2012年9月27日木曜日

やっと収縮の時代へ


2012年8月23日付ツァイト紙書評 
Endlich schrumpfen dürfen 

やっと収縮の時代へ
── Niko PaechとReinhard Loskeが繰り広げる「経済成長妄想」から我々を解放するための論争(フレッド・ルクスの書評)
本文はこちら:

この期に及んで、これまでの資本主義、自由経済主義が行き詰っていることには誰もが気づいている。虚無の欲望(需要)を飽くことなく作り出し、エネルギーを膨大に消費して生産を続け、自然環境を「開発」という名のもとに破壊し、効率とコストパフォーマンスのみを追及するあまり、人間が機械とシステム(金)の奴隷に成り果てていく姿を知りながら、複雑に絡み合って出来上がっているグローバル化した経済構造にとって代わるだけのモデルを持ってくることができないばかりに、構造の分析と部分的な批判に留まっているのが私たちの現状ではないのか。資本主義に対抗する社会主義は崩壊したが、今(破壊寸前の)リベラリズムは、どこからどう手をつけていけば人間的で、生きやすい、地にもう少し足のついた社会が戻ってくるのかは、見当もつかない。この絶望的な八方塞の無力状態は、ことにフクシマ以来日を追ってひどくなってきている。その折、このツァイト紙の書評を読んだ。書評を読んだだけで、実際にその本を読破したわけではないので恥ずかしいが、無力状態に陥らずしっかり考え行動している人たちがいることを改めて感じ、今後の私たちの課題として、一人一人が考えていかなければならない問題だと改めて認識するために、「書評」の翻訳をすることにした。今の日本の政治と経済を見ていても、あまりの無恥厚顔、あまりに巧妙にできあがっている経済の網の目を前に、無力感を感じている多くの日本人が、でも決して「やっぱり何をしてもだめか」「仕方がない」「長いものには巻かれるしかない」と思っては絶対にいけない、ということを何度も自分に言い聞かせるためにも、こういう論争は必要だ。希望は「与えられる」ものではなく、自分の意志として勝ち取っていくべきものだろう。(ゆう)

政治的論争はとうとう、「有限性」の問題に達したのだろうか? 現在、経済成長の限界についての論争がこれだけ高まっているのは、注目に値する。連邦議会は、このテーマに関する調査委員会を設立した。環境評議会では、その鑑定書の中で「新しい経済成長の論争」をテーマにして取り組んでいる。マスメディアでも何度も、経済成長に関する疑念が報告されている。「成長の限界」(訳注: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E9%95%B7%E3%81%AE%E9%99%90%E7%95%8C)が発表されてから40年、このテーマはやっと社会の真ん中にたどり着いたのだろうか? 実はそうではない。経済成長を批判する論争のすぐ隣で、パラドックスともいえる同時さで、2008年に起こった最近の経済恐慌以来といわず、成長に関する「憧れ」はまだまだ強く根付いている。成長は政治にとっていまだに聖域なのである。フランソワ・オランドがこのテーマで選挙に勝ったのは、ついこの間のことだ。

持続性と経済成長の軋轢を緩和しようとする試みは頻繁に行われている。持続性のある成長、というわけだ。簡単そうに聞こえるが、実はそうではない。「グリーン・エコノミー」にかける希望は、概して問題本質の抑圧、技術楽天主義、そして経済性能と環境の消費の連結を引き離そうとする場合には、概念の混同の上に成り立っている。「相対的な減結合」というのが大きく謳われているが、実際は、「完全な脱連結」しか、究極には経済と環境を和解することにはつながらないのではないかと思われる。例えば気候問題など、環境を犠牲にした実際の物質的縮小を見ればよい。この見解をもとに、成長を批判する2冊の本が出版された。Niko Paech著の「Befreiung von Überfluss(過剰からの解放)」とReinhard Loske 著の「Wie weiter mit der Wachstumsfrage?(経済成長問題をどうするか)」である。

