ツァイト紙2015年1月8日付
社会学者ウルリッヒ・ベックを追悼して
オプティミスト──偉大なる社会学者
ウルリッヒ・ベックの死
エヴァ・イルーズ(Eva Illouz・エルサレムのヘブライ大学の社会学者)
「危険社会」(私ならリスク社会、と訳す。ドイツ語ではRisikogesellschaftで、危険ならGefahrだ。危険社会と聞くと、危険な社会、という意味にも取れてしまう。リスクを根源的に抱えている社会、という意味でリスク社会、とベック氏は言っていたと思うのだが)を書いて世界的にも有名になった社会学者ウルリッヒ・ベックが元旦に亡くなった。「続・百年の愚行」でドイツ語圏からの執筆者を探しているとき(去年の春)、私は彼にもエッセイを執筆する依頼をしていた(忙しくて時間がないので断られたが)。ドイツがフクシマ事故後脱原発を決定するにあたり倫理委員会を設けたが、ここでも彼は活躍した。脱原発が「経済的」だけでも「科学的」だけでもなく「倫理的」問題として捉えられ論議されるというのは考えてみれば当然のはずなのに日本ではまったく考えられないことだ。この追悼記事の中で社会学者のエヴァ・イルーズが「陰鬱さのない批判」とか「陽の当たる批判」という表現で言っているように、ベックはともすると先細りで暗くなりがち、悲観的になりがち(私はその典型)なテーマにおいて一貫してポジティブな思考の人だった。それでいて単純でも、単なる楽観主義の軽い人間でもなく、洞察の深い人間だったと私は思う(というほど私も彼の本を読んでいないので、これを機会にもっと読みたいと思う)。
元旦に彼が亡くなり、その直後にパリでは襲撃事件が続いた。ヨーロッパは揺れ、世界の各地で恐ろしいことが次々に起こる。9.11以来、なにが世界のどこで起きてもまたか、と思うほど怖い話に慣れてきてしまうのがまた怖い。今起こっていることはでも、昨今に始まったことではなくて、ずっとアメリカを中心とする西側諸国とその追随(日本など)がオイルの確保と死の商人の利益を主に上げるため、新自由主義的経済発展だけを追い続けたツケが回ってきたとしか思えない。イスラエルとパレスチナの問題もダブルスタンダードのまま死の商人が忙しくしているだけだ。どこを見ても私には闇だらけで、ちっとも明るい展望が見えなくて落ち込んでしまうのだが、今年早々、その闇の中で希望の灯火を与えてきたベックが亡くなってしまったのはいかにも悲しい。これからどうなっていくのだろう。
あともう一つ。イルーズの文章の中にも出てくる(ただし、彼女はこの文章を英語で書いた。この英語をドイツ語に翻訳したのはMichael Adrianで、私がそのドイツ語をここで和訳しているわけ)が、「多様な文化」「多様な世界のあり方」ということを表現するのに、ドイツ語では Bunt(カラフル、色とりどり、多彩)という言い方をする。カラフルということは、要するに画一的、モノトーン、単色、制服、ユニフォーム、統一的、同色、などなどの反対語だ。今の世界はどこに行っても、単一民族の単一文化など絶対にあり得ず、あらゆる種類の各地の文化が入り混じっているからこそ豊かで、彩りよく、楽しい。そう考えたら、日本語の「いろいろ」という言葉こそ、カラフルということではないかと気づいた。日本は島国で長いこと鎖国も続いたせいか、いまだにその鎖国的・排他的感情が根強いようだけど、単色から個が目立ち、飛び出す釘を許さない風潮、統一、画一トーンがいいとし、皆が同じことをするのが安心できてよいというのは私にはまったくわからない。今日本ではデモでも、統一カラーに揃えたりするのが増えたようだが、私は皆がそれぞれ好き勝手に、好きな格好で、好き勝手なプラカードなどやメッセージを持って、好きなペースで歩くのがいい。人に押し付けられて同じことをやるのはいやだと自己主張ができるエゴを持つのは、制服と校則で縛られ、朝礼などで軍隊式に整列し、君が代を一緒に歌わされる学校に通って育ってきた日本人には難しいのかもしれない。(ゆう)
