2012年2月13日月曜日

フクシマに見る日本の縮図

反天皇制運動「モンスター」16号(2011年5月10日)より

3月11日以来、私たちの人生は一転した。被災者が置かれている状況もまだまだひどいが、フクシマの状況は目も当てられない。原発が崩壊して放射能を吐き出しているのに、責任ある態度も取らず、きちんと責任追及もされぬ罪深き原発一族に、日本の社会の縮図を見ている。自分の故郷がこれほどだめな国か、と実感するのはなんとも悲しい。

ドイツに来てから22年、日々ドイツ語を話し、ドイツ人と接し、仕事もしていくためには、日本語を母国語とし日本人として育った自分のメンタリティや思考・感情回路を分析することが、私には避けて通れない道だった。日本人のままではドイツ人と話せない自分に絶えずぶつかってきたからである。それで、自分を基本としながら私の「日本人論」ができたのだが、それが今再び痛感されることとなった。

フクシマ原発の事故発生以来、政治家や東電社員の演説、記者会見、説明を聞いて、まず「このほとんど意味をなさぬ日本語は何だ」と絶望感を覚えた。西欧語では余計な敬語や回りくどい表現はなくて、情報は濃密だがニュートラルかつ簡潔に、物事や状況を説明できるし、日々実践されている。誰でも自分の意見を堂々と説明し、論理が曖昧ならすぐに指摘され、誰が何の立場でどういう態度表明を行うか絶えず問われている。そういう慣習に慣れた目で日本人の話を聞くと、あのーや、えーが多いのは大目に見ても、くどいほどの敬語(させていただいております、という次第でございます)が耳障りで、肝心の内容は長々と喋る言葉の約二割に要約できるのではないか、と思えるほどだ。日本語の美しさは確かにあるし、母国語なのだからこれで表現をするしかないが、建設的で実質的な議論、分析、批判が普通に行える日本語を作り出す必要があると切実に思う。しかし言葉を作るのはそれを喋る人間で、その意識が大勢で変わらなければ、表現方法も変わるわけはない。


森有正もかつて「日本語では完全に中立の表現ができない」と言っている。どんな平凡で具体的な内容であれ日本語では、誰に対してその言葉を発していて、その相手と自分がどういう関係にあるかを抜きにして文体が選べない。これは本だという内容ですら、話し相手と自分の上下関係を明白にしないと表現できない。「これは本でございます」なら「自分はへりくだって、相手を上に立てています」と表示するわけだ。敬語で話しかけられても、実際に立場が上とは限らない。上下の関係が入り込む言葉では、相手と自分が対等の立場になりにくい。お見えになる、召し上がる、~なさる、など、尊敬の対象である人物は、対等な相手(あなた)とみなされず、不可抗力の自然現象のように距離を置いて眺める感じがあり、反抗はできぬ相手だから、尊敬語で丁重に扱い顔を立てておき「あなた様にご迷惑をおかけするわけにはいきませんのでここは下々にお任せください」と、言い換えれば手出しさせない、口さえ出させない状態に置く下心さえ窺われる。身分が上になればなるほど、箸一本動かさずに済む、甘やかされる対象となる。つまり、赤子と同じ状態が理想だ。それで私は、日本は大人が、実はなにもできぬ子どものように扱われる(悪く言えば馬鹿にされる)国であり、同時に、自分の責任で言動する大人を育てない国だと思うのである。

大人と子供の差は、自己責任を取れるか取れないか、にある。西欧では学校教育で「自らの名で発言・行動をし、それに対して責任を持つ」大人になる訓練をしていく。自分で思考し、情報を集め、比較し、理解・判断する「考える能力」を養うのだ。ことにドイツでこのような教育が徹底してきた背景には、ことに学生を中心に始まった1968年の社会革命的運動以降、それまでの体制を支えてきた権威主義的価値観への懐疑と、ナチスを許容し、同調してしまった世代への根本的否定がある。あのような独裁恐怖政治、人種差別主義が再び起こらないようにするためには、自ら思考し、判断し、意見を主張し、議論しあう自由を確立する以外にない、というのが過去を克服する戦後の結論であり、若い世代への義務だと理解された。そして実際、既存の社会的慣習や伝統的価値を鵜呑みにせず、権威には懐疑の目を持ち、納得できなければ否定し、反抗していく精神が育ってきた。「思想犯」もガス室に送った第三帝国の歴史を反省し、人間の尊厳と人権、ことに個人の意見表明の自由を擁護する姿勢は現在のドイツでは、かなり浸透している。