2冊とも「グリーンの成長」に対する画一的な信仰を批判しているが、そのスタイルは互いに似て非なるものだ。持続性研究家でありブレーメンで環境大臣を務めたロスケがフェンシングで格闘するのに対し、オルデンブルク出身の経済学者でエコロジック経済連合の会長を務めるペーヒは斧とこん棒を振り回す感じだ。 ペーヒが問題の根源を突く姿勢は、いい意味でまったく過激といえ、同時にそれは悪い意味で、最悪事故のレトリックに陥っていることから、極端だといえる。

「ぬるま湯につかってノンストップの手取り足取りの世話を受け、のうのうと暮らしてきた者たちは、個人の主権性を同時に保持することはできない」とペーヒは書く。主権性とは、やむを得なければ自分の力でどうにかする可能性にだけ、自分の要求を結びつけるものである、と。しかし、誰がここで激しく非難されている「外からの供給システム」なしで生きられるというのだろうか、そして、誰がそれをいったい望むだろうか?

社会的な役割分担が必ずしも悪魔の産物ではなくて、少なからぬ利点ももたらすことが、この見方には少しも現れない。つまりペーヒの処方箋はこうだ。悔い、後退、削減。持続性が確かなものになるためには、我々はすべてを変えなければならない、というわけだ、しかも今すぐに。率直に言えば、とか、少し逸脱する、とか気乗りがしない、などというのはどれもお門違いだ。

この命令口調だと、理解を示す可能性のある人間を追いやってしまう危険がある。たとえば、「持続性ある」車、建築、または消費物資などは、それ自体あるわけがない、というところなどがそうだ。生活スタイルしか、持続性あるものにすることができないという。「一人一人の主体の行為を総括したエコロジカルな効果の集まりしか、その持続効果を可能にすることはできない」と。しかし、ペーヒが述べるこれらの行為の条件がここではあまり問われないのが残念である。政治的に要求をしていくことは避けられないが、社会批判を有用なものにするには、ことに生活のスタイル自体を問題にしていくしかない、というのである。

ペーヒは、「経済成長に批判的な未来を構想するのは、その実現がよきにつけ、あしきにつけ、政治的な路線決定に依存せざるをえないので、どれもまったく時間の無駄だ」という。このような診断書を読んで感銘を受ける人はあまりないと言っていいだろう。問題の焦点をただ個人の責任だけにゆだねるのは、もしかしたら良心的な現代人にとっても過大な要求であるかもしれないということが、著者の頭にはない。「Privatisierung der Nachhaltigkeit (持続性の私有化、Armin Grunwald著)」に関し意義ある論争があったことも、ペーヒの耳には入らなかったようだ。

それに対しラインハルト・ロスケは、持続性とは、何よりも政治的なプロセスだと主張する。彼の本のタイトルが「質問」の形態をとっているのは決して偶然ではない。まず最初の文章で著者は、自分のテキストは「インターアクティブな本」である、つまり自分を批判する人たちとの会話としてあるべきだと述べており、この路線を彼はこの本で一貫して通している。ロスケも持続的成長という妥協文句に対し、懐疑的だ。彼の結論はこうである。「家庭や世界での持続的発展に貢献できるのは、我々がどれだけ今までよりずっと少ない資源消費で生活の質、社会的なまとまり、経済的な活力という目標に近づけるか、その方法を信憑性高く示していくこと以外にないはずだ」。ペーヒと同じようにロスケも、持続性への移行が決して快適でも、生活スタイルの変更なしに行われるとも思っていない。しかし、彼は思索のプロセス、楽しみ、そして創造力に期待をかけている。「ほかに方法がない」というのは、彼が決して使いたくない言葉なのだ。

