2012年2月21日火曜日

Harald Welzerとのインタビュー

Wir sind nicht nett:
基金「FuturZwei(未来形その2、とでも訳すか)
新設した社会心理学者Harald Welzer
(ハラルド・ヴェルツァー)とのインタビュー
(Die Zeit紙、2012年1月19日号)

現在の資本主義の成れの果てにあって、これではいけない、別の方法、別の未来のあり方、別の共存の道を探さなければいけないと思っている人はたくさんいるはずである。このツァイト紙の記事を読んだとき、これも一つの試みである、と思えた。日本でも「しょうがない」という表現に表されるように、仲間うちで文句を言い合うだけで、失望して諦め、積極的な抵抗やオルタナティブな試みをせずにメインストリームに結局は呑まれていく人たちが多いと思う。それは、しかし日本だけのことではない。どういうあり方が可能か、大多数の人を説得できるだけの答えはまだ見つかっていないかもしれないが、ただ手をこまねいているだけでなく、できるところから「実行」している人たちは確かにいる。そうした例として、このインタビュー記事も訳したいと思った。「私たちは社会に対してボトルメールを出すのだ」という発言は、とても気に入った。
もう一つ面白いのは、このインタビューをしたツァイトの聞き手(Christiane GrefeとElisabeth von Thadden)がかなりシビアで辛辣なつっこみで質問をしていることだ。そして当然ながら、ヴェルツァー氏もその懐疑的な質問に真っ当から答えている。記者がこういうつっこみができ、またそれにまっすぐ回答できる人間がいるというだけで、当たり前なことではありながら、ドイツと日本の、言語を媒介とした人間同士のコミュニケーションの違いを感じてしまう。こういうインタビュー記事を日本で読むことはないように思う。
(ゆう)


あと数日もすれば、この新しい試みが始まる。大災害のニュースを、ほかの話で対抗していくという試みである。つまり、すでに別の生き方を、未来のあり方に充分対応できる生き方をすでに始めている人物に関する話をもって、対抗しようというのだ。2月1日にベルリンで新設される基金Futurzwei がインターネット公開される。この基金を発明したのは著名な社会心理学者であり、これまでに気候変動について多数の著書を発表してきたHarald Welzer氏だ。彼は自分のプレイグランドを替えようというのだろうか。

ツァイト:社会学者であるヴェルツァー氏はこれで実践的になって、この世にFuturzweiというプロジェクトを産み出そうというわけですね。どうしてこう複雑なんでしょうか、なぜ未来を単に未来と呼ぶことができないのでしょうか?

ハラルド・ヴェルツァー:この未来形という文法の時制は、すばらしい技が可能でしてね、想像上の未来を過去のものとして捉え、現在の時点でこう言うことが可能だからです、「我々はなにかをし終えているであろう」と。私たちの基金は、未来を違う風に築いていきたいという野心を持っています、それは、浪費とゴミや汚染物生産の現在の文化に未来があるとは思えないからです。


ツァイト:では基金Futurzweiはこの文化にどうやって対抗するつもりですか?

ヴェルツァー:社会心理学から学んだことは、知識と認識だけでは、日常の私たちの手段やインフラストラクチャーを変えることはできない、ということです。実際の行動の変化にあたり最強の要素はその実践そのものだということがわかっています。今のような社会では、実にたくさんの自由が与えられていますが、同時に別の、長期に渡って続く現実を探る実験室もたくさんあります。たとえば、もう成長しない企業を実践している人がいます。二人の若いベルリンのモード・デザイナーが古着を新しい洋服に仕立て直しているという例もあれば、隣近所に住む住民のグループが、ゲリラ・ガーデンというのを栽培していたりします。こういう例が成功すれば逸話として話したりするわけですが、私たちはこれをもっと強力に目に留まるようにしていきたい。それを「未来のアーカイブ」でオンラインで伝えていきたいと思うのです。

ツァイト:それでは新聞とか、またはよりよい人生のための説明書のようなものを想像すればいいのでしょうか?

ヴェルツァー:そのどちらでもありません。私たちはただ、いわゆる前駆者「ファースト・ムーヴァー」の人物描写をするというか、古い言い方で言うと、単に「手本」となる人物を紹介したいのです。誰でも、こういう人たちを真似していくことができる、と。

ツァイト:どのような基準からそういう逸話を探すのですか?

