅かしているのは、残念ながらそれだけではない。人間らしい、地に足のついた自然に優しい営みを取り戻していくために、やらなければいけないことは途方もなく大きい。それは、私たちがここ数十年やってきたことの大きなツケだ。個人が、自分のできることから始めていくしかない。「安価」を求め、「目先のこと」しか考えないのはもはや、無責任以上の大きな「罪」なことであり、さらに大きな、取り返しのつかないツケを次の世代に回していくことだと自覚しなければいけない。持続性に関しては、私たちもあまりに「便利」な生活に浸っていて、気づかずにおろそかにしていることがたくさんある。それで、どんなことがいわゆる学者たち、学会への批判として取り上げられているか知るために、この記事を訳すことにした。ここで取り上げられて3つの批判は、日本にもそのまま当てはまる。経済界からの大学への資金の流れをどうにか変革しなければ、いつまでたっても学界は経済の言いなりでいわゆる「御用学者」ばかりを生むことになる。変えていかなければいけないことばかりだが、それも今までの「ツケ」というわけだろう。(ゆう)
本文はこちら:http://www.zeit.de/2012/44/Nachhaltigkeit-Zukunftsprojekt-Erde-Wissenschaftsjahr

ウィリアム・クラークはある「出世」の記録を見せた。過去30年の間に学術文献の中で「持続性」というテーマがどれだけなじみ、使用されてきたかを、パワーポイントの急上昇の線グラフが、示している。ハーバード大学で持続性科学を専門とする教授である彼は、こう皮肉る。「今に、この言葉はほかのどの単語も追いやってしまうでしょうね!」しかし、この皮肉の言葉が内に秘めているものは、ジョーク以上のものだ。ここには致命的なパラドックスがほのめかされているからである。

金融危機、天然資源の欠乏、気候変動にもう疑問の余地がないことはわかった。未来の世代が、それでも充分に水、裕福な生活、土、教育があてにできるようにするには、生活も経済も決定的に変わらなければいけない。しかし、すると今度は農業担当の政治家が、地元では「持続性」の名のもと、土を大切に扱うことが大切、などと述べておきながら、同時に、別の大陸を訪れては、何百万ヘクタールもの土地で燃料や家畜のえさ用にモノカルチャーを当然のように要求する。都市で菜園を営む人たちが柵で囲われていない土地で野生の種をいろいろ育てている同じ場所で、経済界の人間が熱心に、数少なく残った最後の土地をコンクリートで固めていく。あらゆる都市の市庁舎、国連会議、企業、大学などでの討論はどうやら、次のことしかもたらさなかったのではないか。「信憑性の問題」である。つまり、持続性とは中身のない空っぽな決まり文句になってしまったのだ。

これは単に政治的配慮が足りないからだけだろうか?それとも、学界も問題の一部なのだろうか?なぜ学者たちにはこうした矛盾が解明できなかったのか?こうした疑問をめぐり、教育研究省主催の科学年「未来プロジェクト・地球」で多数のディスカッションが行われたが、その中で意味のある激論が交わされた。テーマの核心は、昔からある利害対立だ。つまり、社会的責任と学界の自由という対立である。

研究で世界を細かく解体するあまり、相互関連が見えなくなる

活発な議論をもたらしたのは、実は学界の外にいる批判者たちである。これは環境保護団体や教会から、財団法人、労働組合にまで及ぶ。しかしドイツのユネスコ委員会も一緒に議論を戦わせているし、環境研究所、研究所や小さい大学が集まって新しく設立し持続性科学同盟(NaWis)も議論に参加している。彼らは共同で「ベルリン・プラットフォーム」をつくっているのだ。10月末に彼らはまた会合することになっているが、核を成しているテーゼはこうである。「研究と学問は世界をあまりに細かい部分に解体しすぎて、相互関連が見えなくなっている」というものだ。だから農業転換、エネルギー転換、モビリティ変換などに対してこれだけたくさんの提案が出されながら、複雑な現実に対応できないのだ、と。

2012年11月18日日曜日

市民測定のすすめ


「市民測定のすすめ」

おすと えいゆ著

ZDFのドキュメンタリー『フクシマの嘘』を私が東京平和映画祭のためにもう一度訳しなおした時、専門用語のチェックをしていただいた「おすと えいゆ」さんという方がベルリンにいらっしゃいます。私も、ベルリンに住むようになって、この間やっとお会いすることができました。彼はこれまでにも、ポツダム会談が行われ「原爆投下が決定された場所」に広島・長崎広場 をつくる、というプロジェクトをたて、実際に広島、長崎から「被爆石」をポツダムに持ち込み、そこで「原爆の意味を問う」広場を完成させた方です。そのおすとさんは、長いこと東ドイツにお住まいでした。彼は、東ドイツ、西ドイツで、チェルノブイリの事故の後、どんな風に市民が政府が、ではない)自分と子供たちを守るために対処したか、しっかりご覧になったわけですが、今回、フクシマの事故が起きて以来、フクシマでも当時のドイツと同じことが繰り返されていること(政府、東電がはっきりとした 情報を出さない)から、日本でも市民が自分たちの手で自分たちと子供たちを守っていくしかないことを痛感し、当時ドイツで実際に食品の放射線測定をやり、経験を集めたドイツの人たちと一緒に日本の 市民の測定所を応援されています。
その彼が、ドイツで、チェルノブイリの事故の後、どういう風に市民が考え、行動し、自分たちの手で生活を、ことに子供たちを守るべく動いたかを、すばらしいレポートにまとめました。そのリンクをここに記しますので、長いですが、PDFフィルをダウンロードして、ぜひお読みください。彼の洞察は深く、レポートの隅々に彼の真摯で、誠実な人柄が感じられ、今の日本の市民にぜひ読んでいただきたい内容です。
おすとさんから回ってきたメールの一部と共にリンクを記します。

