2012年11月19日月曜日

回答ばかりでなく責任ある行動を


回答ばかりでなく責任ある行動を
学術専門家・研究者にもっと持続性に対し意欲を燃やすようにとの批判が増えている。科学年では、さまざまな意見が対立した(ドイツの連邦教育・研究省が2000年来テーマを決めて、学術専門家・研究者と一般の交流を深めるため催す企画。2012年のテーマは「未来プロジェクト・地球」だった)。Christiane  Grefe報告
ツァイト紙2012年10月25日付
Verantworten statt antworten

タイトルはちょっとした言葉の遊びとなっている。Antwortenという動詞は「答える、回答する」で、それに「Ver」という前つづりをつけると、Verantwortenという「責任を負う」「責任をもって行動する」という動詞になる。要するに、ああいえばこういう、というごまかしの答えばかりして人を煙に巻かず、しっかり責任を取れよ!ということで、それは日本のいわゆる「その道の専門家」諸君に言いたいことではないか。持続性、という言葉が言い出されてから久しいが、(地球上で一握りの)人間は、過去数十年の間に、自然環境を猛スピードで荒廃させ、毒を撒き散らし、生命を脅かし、遺伝子まで組み替え、はては細かい網の目を駆使した複雑なシステムを世界中に張りめぐらせて甘い汁を吸い、その他の(99%?)人間たちはそこから身動き取れずに数十年のあらゆる「毒」の後遺症に喘いでいる、というのが実際の姿だ。先日、フランスとドイツの共同テレビ番組ARTEで報道された番組を見たが、それは世界中でその「毒撒き散らし」システムに対抗し、地道に、しかし確実に、しかも成功しながら真の「持続性」を実践している人たちの紹介だった。ここでは日本の「提携」システムが画期的な方法として、世界でもどんどん真似され始めていると、紹介されていた。原発は「トイレのないマンション」と呼ばれることになっているが、私はこの表現が好きではない。トイレがなくては困るのは確かだが、ほんとうに私たちが出す糞尿だけなら、生分解性だし、何にも残らないだけでなく、むしろバイオガスにも、肥やしにもなりうる。原発の出す猛毒をそんなものと比較してはいけないではないか。原発は「反持続性」の一番トップに来るものだ。しかし、人間・動物・自然環境を脅かしているのは、残念ながらそれだけではない。人間らしい、地に足のついた自然に優しい営みを取り戻していくために、やらなければいけないことは途方もなく大きい。それは、私たちがここ数十年やってきたことの大きなツケだ。個人が、自分のできることから始めていくしかない。「安価」を求め、「目先のこと」しか考えないのはもはや、無責任以上の大きな「罪」なことであり、さらに大きな、取り返しのつかないツケを次の世代に回していくことだと自覚しなければいけない。持続性に関しては、私たちもあまりに「便利」な生活に浸っていて、気づかずにおろそかにしていることがたくさんある。それで、どんなことがいわゆる学者たち、学会への批判として取り上げられているか知るために、この記事を訳すことにした。ここで取り上げられて3つの批判は、日本にもそのまま当てはまる。経済界からの大学への資金の流れをどうにか変革しなければ、いつまでたっても学界は経済の言いなりでいわゆる「御用学者」ばかりを生むことになる。変えていかなければいけないことばかりだが、それも今までの「ツケ」というわけだろう。(ゆう)
本文はこちら:http://www.zeit.de/2012/44/Nachhaltigkeit-Zukunftsprojekt-Erde-Wissenschaftsjahr

ウィリアム・クラークはある「出世」の記録を見せた。過去30年の間に学術文献の中で「持続性」というテーマがどれだけなじみ、使用されてきたかを、パワーポイントの急上昇の線グラフが、示している。ハーバード大学で持続性科学を専門とする教授である彼は、こう皮肉る。「今に、この言葉はほかのどの単語も追いやってしまうでしょうね!」しかし、この皮肉の言葉が内に秘めているものは、ジョーク以上のものだ。ここには致命的なパラドックスがほのめかされているからである。

金融危機、天然資源の欠乏、気候変動にもう疑問の余地がないことはわかった。未来の世代が、それでも充分に水、裕福な生活、土、教育があてにできるようにするには、生活も経済も決定的に変わらなければいけない。しかし、すると今度は農業担当の政治家が、地元では「持続性」の名のもと、土を大切に扱うことが大切、などと述べておきながら、同時に、別の大陸を訪れては、何百万ヘクタールもの土地で燃料や家畜のえさ用にモノカルチャーを当然のように要求する。都市で菜園を営む人たちが柵で囲われていない土地で野生の種をいろいろ育てている同じ場所で、経済界の人間が熱心に、数少なく残った最後の土地をコンクリートで固めていく。あらゆる都市の市庁舎、国連会議、企業、大学などでの討論はどうやら、次のことしかもたらさなかったのではないか。「信憑性の問題」である。つまり、持続性とは中身のない空っぽな決まり文句になってしまったのだ。