ヴェルツァー:私たちが照会する人物は皆、なにか予想していなかったことをしています。こんなにもたくさんのゴミ、汚染、不公平を世の中に送り出していること自体は、私たちは誰でもよくないと思っている。しかし、ほとんどの場合、その不満は誰かにぶちまけることで済ませているのが実情です。Futurzweiは「私はこれからはそれをやめて、こうしていく」と言っている人たちに注目するのです。それはまったく簡単なことではない。予想できること、と言うのは、誰でもしていることをすることであり、それから逸脱することではない。例えばシェーナウのスラデック夫妻の場合がそうです。医者のご主人と小学校の先生である奥さんがある日、グリーンのエネルギー企業を設立したのです。

ツァイト:でもそれは今や珍しいことではありません。あなた方のは例えばドイツの環境基金やユートピアのウェブサイトとどこが違うのでしょう?

ヴェルツァー:私たちは具体化され複雑になりすぎた宇宙に、なにかが変わっていくかどうかさえわからぬ状態で、何か別のものを加えていきたいと思っているのです。つまり、ストーリーを伝えたいのです。私たちはそうしたストーリーを、古典的な構造で、つまり始まりがあって中間部分があり、それから結末がある話を語っていきます。はじめはこう思っていたが、次にこういうことが起きたので、このことがわかり、今はそれでこのように行動している、というそういうパターンに沿ったストーリーです。こうした話は説得力があります。こういう話を媒体にして、人はただ無力感に圧倒されている者としてではなく、行動する者として人間を捉えることができる。それでも、最終的にはこれもグルメ・ガイドと同じようにしか機能できないのです。つまり、料理がうまいところは繁盛する、まずいところには人は入らない、というね。

ツァイト:ケストナー式に自由に質問させていただくとすれば、それではネガティブなものはどこに追いやられるんですか?本当にいい話というのは、サスペンスや驚き、相反する感情などがあい混じっているからこそ人の心を打つし、考えを変えることもできるわけです。なにからなにまで善、というのは信じられないものです。

ヴェルツァー:そこにFuturzweiの問題も含まれていると思います。つまり、マーガリンのコマーシャルのようにいつも緑で、太陽が輝いていて風車がのどかに回り、子供たちが遊んでいる、というような未来を想像しがちだ、ということです。しかし、私たちはそんなに善良ではない。失敗もすればあらゆる抵抗を克服せねばならず、しかも、いいプロジェクトを起こしている人が、実はすごく感じの悪い人間だったりする。私たちはですから、持続的な目標が普通の人間に到達できないものだという印象は与えたくないのです。

ツァイト:持続的とい言葉はニュートラルな価値ではなくなっていますよね、SPD (ドイツ社会党)がいう持続的という意味は、産業連盟や自然保護連合が語るのとはまったく違います。あなた方の選択には、どのような社会像が背後にあるのでしょうか?ストーリーを語っていきたいのですか、それとも、ご自身がストーリーになりたいのですか?

ヴェルツァー:これまではストーリーを集めることに集中してきました。しかし、希望というのはそれぞれのストーリーに自分たちが付け加えていくものでしょう。私たちは、西洋の資本主義的社会が語り続けてきた、このなんとも途方のなく強い、消費・成長・裕福中心のストーリーに抵抗するストーリーを、目に見えるようにしていきたいのです。私たちのユートピアとは、まだ存在するかどうかすらわかっていない未来のあり方を求めていく社会的な動き、運動を推進する広告代理店になることです。それがうまくいったなら、幸せになれるだろう、ということをです。

ツァイト:それはつい最近ジャーナリストのロジャー・ヴィレムゼンが奨励した「反パブリック/Counter-public」に似ているように聞こえます(*訳注:これはGegenöffentlichkeitとドイツ語で呼ぶもので、一般のマスメディアに出てこない情報やメソッドに関するメディアであり、それは情報内容も指すが、同時にそのメディアの受け取り対象も指すことがある。この言葉は68年代の学生運動の頃から、オルタナティブな新聞や情報交換を示すものとして定着した)。あなたが語ろうとするストーリーだって、結局はメディアにたどり着くんではないですか?