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チェルノブイリ事故後のドイツの状況について小生がまとめたリポートをネット上で公開しましたのでお知らせします。タイトルは『市民測定のすすめ』です。チェルノブイリ事故後のドイツで起こった市民測定の開始から、食品の汚染状況の推移(食品類毎にグラフを入れています。ただし農水産物の汚染で加工食品ではありません)、食品中のストロンチウム90の推移、今も続く森林での汚染状況、食品の汚染(特にキノコ、イノシシの肉 など)、初期段階の健康影響(出生児の男女比の変化、ダウン症の増加。小児細胞芽腫瘍の増加など。ただし、これらはヨウ素131の影響だと見られ、ドイツでのヨウ素摂取量の少なさが原因である可能性もあります)。その他、疫学調査の問題、犠牲者認定の問題、測定値の読み方、市民の自立などについてまとめています。A4で88ページあるので、以下のサイトで目次を入れて各章毎にもダウンロードできるようにしてあります。 



みなさんの参考になれば、その他にも役立てていただければ。リンク、拡散は自由ですが、まずざっとでも目を通してからご判断ください。リンクした場合は一報いただけるとうしれいです。引用は出典を明記していただければ自由です。ただし、掲載されている地図、グラフ、写真(筆者撮影以外の写真)はこういう形でダウンロードできるようにするという条件で使用許可をも らっているので、これらの引用は不可です。

紹介『メディアと原発の不都合な真実』


紹介『メディアと原発の不都合な真実』

上杉隆 著 技術評論社 刊
1380円+税

主に新聞やテレビニュースから情報を得ていると、どうも時代遅れになっていると感じはじめていた。古い人間はパソコンとつきあうのが億劫で、ネットであちこちしているとアッという間に時間が消える……とか。しかし3・11以後、周囲から聞こえてくるフクシマの様子とエダノの記者会見とでは、話の程度が違いすぎることに愕然とした。新聞もテレビもエダノや保安院の言葉そのままで、あれには皆もウンザリした。この原因は「記者クラブ」にあると言われはじめ、そのクラブについてもっと知りたいとこの本を手にした。

上杉さんは著者紹介によると、NHK報道局員や衆議院公設秘書、ニューヨークタイムス東京支社取材記者などを経て、2002年からフリージャーナリストになり、2011年に自由報道協会を設立した、とある。

「記者クラブというものの横並び意識で、誰かが書くまでは書かない。誰かが書いたら一斉に書くという構造があるからなんです。それって、実際にやっていることはカンニングに他ならないんですね。(略)答えを教え合って書く。取材時のメモも見せ合っている。それが『メモ合わせ』なんです。/『記者クラブというのは税金で作り税金で運営している組織なんです。(略)法的根拠を言いなさい』というようなことを言うと、誰も答えられません。なぜなら法的根拠なんてないからです。唯一あるのは昭和33年の大蔵省管財局通達。それが『報道機関に便宜を供与する』と言ってるだけなんです。」

ジャーナリストたちが国家に援護してもらって、排他的な仲良しクラブをつくって、お互いに抜け駆けがないように監視しあい、互助しているなんて、世界中に例をみないことではないか。上杉さんがドイツに行ったとき、「日本はなんでインターネットの情報を社会的に利用しないんだ?」と質問されて、「基本的に日本のマスコミはインターネットはインチキだと最初にいろいろレッテルを貼ってしまったために、そこから脱却できないでいる」と答えている。記者諸君は個人的にはインターネットの情報をたくさん得ているに違いない。ただ記者クラブ情報に依らずに記事を作ってはならない仕組みなのではないか。

「日本では『客観報道』が公正中立でよいとされているけれども、そんなことを言っているジャーナリストは世界でもいません。そんなバカげたことは全くありません。それこそ神でもない限り、客観というのは無理なのです。日本のNHKがやっている『客観・公正・中立』というのは役所から見た報道のことです。」役所の広報係りならそれと名乗ってほしいものだ。一般人が「混乱」しないように、当たり障りのないようにニュース団子をこねている連中はジャーナリストではない。自分たちは大人のつもりで、人びとを子ども扱いにする悪癖は、この国の津々浦々、多方面に及んだ病弊だ。公正な立場なんてないのだから、自力で情報を集め、判断していかなければ。そうすれば、「記者クラブ」に依存している報道機関をもう少しマトモにでき、世界のレベルに追いつけるかもしれない。フクシマ関連の大本営発表への具体的指摘が多々あり、一読を。
(凉)
反「改憲」運動通信 第8期11号(2012年11月7日発行、通巻179号)