ロスケは「これこそ経済的問題の解決策だ」と言えるものはないことを知っている。節制やスピードを緩める、などの個人的な振舞いへのヒントは「意味のある推奨内容かもしれないが、これは与えられた条件では実際に、物質主義を通り越した価値観を持つ人間、つまり生活・生存の不安を持たないで生きられる人間にしか向けられない。だからこそ将来は、持続性のあらゆる側面を包括する、節制的政治のための枠組み条件とはなにかを徹底して問うことが、欠かせない」、それを通して初めて「体制(システム)の問題」も問うことができるようになるのだと、ロスケは説明する。我々は、われわれが身をもって体験して来たような資本主義体制のの終焉にあるのだ、と。

ロスケがドイツ連邦首相アンゲラ・メルケルの言葉を引用している箇所がある。この言葉は、この2冊の本を読んだあとには「突飛」とも感じられる言葉だ。メルケルは、成長がなければ最終的にはなにもかも無駄だ、というのだ。成長、経済成長こそすべてだ、と。これを口にすれば、多数派側についていることになる。今はまだ。

この2冊の本は、絶えることなく続くという経済成長の不条理さをまったく異なった方法で論じている。メルケルさん、どうかこの本を2冊とも読んでくださいよ!

2012年9月8日土曜日

紹介『ふるさとをあきらめない』


『ふるさとをあきらめない
  ──フクシマ、25人の証言

和合亮一 著 新潮社刊 1500円+税

東日本の災害・フクシマ原発の爆発以後、多くの関連図書が出版され、私たちは手に負えそうなものを選んでは大いに勉強した。こんど手にしたのは、論でも解説でもなく、報告とも違う、「個人の思い」集とでもいうものであった。私は知人とのメール交換はするが、知らない人とツイッターで喋ることをしないので、和合亮一(わごうりょういち)さんを知らなかった。彼は詩人で、高校の国語の教師。3・11以後、ツイッターで発信しつづけ、たくさんの人を力づけ、慰めたことで、広く名を知られた方であった。たくさん発信されたものが『詩の黙礼』(新潮社)という詩集にまとめられているようだ。

和合さんがフクシマに関わる人、25人に「3月11日の午後2時46分、何をされていましたか?(時により多少の違いはあるが)」という第一問から始まる聞き書きを編んだ書である。私の周囲にも時間を造りだしては被災地に足を運び、地元の人と触れあって親交や認識を深めた人が多いが、年寄りは行っても足手まといになるだけと、東京でできることをと考え、関連図書で勉強したり、それを紹介したり、デモをしたりすることで我慢してきた。

だが、これまで読んだ本と、この和合さんのは全然違っている。話手の多くが、既に和合さんを知っていたというだけの原因ではなかろう、彼には人の心を開かせる力があるらしいことだ。構成上、和合さんの質問は極めて短く記されているだけだが、証言者はそれぞれ深く重い心のうちを、こもごもていねいに話している。もし、私が福島に行って周りの人と親しくなったとしても、こんなふうに語ってもらうことは決してできない。

放射能のために土地や家や稼業やそして家族と引き裂かれるということの、あまりの理不尽さ、悲しさ、憤りや、不安を、どう受け止め、耐え、乗り越えようとするのか。これは一人ひとり全く異なる、千差万別のことなのだ。自分一人の問題だから言っても判ってはもらえない、と本人が抱え込んで苦しんでいたことが、ここでは相当語られている気がする。

日本はどういう国だって思われました? との質問に対して、37歳の介護士の方が、「騙されたっていうか、もう信用ならない。ペロッと剥がれたというか。(略)日本の国を一人の親に例えると『私は愛されてなかったのね』というところですね」と答えている。また、二本松で避難してきた人たちを預かった旅館の女将が、「うちにいた子どもたち、これからPTSDを発症するかもしれない。若い女の子が『お母さん、私は子供が産めない体なんだよね』『結婚できないんだよね』などと言う。この先、福島が差別の対象になってしまう怖さがある。そんなこと、絶対に許されない」。