ヴェルツァー:持続性をテーマにしたものは確かに大きく扱われているようです、しかも、あまり人をその気にさせないようなやり方でね。脅威的な、しかしごく抽象的で、遠方の異国から来る災害の話、たとえば氷河が融けだしたとかアジアの異常気候だとか、そういう話ばかり聞かされる一方で、よくわからない方法で算出されたラベルやカーボンフットプリントなどの話で戸惑わされています。

ツァイト:どのような人たちをターゲットグループとしているんですか?

ヴェルツァー:誰もターゲットにしていません。私たちは社会にボトルメールを送り出すだけです。私たちの基準は必然性、それだけです。たった3人の人が興味を持とうが、300人あるいは3万人の人が興味を持とうが、それはとりあえずどうだっていい。

ツァイト:インテリはこうして、夢想していたことを行動に起こす、というわけですか?

ヴェルツァー:私たちが紹介した女性の一人がある日決心して始めたように、たとえばビート(赤カブ)から洗剤を作り出す気は私にはありません。私はFuturZweiをどちらかといえば自分自身の行動における自由裁量の余地を変えるものとして捉えています。でも、私は自分ができるところでしかしません。

ツァイト:あなたがサポートなさろうとしているのは、国会外の野党、という感じがします。しかし、私たちが必要としているのは、それより長期に渡って政治的な大枠の条件を勝ち取っていくような政治家ではないでしょうか? 例えば、再生可能なエネルギー法がなければ、あなたが紹介なさっている手本となる人々が強くなることもなかったでしょう。

ヴェルツァー:政党のイニシアティブは確かに私たちのところでは取り上げられません。しかし、だからといってそれが必要ない、と言っているわけではありません。必要なのは相互作用であって、競争ではない。私たちは分業という意味で国会外の仕事を強調しますが、Futurzweiはナイーブなレベルに留まって、草の根レベルでしか行動できない、とは言いたくありません。

ツァイト:あなた方は確かに、政党や国会、環境庁などの緩慢な公共機関の関門を長々と潜り抜けて闘っていくのに比べて、ずっとセクシーであるとされていると思います。あなたもデジタルですばやい「これだってできるじゃないか」という方法のほうが面白い、と思っているということはありますか?

ヴェルツァー:それは趣味の問題でしょう。私自身は政治のあの気の長い道のりを行きたいとは思ったことがありません。

ツァイト:それは分析の問題でもあります。国会の外でできることはたくさんありますが、政党には人物が不足しています。

ヴェルツァー:私が耐えられないのは、消費の全体主義です。これは決定的な誤りで、取り返しのつかない結果を生むと私は思っています。消費ばかりの文化に対し異議を唱え抵抗していく勢力こそ今、欠けているものだと私は思うのです。

ツァイト:あなたはインテリに対し、環境危機や金融危機の陥っている状況をただ傍観しているだけだと非難なさっています。でも、それはもっとひどいんではないでしょうか? 70年代から、ことにチェルノブイリ以来、より民主主義で、より活発な場がどんどんできあがってくるのを見てきました、町で、村で、そしてそうしたオルタナティブなあり方が、インテリなしでも成長できなくてはならない、ということをこそ、見てきたのではないでしょうか。

ヴェルツァー:ええ、そのとおりです。それと同じことを私もついこの間民主主義を危機に晒すものという内容の催しで、自分に対して言ったばかりです。私の現在の批判は、人文・文化・社会学者にはっきりと向けられています。そして、彼らからから来るものはほとんど何もない、という自分の彼らに対する非難を持ち続けることになるでしょう。これだけたくさんのことが、もうこれだけ長い間、なにも予測できないというほどに変革にある、という社会の局面にあって、彼らのような解釈や予測をするべきエリートは、ただ沈黙しているばかりです。

ツァイト:でも、ダニエル・カーネマン、マルタ・ヌスバウム、アマルティア・セン、エヴァ・イルース、ジュリエット・ショールなどの社会学者、哲学者、心理学者、つまりあなたのような人物こそが、論争を進めてきたではありませんか!

