ドイツ公共放送の記者であるデシュナー氏が日本を取材して、記事を書きました。内容は新しいことは特別ありませんが、一応、訳しました。
http://www.tagesschau.de/ausland/fukushima642.html
日本からの報告
福島を覆う何重もの忘却のベール
(海外特派員レポート・ターゲスシャウ)
最悪の事故となった原発事故から約1年が経過する中、フクシマの原発に関する報道は新聞の見出しから消えてしまった。それでも原子炉の状態は依然として微妙である。第2号機では温度がまた上がっているという。東電は温度計が故障したためと説明している。そして北日本の住民たちが怖れているのは単に放射能がもたらす結果だけではなく、「忘れ去られること」でもあるようだ。
WDR(西ドイツ放送)ユルゲン・デシュナー
「フクシマは核技術の信頼性を示す証拠です。いいですか、フクシマで起きたのはまったく恐ろしいと考えられる事故でした。しかし、それでどうしました? なんにも起きていないではないですか!それで死んだ人は一人としていません。専門家たちも、誰一人として放出された放射能により病気になったり、早死にしたりすることがないことを確認してくれるでしょう」。
立ち入り禁止区域まであと400メートル。フクシマ地方で出会う案内板だ。世界原子力協会(WNA)の理事長であるジョン・リッチが去年の9月に、私がロンドンでインタビューした際にマイクに向かって言った上記の言葉が、今回の日本での取材旅行に初日からついて回ることとなった。
2001年9月11日の不幸な事件と同じようにかけて3.11と日本では呼んでいるこの歴史的日から約1年、私はチェルノブイリ以来最大級といえる原発事故がこの国でどのような痕跡を残しているか、原子炉周辺の町にある道で、野原で、屋根もそうだが、ことにそこで住む人々の頭や心の中ではどんな足跡を残しているのか、自分の目で見たいと思った。
最悪事故にぴったりのちらつきと雑音
東京に着いた時の第一印象は、まったく興ざめといった感じだった。この大都会の住民たちにとっては、フクシマなど、まるでケルンやベルリンに住んでいる人間と同じようにまったく遠い場所の出来事のようなのだ。写真や映画でよく知っているような賑やかな雰囲気に街は包まれている。私が到着した日は、代々木公園の入り口で原発反対運動の小さい団体がデモ行進をしていた。しかし、ほとんどの人は無関心に通り過ぎていく。夜になると街はネオンや照明に照らし出される。停電する様子などまったくないようだ、日本国内にある54基の原発のうち、現在たった3基しか操業していないにもかかわらず、である。
東京の反原発のデモ隊は、あくまで少数派だ。しかし、この日常の印象は、東京を去ると一気に薄れる。旅のルート計画の時にそれはすでにはっきりしてしまう。ここ日本では、原発事故が起きてから約1年経った今も、まだまだ決して「日常」に戻ったわけではない。私たちの次の目的地、南相馬に行くには、日本人のプロデューサーであるタク氏と私は、何キロも遠回りの道を行かなければならない。なぜなら、直行する高速道路は20キロの区域を通るため、閉鎖されているからである。
ほとんどの日本人が、気づきもしない事態だろう。原発事故が起きる前には、この東北の田舎に東京の人間など立ち寄りもしませんでしたからね、とタク氏が説明してくれる。そして今となってはなおさらだ。東北のこの地方の高速道路料金を政府が無料にしても、大して役には立たない。
誰も直視しない
フクシマ地方にいる人間にとって、最悪の事故から1年後、すでに3重の「忘却」が襲い掛かっているといえる。つまり、政府による忘却、国民による忘却、そしてその他の世界による忘却だ。
もう大丈夫です、だって? このような言葉で、南相馬の役所は市民たちを安心させようとしている。南相馬市では明白だ。ここにはかつて7万人の住民が住んでおり、今でも約5万人が暮らしている。多くはお年寄り、一人暮らしの人たちだ。. 自殺件数が増えています、というのは僧侶のホシミ・タイカン氏だ。彼は、もう力がなくて動けなかったり、あるいはお金がないのに新しい居場所を探さなければならない人たちの面倒を見ている。
彼らは、放射能という名の、目に見えない危険に対する恐怖と常に一緒に暮らしている。不安に陥らされ、国家や政府から騙され、とっくに遠くへ引っ越していった自分の子供や孫たちから置いてきぼりにされて、生きている。南相馬は20キロの区域の端にある。しかし、南相馬市の一部では放射能の値がとても高く、この地方だって本来ならば当然避難されなければいけないほどなのである。
放射能に抵抗する「化粧」
シャベル、高圧洗浄器、ミニパワーショベルで装備した除染隊が、市当局の以来で建物や家を放射能粒子から「除染」しようとしている。しかし、この除染の効果は疑わしいだけでなく、次に強風が吹けば、元のとおりだ。
三浦万尚氏はこの町の責任者たちを「犯罪者」と呼ぶ。本来なら、この町の大部分は避難させなければいけないのです、と。核-原子力事故救援NGOの HCR(Heart Care Rescue)を指揮する三浦万尚氏は、その代わりに改善に向かっているような印象を与えようとしている 、と訴える。立ち入り禁止区域のすぐそばにある小学校はまた開校されるという。しかし万尚氏は、登校路で年間50ミリシーベルト以上の放射能を計測している。これは許容されている限界値の50倍にあたる。
放射能のベール
放射能は目に見えないし、匂わないし、味もない。しかしフクシマ原発からほぼ20キロ離れたこの土地では、それが「感じ」られる。放射能は町を覆うベールのようだ。原発事故から1年経った今、遠い東京では生活は正常に戻ったかもしれないが、 この東北の、放射能が重くのしかかった原発周辺の村や町は、20キロの立ち入り近視区域の外でも、暗黙の非常事態が続いている。そしてこの状態は、これから何年も、何十年も変わらないだろう。
原発事故の後、1万1千人が大隈から避難した。この町は立ち入り禁止区域に入っているのだ。リッチさんに言いたい。今回の旅行で、確かに私は死人にも放射能障害の病人にも出会わなかった。しかし、10年、20年経っても果たしてそれを言い続けることができるのか、誰も高い放射能を被爆して病気になったり、早死にしたりすることはないと言い切れるのかどうか、この旅行を経て、私は大きな疑問を抱いた。
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