ヒロシマでの差別の話を思い出させる。でも、ここに登場する25人は、福島県が実に好きなようで、「ふるさと」を持たない身としては羨望すら感じる。海に山に実りが豊かで、美しい国であるらしい。著者印税は全額、相馬市震災孤児等支援金などに寄付されると、版元のメモが巻末にある。図書館に拠らず、書店でお買い求めていただきたい。

(凉)
反「改憲」運動通信 第8期7号(2012年9月5日発行、通巻175号)

2012年9月2日日曜日

2012年8月23日付ツァイト紙


2012823日付ツァイト紙

先週のツァイト紙の特集は「エネルギー政策転換」について。フクシマ事故の後すぐに脱原発を宣言したドイツは、現実的なエネルギー政策を講じなければならないが、持続的な再生可能エネルギーによる電力供給比率を増やしていき、稼動中の原発を次々に停止していくと、電気代が上がる、という声がすぐに経済界から飛び出す。また、脱原発を決定したドイツでは電気代が上がる、ということが日本で「やはり原発は必要」との例に引っ張り出されるほどだ。このツァイト紙の特集では、電気代というのはどのように出来上がっているのか、実際にはなにが電気代を「上げて」いるのかについて報告している。ドイツでの例だから完全に日本にあてはまらないにしても、政治が「値段」を決めているのは、どこも同じのようだ。日本にとっても重要なテーマなので、ちょっと長いが翻訳することにした。翻訳し始めて、メインの記事も興味深いが、その関連の短めのコラム3つの方が具体的な数字と例を出していて、読みやすいと思い、そちらを先に載せる。(ゆう)
本文はこちら:http://www.zeit.de/2012/35/Gruene-Energie-Energiewende-Kosten

エネルギー政策転換にかかる費用はどれくらいか

「緑は高い」というのが一般の偏見である。しかし、緑の電気が増えても、電力生産のコストにはあまり差がないというのが本当のところである。「あまり」というのはただ、数字に置き換えにくい。電気技術連盟(VDE)に所属するエネルギー技術協会は、それをちょうどしてみたところだ。この協会では、2050年には電力の5分の4が再生可能なエネルギー源から生み出されなければならない、という連邦政府の目標に合わせて計算した。

結果はこうだ。キロワット時の発電コストは0.6セントくらいしか上がるはずがない、というのである。これは今と比べ、10%にも満たぬ増加だ。2010年、つまりフクシマの事故が起こる前、そして脱原発の時期を早めるという決議がある以前に、再生可能エネルギーによる電力は、すでにほぼ発電量の17%を占めていた。石炭と原子力発電は約65%だった。これらの大型発電所で発電をするのにかかる費用は、キロワット時7.8セントだった。このうち3分の1は燃料、3分の2は、これら発電所設備を維持するために毎年必要となる投資額だった。市場価格はすべてのコストをカバーしなかった。

古い技術だけにすがっていると、燃料コストが上がれば電力はどんどん高くなる。それに比較すれば、電力が緑であればあるほど、発電コストは安い。太陽も風も無料だからだ。燃料費はゼロということである。

VDEの書いたシナリオでは、投資額の高さと投資の構成は、再生可能エネルギーの比率が40%になればもう変わってしまう。ことに資本のかかる核エネルギーがなくなるので、投資の費用がやや下がり、まだまだ市場を支配している従来の発電に必要な燃料の購入費用が増える。結果として、発電コストは上がるといっても、0.1セント上がってキロワット時7.9セントになるだけである。そして緑の電気の比率が80%になっても、同じ論理でいけばキロワット時8.4セントになるだけで、結局発電費用は今日と大して変わらないことになる。

この予想にはどのような計算が含まれているのだろうか?VDEによれば、出力を同じとして集中型風力発電やソーラーパネルはどんどん安くなる一方で、石炭やガスの発電所の費用は大体横ばいのままだという。石炭やガス燃料費は長期的に見れば2倍に増えるだろう。だから緑の電気を増やすということは、ある意味でコスト増加に対する保険とも呼べるのだ。