ヴェルツァー:それはそうです。しかし、普通の大学を見てみてください!ユーロ危機に関する、外部にも誇れるような面白い催し物はこれまでに1回としてもたれたことがありません。気候変動に対する文化学的展望もまして変化の可能性を探るような社会分析の兆しすら、見られません。

ツァイト:ではもう一度伺います。金融危機やフクシマが起こる前にすでに、アタックやBUND(ドイツ環境自然保護連盟)、あるいはCSU(ドイツキリスト教社会同盟、CDUの姉妹政党で、バイエルン州にしかない)の市長数人が、インテリや学者からの批判的なサポートがなさすぎることを嘆いていました。接触することに対する不安、というようなものがあるのでしょうか?

ヴェルツァー:先ほど申し上げたような大学での「静寂主義」にもその罪の一端があると思います。これは1989年(*訳注・壁崩壊の年)、つまり、誰も予測しなかった、しかも管轄の学問分野はなおのこと想像もできなかったような画期的な事件が起こってしまったという底の深い侮辱感と関係があります。そして、割に合わない損害ばかりの資本主義の勝利のあと、分析的な道具がどれも使い古して役に立たなくなったことが、さらに事態を悪化したと思います。大学の講義目録がどのように変化したか、観察することができました。マルクスから、マックス・ヴェーバーへと変わったのです。同時に、さらに新しい科学的エソテリック的陶酔状態に、自分自身を失ってきたのです。現在の感覚がしっかりあるセンシティブな社会学はまったく認められませんでした。

ツァイト:それでご自身は科学に背を向けて、契約を破棄されたのですか?

ヴェルツァー:私は、その前にまず自分の懐疑、疑問を研究や執筆した本の中で充分に表現したことを望みます。でも、私はあることを「一生続けて」やるのは苦手です。

ツァイト:それではあまりにも主観的な印象を受けますよ、当紙に「Schluss mit nutzlos!(無用でいるのはやめよう!)」という題で、人文科学者たちは具体的な利用価値から離れた啓蒙家のような顔をするのはいい加減にやめろ、という記事を書かれたではないですか。

ヴェルツァー:欠けているのは、知識を伝達するための出口です。それでこれまで、かなりグロテスクな様子を帯びてきました。例えば、ある学者のグループが会議を開催すると、何百人という学者が、どうやったら人間が飛行機に乗らないようになるか、ということを話し合うために、遠くからわざわざ飛行機で飛んでくる、そういうのはまったく奇妙なことです。もちろん、ノルベルト・エリアスのような学者もいて、ずっとストイックに自分のテーマで研究を続け、しっかりした結果をもたらしているケースだってあります。それだって手本であることに違いなく、それを思うと鳥肌が立つほどです。しかし、それは私のやり方ではない。もしかしたら私はナルシストで、早撃ち、すぐに結果が出る急ぎの仕事を必要としているのかもしれません。

ツァイト:先日ベルリンで、専門家支配と金融市場による「民主主義に対する攻撃」に抵抗するため、インテリ10人を呼び集められましたね。こうしたイニシアティブも早撃ちということになるんでしょうか? 1回きりの呼びかけ、それともこれからも続いていくものになるのでしょうか?

ヴェルツァー:あれは確かにとっさ的な行動でしたが、それでもこれからも続いていくものとなれるようです。映画監督のロムアルド・カルナカルがこの第1回の催しを撮影したドキュメントリー映画をつくって今度のベルリナーレで発表することになっています。Futurzweiはそのためにお金を助成することにしています。

ツァイト:お金という言葉が出たところで伺います。お金はどこから集まっているのですか?

ヴェルツァー:個人の後援者がいます。以前派遣会社を経営していた夫婦です。Futurzwei基金は、彼らのお蔭で小さい編集チームを雇うことができています。

ツァイト:そのお金がどのように得られたお金か、ということはあなたにとって重要でしたか?

ヴェルツァー:ええ、Heckler & Kochやその他の、胡散臭い商売をグリーンウォッシングで誤魔化そうとしている企業をスポンサーにするなら、Futurzweiは始まらなかったでしょう。

ツァイト:では誰もFuturzweiに興味を持たなければ、そのうちまたやめてしまうわけですか?

ヴェルツァー:そのとおりです。そうしたら「じゃあ、これで終わり」と言おうと思います。でも、それであっても、試してみたのはよかった、というのは残ります。試みてみた、ということが言える。未来形その2があるほうが、どう考えてみてもいいのです。

ウェブサイト:futurzwei.org

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