西欧では子供も自分の趣味、意見を遠慮も妥協もせずに述べるので、わがままでうるさいと感じることも多い。小さい子供にも「あなたはなにがほしいのか」と対等な相手として尋ね、答えさせる。日本では、子供どころか大人でさえ意見を求められることはなかなかない。誰かが判断したものをあてがわれ、意思表明する必要にも迫られず、欲求し、意見を持つ主体も発達せずに子供が育つ。それにも母国語の特徴が影響している。日本語は不思議なほどに自動詞が多い。自動詞とは、意志ある主体が働きかける動詞ではなく、主体がなくても自然現象や自動機械のように、物が動作を完結する動詞だ。「電気が点く」「お茶が入る」「会議が始まる」。そして、誰かがなんらかの意志で動作をしても、それが結果として残る状態ならその主語は一切消えて、「ごはんが炊けている」「ビールが冷えている」「風呂が入っている」となる。主語をそれだけ意識しない言語だから、自意識の成長が西洋人と違って当然だ。いちいち「自分が」と自己顕示をしない言葉は、俳句のように短い語句で景色描写するにはとても美しいが、東電の社員が放射能漏れの状況を説明するには適していない。主体、つまり責任を不明にしたまま話ができるからである。

もう一つ特徴的なのは、見える、聞こえる、わかるという動詞で、見る、聞く、理解する人物が主語ではなく(なにもしなくても)目に映る、耳に入ってくる、理解できる「現象」が主語となることだ。富士山が見える、鐘が聞こえる、など、意識して捉える「自己」が不在でも「現象」が無関係にあるような錯覚がそこにはある。「わかる」にいたっては、「自己」が努力をして情報を集め、思考の結果理解にいたる行為ではなくて、あたかも「閃き」や「悟り」のように物事が把握できる状態となって現れることだ。主語(私)を省略した文を好み、「あなた」という言葉は避けて第三者のように名前で呼び、自分のことはへりくだった謙遜語で話し、相手の顔を潰すような否定的・批判的なことは一切言わないことが日本では常識だが、それこそ建設的分析的議論、責任追及する論理的解明を妨げていることを意識すべきだ。

敬語と大人の「子ども扱い」は、構造において同一である。一番の例は日本のサービスだ。たまに日本に行くとお客様は神様と丁重にもてなされるのが悪い気はしない一方、あれは実は、客に奉仕する真のサービス精神ではなく、子供を甘やかすのと同じ構造だと気がつく。客が苦情を言ったり、空腹で待つことがないよう、あらかじめ配慮して「欲しがっているはず」のものを、求められる前から過剰に与えるのが日本のサービスだ。本当に要求されている希望を叶えるのではない。あくまでも「これで十分、適当」と思うものを理由なく与え、「上げるのだから、文句を言わずにありがたく受け取れ」と半ば押し付けるのだ。客(子供)は、わがままな希望を出して相手(母親)を困らせていはいけないと「身分相応の姿勢」をわきまえ、「皆と一緒でいい」「他人任せ」の人間があふれているからこのシステムは成り立っている。それが日本のサービスだ。日本の旅館で、自分は何々が食べたいと、希望を出してみればいい。丁重に断られるだろう。その代わり、注文もしない料理が食べきれないほど出てくる。あれは真のサービスではなくて、高い料金を正当化するアリバイに過ぎない。