本文はこちら:http://www.zeit.de/2015/02/nachruf-ulrich-beck
Der Optimist - Zum Tod des großen Soziologen Ulrich Beck von Eva Illouz
社会学者ウルリッヒ・ベックを追悼して
オプティミスト
──偉大なる社会学者ウルリッヒ・ベックの死
誰かが亡くなると、その人の人生のずば抜けて優れた点が強い光に当たって際立つことが時としてある。そしてそれにより、あるエポックとしての、その人の人生を物語るバイオグラフィが完結するのだ。今の時代で最も偉大な社会学者の一人である彼が、彼の人生と業績を称え、予期せぬ早すぎる彼の死を悼む社会学的兆候を喜ばしいと思っていることを、私としては祈りたい気持ちだ。
ウルリッヒ・ベックは単に国際的に成功した社会学者というだけではなかった。彼はヨーロッパ市民であり、生き方、政治的アンガージュマン、社会学者としての仕事、そして公的な立場を通じて彼はそれを模範的に生きてきた。ヨーロッパのシティズンシップというものを体現している人がいたとすれば、それは彼である。彼はミュンヘンとロンドンを股にかけて生活し、彼の著作は35ヶ国語に訳され、ほとんどのヨーロッパの言語はその中に入っている。彼は、他の誰よりも強く、何が彼の目には民族国家の衰退として表れてくるかを理論的に捉えようとした。そしてそれにより「民族国家」という概念にぴったりとくっついて離れない社会学的概念性をこそ払い落とすことの必要性を同時に捉えたのだった。まだ表面的には生きているように見えながら、実はとっくに死んでいるもののことを指す概念のことを「ゾンビ・カテゴリー」と彼は呼んでいた。ヨーロッパというのは彼にとって、さらに大きなプロジェクトに向かうための道の一歩だった。そのプロジェクトとは、世界政府であり、国境の消滅だ。
彼に初めて会ったときのことを思い出す。彼はイスラエル社会学者同盟の主要発言者で、ヘブライ大学の社会学セミナーが彼をあるモロッコ料理のレストランに招待したときだった。プラムとアーモンド入りのラム肉に私たちは舌鼓を打ったが、ベックはその間もゲーテが1826年にエッカーマンと語った「世界文学」というのが実は、文化のグローバリゼーションの始まりだったのではないかと考えていた。ペルシャの詩をゲーテが賛嘆していたように、ベックもタジン鍋を前に、あらゆる文化がこうして世界中をめぐることを賞賛していた。
ウルリッヒ・ベックはだから、啓蒙主義と、良質の政治機構による地域主義の克服を願う希望の申し子だったのである。良質の政治機構があれば、必然的にどんどんすべての人間を取り込んでいくに違いないからだ。もっと正確に言うなら、欧州連合と1960年代後の文化が生み出した壮大な希望に対し、理論的な表現を与えたのが彼だった、といえるだろう。この希望とは、社会的階級や民族的所属による制限を世界市民的視野から超越するという、コスモポリタニズムへ道を開いた新しい可能性に基礎をなしているものだった。
世界市民とは、あらゆる文化の間を自由に動き、大陸を越えてあらゆる人々と接続し、あらゆる地方やグループの文化の中身を苦労なく学ぶものだ。このことをベックは、今日のようにインターネットが支配的な技術になる以前に書いているのだ。技術とグローバリゼーションが国境を超越したという事実をネットが把握可能な形で表現してみせたのだから、彼の理論は本当になったと言っていい。
ベックの民主主義的社会の未来像というのは壮大だったが、決してユートピア的ではなかった。それは面積の広い社会構造の分析、そして社会生活の具体的な集合組織のディテール、データ、分析に対するきわめて正確な意識感覚があったからこそだ。