それで、不定期に生産される緑の電気を一時的に貯蔵しておくためにかかる費用についてはどうか? 確かに、緑のエネルギーが一度大きな割合に達すれば、電力貯蔵施設が必要となる。VDEによれば40%以上になったとき、である。しかしこれにかかる費用は、すでに計算の中に含まれている。

それではエネルギー政策転換のために新設が必要な電力網にかかる費用はどうか? 400億ユーロの投資がこれから先10年の間にかかり、電気料金をキロワット時ごとに約0.7セント上げることになるだろう。ただし、この費用を、全電力網使用者が同様に負担することを前提とした場合である。

それでも、発電にかかる費用の増加は、一定の枠内であるといえる。しかし注意が必要だ。費用と値段は同じではない。卸売業では需要と供給によって値段が決まる。それに、税金、電力網使用料金などが加わる。

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一番多く払わされているのは誰か?

再生可能エネルギー法で国は、再生可能なエネルギーによる電力をつくる者に2つの特権を与えることにした。1つは、作り出した電力を必ず買い取ること。2つ目は、再生可能なエネルギーで電力をつくる者が、電気消費者が支払う固定価格をキロワット時ごとに得ることである。この価格はライプチッヒにある電力取引所で支払われる料金よりずっと高価である。
料金は20年間保証されているが、その値段は技術、設置場所、設備の大きさによって異なる。その上、風力・水力・太陽・バイオガス・地熱などの発電設備が操業を開始した時点によって報酬高は変わる。たとえば太陽光発電の場合は地上に設置された風力発電からの電力より高く、新しい(効率のよい)太陽光による電気は、旧型の設備で作られた同じ太陽光による電気より安い。「屋根の上でできる電気」が2007年にはキロワット時ごとほとんど50セントで買い取られていたのに対し、今ではそれがたったの19セントだ。風力発電設備を所有している人は、その半分である。
電力のパラドックス:新しい設備で作られた再生可能エネルギーはどんどん安くなっていくのに、平均して買取値段は約18セントまで上がった。
どうしてか? 重要な理由の1つは、ついこの間まできわめて高額な補助金を受け取っていた太陽発電装置の成功である。緑の電力量のうち、太陽光電力が占める割合は、2007年には5%だったのが20%以上に増加した。これが値段を吊上げただけではない。以前から残る金銭的な負担はなかなか帳消しにならない。20年にわたって買取保証をするといった約束を国が撤回しない限りは。

緑の電力に対する保証額は今では、合計で数百億ユーロに膨れ上がってしまった。取引市場で電力は安くなり、差額が残る。何箇所かで訂正しても、去年は130億ユーロが残った。この残った金額を電力消費者が負担しなければならないのだが、その負担が平等ではない。

すべての消費者がキロワット時ごとに同様に料金を払うのであれば、EEG分担金は去年、約2.5セントだったはずだ。しかし実際は3.53セントだった。この大きな違いは、いったいどこから来るのか、言い方を変えれば、払わないのは誰か? 実際、ことに大きな産業の電力大消費者が、この法律から例外の特権を受けている。世界市場で不利にならないように、という表書きだ。何百という企業がこの特権の恩恵にあずかっている。

企業が節約する分を、その他の消費者が負担しなければならない。ことに一般の家庭だが、公共の施設や特権を受けられない企業もそうである。政府の発表によれば、彼らが負担しなければならない額は20億ユーロ以上増えているということである。

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もう1つの関連コラム

「グリーン」は価格を上げるのか?