今回は私も初めてドイツと日本の報道を毎日比較することとなったが、あまりの情報の質と量の違いに目を覆うばかりだ。日本の戦後教育は、「考える能力」を停止させ、コントロールしやすい大人を作り上げることに関し大成功していると見てよい。まがりなりにも教育水準が高く、大学への進学率も高い経済大国で、あんなお粗末な報道が一般の国民に受け入れられているとは信じがたい。記者会見ごっこを続け、大本営発表を届けて「がんばれ日本」のPRに徹する新聞テレビ。しかし無理もない。「素直なよい子」の子供たちは「考える」機能を育む代わりに、「この場ではどう振舞うのが賢いか」というアンテナだけ発達させ、すべて母親任せできた。「自分は」の主語つきの言語表現を身に付けなかった子供たちが、報道の対象を自分の目で観察し、理解できないところを鋭く質問し、矛盾を突き、曖昧な点を指摘するジャーナリストになれるわけがない。日本にあるのは、思考回路を養うどころかその能力を徹底的に排除し、進学や出世というご褒美を目当てに多くの情報をただクイズのように丸暗記し、「求められたことを当てる」能力だけを育てるマルティプルチョイス教育だ。自分で考えたり意見を述べたりすれば「生意気」「お前は黙って言うことを聞いていればいい」と親・教師から叱られ、大きくなれば「ご心配は無用です、私どものほうでよきに計らいますから」と丁重に発言を拒否される。こうして独立性のなさや、人前でろくに言葉も喋れない自分を恥とも、おかれた似非現実を不自由とも思わぬ、反抗しない管理しやすい人間ができあがっていく。思いやり、遠慮、我慢、同調が徳で、自己主張、批判をする者はエゴイスト、変人といじめられ、社会から締め出しを食う。思いやりと自粛は同義語だ。求められも、強いられもしない自粛を進んでするのが日本人で、この点ではかつての東欧共産主義国家よりひどい。彼らは強制されていただけで、進んで自粛などはしなかった。

もう一つ目に付くのは被害者意識だが、これにも日本語には大変奇妙で便利な「迷惑・被害の受身」があり、「議長に選ばれた」「蚊に刺された」という本来の受身のほかに、「誰かがある行為をしたことで、私は迷惑・被害を受けている」ことを受身で表現することが可能だ。「弟におやつを食べられてしまった」「雨に降られた」が示すように、単に弟がおやつを食べた、雨が降った、だけでなく、それを語る話し手がそれにより蒙った「被害」が表現できる。主体として考え行動する自己はないが、被害の受身を知っている人間は、事態が不利に動くと、自分がなにをしたからだという反省や自己批判は皆無で「~をしてもらえなかった」「~をやられた」という被害者意識に陥りやすい。フクシマの人災は、被害を最小に抑えるどころか、あらゆる形で広げてしまっているのに、まともな釈明も、情報の全面公開もしない東電・政府には、加害者としての意識は微塵もない。彼らは「地震・津波の被害者」になりきっているのだ。

日本人と仕事をする西洋人は、日本人とは話をしても必ず「持ち帰って」根回ししてコンセンサスを見つけなければいけないから、その場で結論が出ない、とよく嘆く。日本では誰も「決断者」「責任者」として言動せず、あたかも「全体からそうなるべくして結論が生まれてきた」かのように見せなければいけない。だから個人の意見は出てこないし、あってもいけない、顔なし人間ばかりだ。急に東電の役員や政治家が今こうなったわけではない。もともと責任を転嫁し、曖昧にして回避することが可能なシステムなのだ。

日本人は裕仁の戦争責任を追及するどころか、崇拝を続けてきた国民だ。天皇は言うまでもなく尊敬語の最上級だ。ありがたすぎて(?)なにも自分の手では行えない(させてもらえぬ)赤子である。それが情けない国の象徴だが、憤るべき対象は、その象徴を、都合よく国民を操る手段とし、細部に至るまで技巧を凝らして甘い蜜を吸える社会構造を作り上げてきた陰の権力者たちだ。戦後から60年以上経つが、歴史から何も学ばなかったどころか、戦時中の全体主義、思想管理、報道規制、無寛容な隣組的管理社会が戻ってきている。大気、土壌、海、地下水が汚染され収拾の見込みもなく、子供にすら被爆を「大丈夫」と強要する国民見殺し国家の正体が明らかになった今、一刻の猶予もない。対等な相手が向かい合える、余計な尊敬語は省いて直接意見を交換し、理解・説明・分析・批判・議論が普通にできる言語に、日本語を変えていかなければならない。「しょうがない」と思えば、この体制を肯定し、加害者側に加担するのと同じである。このままでは日本は、安心してものを食べ、水を飲み、外で遊ぶこともできない汚染列島として一途に破滅へ向かう。今すぐに食い止め、救えるものを救っていくしかない。

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