私はウルリッヒ・ベックにはたまにしか会わなかったが、それでも彼の思考の抜きん出た特色が、会うたびごとによりよく理解できるようになっていった。彼の気質から言っても、彼の知識人としての方向性から言っても、ベックはオプティミストだった。彼はすさまじいバイタリティと不断の活動、目標を見極めてそれに一心に向かっていく意志の強さにあふれていた。そして、自分の生きている時代をこれだけ熱心に彼に肯定させたのは、この根本的な生命力だったに違いない。彼は、近代には悪の力も属しているのではないかという可能性をめぐって煩悶したりすることがなかった。彼は、ハーバーマスが現れるまでフランクフルト学派を特徴付けていた、近代性を陰鬱なものと名付けることを拒否し続けた。
人間的にはベックは、ドイツの大学教授にありがちな、大げさな反古典主義(マニエリズム)的なところが一切なく、知識人としては、なんでも悲観的に見る批判的な態度が招くことのある、ある種の「深み」を見せることをはばかる人だった。また、ポストハイデッガー派風知識人が時として見せる存在的な不安や感情的なパトス(情念)も彼には一切なかった。そして彼はオプティミストであるのにもかかわらず、仕事では常に批判的だった。
彼は近代を、その偉大な理想や目標を肯定した。ただし同時に、この近代が内に秘める破壊も強く意識していた。ベックは、私が「陰鬱姓のない批判」または「陽のあたる批判」とでも表したい批判形式を実行していた。そのやり方で彼はたとえば「危険社会(リスク社会)」で述べた考えは、現実的に得られた技術的進歩を総括した。技術的な進歩にもかかわらずパラドックスな特徴として認めざるを得ないのは、こうした進歩が「リスク」としてマネージメントせざるを得ぬ危険を呼び起こしたということだ。
「危険社会」は優れた本だったが、それはこの本が資本主義を非難するのでも庇うのでもなく、資本主義が導いてきた結果を総括し、どのように資本主義が社会制度の構造を変えていったかを解明したからである。社会制度自体が自ら引き起こした破壊をはっきり見据えること、それを克服すること、そして天然の資源の略奪と技術的革新に結びついたリスクを考慮に入れて新しく計算をしなおすことを、資本主義がどのように社会制度に強制するに至ったか、をである。
ベックなら、世界のどの国であっても独創的な社会学者になっただろうが、ドイツの社会学という観点から見ると、ことに彼は独特でユニークだった。マックス・ヴェーバーの社会学的絶望、マルクスの階級と階級闘争に関する固定観念、フランクフルト学派の技術に関する敵意、ハーバマスの抽象性またはルーマンの大きなシステムに対する偏愛、そのどれもがベックにはまったくなかった。
そして、それでもベックの作品にはドイツ社会学が19世紀からずっと抱えている大きな問いが揺れ動いていた。その問いとはこうである。技術的進歩、普遍主義、合理主義、経済的搾取、自然の消費といった問題を抱えた近代は、過去の精神的文化的資源を奪い去られるのか? ベックの答えは偉大だった。彼はこう言ったのだ。そうだ、近代は確かに安心感、確信、安定性といった感情を私たちから奪い取ってしまった、しかしその代わり我々の人生は多彩に、発想豊かに、即興的になり、型にはまったものから遠ざかってきたではないか、と。秩序と規律が結局必要だと言い出すようなフーコー的近代の謳い文句に対して、ベックは、近代とはオープンであり、そして手探りで探すものであり、個人一人ひとりが所属しアイデンティティを求めることのできる、ずっと大きな領域を与えることができるはずだ、という驚くべき見解を持っていた。
私自身の国イスラエルは、このベックの大胆な希望に対する悲劇的な反対例と言ってよい。彼の「陰鬱姓のない批判」はでも、これからもずっと私にインスピレーションを与え続けてくれるだろう。
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