緑の電気の思いがけない効果は、市民には知らされていない。太陽、風、水が生み出す電力は、電力取引市場におけるキロワット時の料金を低くしているのだ。再生可能エネルギーがなければ、キロワット時料金はほぼ0.5セント高くなるはずである。

これを成り立たせているのは「電力市場での価格形成」だ。これは、価格をできるだけ低く保つ、という非常に簡単な原則に従っている。発電所はそれで、ある特定の順番に稼動することになっている。つまり一番安いのから先に、一番高いものが最後に来る。最後に需要があった電力は、だから常に、一番高い発電所から来ることになる。そのコストが、市場価格を決めるのである。

しかし、ここでいうコストとはいったい、何であろうか?市場の論理では、燃料と温室効果ガス排出の権利(O2削減証明書)を購入する支出しか、問題にされない。発電所を建設するにあたりできた負債から計算するのと違い、これらのコストは変動し、しかも生産高に依存するだけだ。これこそ、電力を売った売上金で必ずカバーしなければならない額であり、そうでなければ電力はつくられなくなってしまう。その他のコストの補填に関しては発電所経営者は、一時的であるにしても、放棄する。借金の利息は、発電するしないにかかわらず、払わなければならないのだ。

緑のエネルギーの市場効果の理由はここにある。緑のエネルギーを生み出すのは、確かに、ガスや石炭などの火力発電所での発電に比べ、全体から見ればまだ非常に高価だが、これは、新しい太陽電池や集中型風力発電の建設費用が高いことだけが理由だ。しかしこれらは一度設置されてしまえば、電力はほぼ「無料」で生産される。太陽は確かに、請求書を送ってはこない。

風力や太陽発電による変動コストが低いので、発電所の投入順序が変わる。安い、緑の電気が、高いガスや石炭からの電気を押しのけるのだ。

研究者によれば、この効果は、毎時キロワットごとに約0.5セントも左右するという。それに相応して、国が保証する再生可能エネルギーの買取価格に対する市場価格の差は広がる。結果として、EEG分担金が増えるのだ。

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そして後回しになりましたが、メイン記事です。本文はこちら:http://www.zeit.de/2012/35/Gruene-Energie-Energiewende-Strompreisluege

電気代にまとわる嘘
──グリーンのエネルギーが高いなど、真っ赤な嘘だ。
  電気料金が高いのは、政治のせいだ。
Lügen auf der Stromrechnung – Von wegen grüne Energie ist teuer.
Die Politik ist schuld an hohen Preisen
マルク・ブロースト、ダグマー・ローゼンフェルト、
フリッツ・ヴォアホルツ著

彼はあと少しでメルケル首相の公約破棄を証明することになる、もうすぐの辛抱だ。その時になれば、彼は首相が公約で述べていた数字とは違う、ある数字を挙げることになる。「純粋に数学的に言えば、もう事実ははっきりしているのです」と彼は言う。ただ、この場合は数学でも、ただの数字でもなく、政府の大計画にかかわる問題なのだ。だからこそ、彼は真実、政治的葛藤の只中にある、といえよう。

というのも、彼こそ、電気料金を決定する人間の一人なのだ。

クラウス・ホドゥレック氏は53歳、電気エンジニアだ。ドイツの電力消費者なら誰でも再生可能エネルギー拡充のため払わねばならない分担金を計算するのが彼である。CDUFDP連立政権が脱原発を決定してから、この分担金こそが「支払い可能な」電気料金の尺度、同時にエネルギー政策転換が成功するかどうかの尺度にすらなってしまった。メルケル首相は2011年の夏に、連邦議会でエネルギー政策転換を宣言したが、その時彼女はこの割増金、いわゆる再生可能エネルギー法分担金のことに触れた。メルケルは、この分担金は「現在の規模」を超えることはない、と公約した。当時の分担金は、3.5セントだった。

あとたった7週間。そうすればホドゥレック氏は新しい分担金の数字を言うことになる。正確な数字はまだ言えない。そしてもしわかっていたとしても、彼は言わないだろう。しかし現実的にはこの割増金は4.8セントから5.3セントの間である。そういうことになれば、50%増だ。

