2012年6月22日金曜日

【書評】小沢節子 著『第五福竜丸から「3・11」後へ』


『第五福竜丸から「3・11」後へ──被爆者 大石又七の旅路
小沢節子 著/岩波ブックレット820/500円+税

どこの発想か、人びとの目から逸らそう、消そうとしてきたビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による「第五福竜丸」の被爆事件のことが、フクシマ以来、メディアに散見するようになった。この小冊子も岩波書店から10月下旬にだされたもの。

1954年3月1日に焼津のマグロ漁船第五福竜丸は、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカがおこなった水爆実験に遭遇、乗組員全員の23人が被爆した。何も知らないで「死の灰」を浴びたのだ。9月に無線長の久保山さんが亡くなった。あとの人たちもきつい症状の後遺症に苦しんだ。そのときの大量の輸血に因って肝臓障害を背負い、皆、生涯長く苦しみと闘うことになるのだ。

事件のあと、全国的に「原水爆禁止運動」が拡がりをみせていくことに危機感をもった政府は、僅かな見舞金で「決着」宣言をする。「平和のための原子力」という米国の核戦略に応えて、原子力発電の導入に突き進んで行ったのだ。

20歳の若さで被爆した大石又七さんは、受け取った200万円の見舞金で周囲から嫉視され、故郷を離れ、東京でクリーニング店を持つ。忘れたい記憶を封じ込めるように働いてゆく。68年に「第五福竜丸」が廃船になるという記事を見て、夢の島に舟を見に行った時から気持ちに変化が生じ、重い口を開き始めたという。『死の灰を背負って』『ビキニ事件の真実』『これだけは伝えておきたい』『矛盾』と4冊の著書も発表した。

大石さんはC型肝炎で苦しんできた。1957年に設立された「放射線医学総合研究所」(放医研)で年に一度の入院検査を続けた。しかし、長年の検査結果が研究データとして保存されるだけで、明らかになった事実が当事者たちには知らされなかったのだ。ヒロシマのABCCのやりくちを思い出さずにはいられない。放医研の人が久保山さんの死を「放射線被爆による影響だと決めるには医学的データが足りない」として、大石さんたちを「モルモット扱い」してきたこと、「10人の仲間も、放医研ではすべて分かっていながら手当もされずに死んでいったのでは」と不信感を募らせ、関わりをやめている。

大石さんは闘病中にもかかわらず、2011年には「核不拡散条約」運用会議に合わせてニューヨークにまで行き、夫人と二人で第五福竜丸の大漁旗を掲げて反核パレードをしたとか。52年間続けたクリーニング店を閉じ、講演と執筆活動に専念されている。

ブックレットは薄い冊子であるが、事件の経過、大石さんの辿った道がコンパクトにまとめられている。いつのまにか、この事件の記憶が薄れてきているが、これは原子力を利用の陰謀を暴いていくためには決して忘れてはならないポイントだ。フクシマの今後をも予想するための入り口の一つなので、大石さんの著書を読み、関連図書を読み込み、あの事件の真相に肉薄し、全原発廃炉への決意を固めたい。
(凉)
『反「改憲」運動通信』第7期14号(2011年12月21日発行、通巻158号)

0 件のコメント:

コメントを投稿