怒る人びと


怒る人びと 

やっと人びとが怒りを表現し始めている。怒ることを忘れてしまったのかと思っていたのに。その人たちを立ち上がらせているのは、野田だ。彼がなにか言うごとに、怒りをよんで国の隅々に集まる人が増えていく。集まりの渦のなかに身を置くと、あれ以来我慢してきたこと、許せないと思ってきたこと、もうダメだと、積もってきたことが一つのことに収斂して、怒りの固まりのようなものになっているのが感じられる。「再稼働反対!」とのみ口には叫んでいるけれど、その中身は原子力ムラ、安全神話、から始まって、今、野田が発する言葉や行動、行動しなかったこと、どさくさに紛れて更にしようとしている危険なこと全部への否定なのだ。

フクシマのあと、気がついてみると私は「国」ということをしょっちゅう考えている。「国旗・国歌」の強制に反対してきたし、国家主義的な見方はやめよう、と人にも言ってきたが、抽象的・理論的思考が不得手で、感覚で「国」に拒否感をもってきただけだった。どんなに忌避したくても、「国家」に帰属しなければ不自由な仕組みになっている。娘が外国に住んで、日本国籍を棄てたときにも、住民登録は地球の何処でしてもいいじゃない、と言ったが、早い話、娘に会いに行くのに「国」の証明がいちいち必要だ。無政府主義者の大杉栄は戸籍を否定して子どもが生まれても役所に届けなかった。子どもが学校に行くことになったとき困ったのは、彼らの死後に孫を預かった祖母だった。彼ら両親が殺されなかったら、たぶん、子どもの教育は自分たちで行ったに違いない。でも、どこまでそれを貫けたかはわからない。「国」の力は絶大だから。

いったん「国」が決定したことは、飜らない。そのことは三里塚闘争で我々は思い知らされた。あれだけの人が血みどろになって闘っても空港は作られた。人民の闘いの歴史はさまざまあったけれど、国策とまともに対峙した三里塚の闘いは象徴的だと思う。60年、70年安保の闘争だって日本国開闢以来の人民闘争であった。あのときの敗北がいまの「オスプレイ」にまで及んでいるかと思うと、胸が煮える。

「三里塚」ばかりではない。自分が関わらないと数え忘れがちだが、人びとは各地で国策に立ち向かって「怒り」の闘いを行ってきた。沖縄の反基地闘争は敗戦後ずっと孫子にまでつづいた闘いだし、基地のあるところのどこにも持続した抵抗グループがいる。突然降りかかってくるダム建設への反対に生涯を使ってしまった人もいる。公害大気汚染にも立ち向かった人たちがいた。新幹線建設もゼネコンを潤すだけのもので、便利な足を奪われ置き去りになる近住民が各線で反対運動をしたが、押し潰された。しかし、抵抗なしでヤスヤスとやられてしまった地区はなかったのだ。どうしてどうして国に対する「怒り」はまっとうに発せられてきたのだ。

クシマ以後、関連図書が書店にあふれ、いままで迂闊にも洩らしていた「原発反対運動」の経過報告書をいくつも眼にすることができた。みんなよくやってきたんだなー、としみじみした。計画排除に成功したところもあるが、「国策」の後押しを受けた電力会社の巧妙で周到、カネにあかした戦法に敗北したところが多い。必ずしも抵抗力の強弱が原因ではない。たしかに引っ張る「人」の存在が重い要素になるが、テキはとにかく過疎地を狙っているから、「人」に恵まれるかどうかの運も計算済みだ。オマケに間に立つ首長たちだ! 住民から選ばれたにも関わらず、住民を裏切る方に向きを変えるヤツらがとても多い。

こんどの大きい災害で、目立つ立場の人の言動がいつもより多く人目に晒された。「国」や「政府」「内閣」ほどの立場ではない人にも、いくつか共通したものがあるのを感じた。村長、町長、市長、知事、議員、大臣たちは、それぞれなりの「権力」に魅せられている。いまの「権力」を手放したくないからこその言動ではないかと疑われるフシがいっぱいあった。カネと権力。このオンブオバケが背中にとりついたら人は人でなくなる。この現象は珍しくもなんともなくて、またか、と呆れたり軽蔑したりで、もう馴れっこになっている。世界共通のことだし、昔から「王様は3日やると止められない」と相場は決まっている。支配され、被害を受ける「民」も、そういうものだ、とフツウ諦めるからたいがいはやられている。

このごろの首相官邸前行動や代々木公園や全国各地で集まった「再稼働反対!」の行動参加者は、いままでのさまざまな直接行動とは規模が違う、性格も違うように感じられる。これを「現象」と捉えたい評論家やメディアは、「60年安保と違って、組織で集められたものではなく、個人の意思で参加している点が目立つ特徴だ」などというから、同じふうに言うのは抵抗があるが、人びとの渦に入ってみると、たしかに一人で来ているか、せいぜい2、3人づれが多いようなのだ。ワイワイしてない。官邸前は六時からの行動となっているらしく、それ以前はとても静か。6時になると一斉に「再稼働反対!」が始まる。

官邸前行動はイベント屋が取り仕切っているという噂で、我々のように行動馴れというか、スレてない人が多いから、「世話人」の指示によく従う、ということもある。「初めてこういうことに参加しました」とメディアのインタビューに答えている場面にもしばしば遭遇した。驚くのはその人数であり、毎週とかの根気よさだ。官邸前行動に限っていえば、警視庁警備の金曜日毎の「作戦の進歩」がめざましいこともあり、どこまでの人たちがいまの気持ちを持続できるか、それはわからない。熱しやすく冷めやすいのは群衆の共通要素かもしれないが、フクシマの悲しみはまだまだ深く、終わりはないように思える。いままでのどの「国策」が引き起こした災厄とも、「放射能」のもたらすものは違う。自然災害が世界でも有数の発生率を負う日本列島に、あってはならない原発がいっぱいある。すでに「死の灰」は各地に山積して行き場がないのだ。そのことは今では誰でも知っている。古今未曾有の悪魔的問題に、直面している。だから、そう簡単には諦め、納まらないのではないかと、すぐ甘くなる私は思いたいが、どうだろう。官邸は、今は困惑するくらいには感じているだろうけど、あれだけの「再稼働反対!」の音に耐えつつ、ひたすら沈静化をねがっているに違いない。公安と密接に協議しながら。

組織に属してない人たちがこれだけ熱して、直接行動に参加して、それが「何のプラスにもならなかった」と思い知る日がきたときは、どうなるだろう。何年もの間、さまざまな拒否問題に対して直接行動を準備したり、参加してきた者として、いまの「フツウの人の一斉蜂起」的行動に冷めた眼をもつことは私はできない。「人びとはちゃんと怒っている!」というふうに思う。いままで、たったこれだけ?と情けないような人数でデモをしてきたこともたくさんあった。ずいぶん多いと喜んだときもあった。でも、これほどの人数をナマで見たことがなかった。10万人を越えると、ただスゴイ。

さきごろ、NHKのクローズアップ現代という番組でこの問題をとりあげていて不満はいっぱいだったが、その中で、初参加したという若い人が、「いままで、なにかあっても誰かがやって(反対?)くれると思っていましたが、こんどは出てきました」というふうに答えていた。そうか、私たちはこういう人たちを代表して街を歩いていたのか、と、なんだかハッとした。

せっかく決心して出てきた人に言いたい。もう少し、がんばろうよ、成果を上げようじゃないか、と。諦めるのを期待している彼らの思う壺にはまりたくない。私の経験では、国家警察の本質は戦前から変わっていない。現代だって実に怖ろしい。いまの行動に対して警備や弾圧の大作戦を日々必死に練っているに違いない。だからこちら側は人数を減らしてはならないし、挑発に乗ってもいけない。油断してはならない相手であることを忘れないで、できるだけ息長くつづけていきたいものだ。原発ゼロを目指して。
(凉)
『運動〈経験〉』35号(2012.8)より