これは単に政治的配慮が足りないからだけだろうか?それとも、学界も問題の一部なのだろうか?なぜ学者たちにはこうした矛盾が解明できなかったのか?こうした疑問をめぐり、教育研究省主催の科学年「未来プロジェクト・地球」で多数のディスカッションが行われたが、その中で意味のある激論が交わされた。テーマの核心は、昔からある利害対立だ。つまり、社会的責任と学界の自由という対立である。

研究で世界を細かく解体するあまり、相互関連が見えなくなる

活発な議論をもたらしたのは、実は学界の外にいる批判者たちである。これは環境保護団体や教会から、財団法人、労働組合にまで及ぶ。しかしドイツのユネスコ委員会も一緒に議論を戦わせているし、環境研究所、研究所や小さい大学が集まって新しく設立し持続性科学同盟(NaWis)も議論に参加している。彼らは共同で「ベルリン・プラットフォーム」をつくっているのだ。10月末に彼らはまた会合することになっているが、核を成しているテーゼはこうである。「研究と学問は世界をあまりに細かい部分に解体しすぎて、相互関連が見えなくなっている」というものだ。だから農業転換、エネルギー転換、モビリティ変換などに対してこれだけたくさんの提案が出されながら、複雑な現実に対応できないのだ、と。


批判者たちがことにここで挙げるのが3つの原因である。1つ目は、学者たちは自分たちが存在する社会にあまりに興味がなさ過ぎる、ということだ。これは今では社会学者に対してすら当てはまる、と彼らは言う。60年代に社会が目覚しく変化した時には、社会学者たちが大きな役割を果たしていたことを思うと、大きな違いである。大学は「科学の長い夜」やその他のイベントを催して市民たちに触角を伸ばし近づこうとしているのは悪くはないが、これは市民の批判的な議論に身をさらそうという試みではなく、むしろ自己演出の感が強い、と批判者たちは言う。学者たちの独自の研究の結果については、組織的に捉えられることが少ない。

例を挙げよう。燃料E10は、二酸化炭素消費をあまり削減することなく生態系の荒廃を引き起こすことがわかっているが、この燃料を市民は初めから好んでいなかった。数週間前に、高名なドイツ国立学術アカデミー・レオポルディーナが、このバイオマスを厳しく、細かい点にわたって批判した。2006年に政策決定がなされたときには、名のある研究者から批判的な声は1つも聞こえなかった。しかし、燃費の少ない車を開発しなくてもいいように、石油産業や自動車産業が燃料へのエタノール混合を義務付け、これにより畑で取れるエタノールを大量生産するという致命的な論理を押し通した時点で、これがもたらす結果は当時も十分予測可能だったはずである。

「学界はあまりに視野が狭すぎた」と断定するのは、エタノール過剰の国、米国の持続性研究家ウィリアム・クラーク氏だ。そこで批判者たちは第2の原因をここで挙げることとなる。専門分野で、部分的な特殊な観点だけをどんどん狭く取り上げ、そこばかり集中して研究する、というものだ。学界で一目を置かれるための法則が、分野を超えた交流、共同作業を妨げている、というのが彼らの批判である。確かに、E10は技術者と農園所有者たちのプロジェクトだった。このプロジェクトはしかし、初めから、例えば農業社会学者や発展開発専門家の意見を聞いていたら、生まれなかっただろう。しかし、ドイツ学術振興会(DFG)の支援金を取ってみても、各教授を格付けしたり招聘したりする条件をとっても、専門誌への投稿条件をとっても、高い確率で報いが与えられるのは、狭い特殊分野の高度な業績であり、複数の分野をまたがっておこなわれるプロジェクトはまだ極めて少ないのが現状だ。

3つ目の非難はこうだ。なにをどのように研究するかについて、産業界があまりに影響を与えすぎている、という点である。例えば、ドイツ政府の協議委員会である「経済・学界研究連合」ではこれまで、大学の教授よりもBASFやダイムラー、E.onなどの企業の専門家の方が数多く議論を重ねてきた、と自然保護団体Nabuのシュテフィ・オーバー氏は語る。その他の社会組織は、それらの経験、見解、提案などをまったく顧みられないできた。それに加え、大学の資金は、その予算のほぼ4分の1が第3者からの融資に依存している。約20パーセントが経済界から直接来ている。大企業は公的なプログラムのかなりの部分において口を挟んでいる。

シュテフィ・オーバー氏は、これらすべてが揃って、持続性の果たす役割が製品開発よりも小さく留まる事実を強化しているのだ、という。Nabuのスポークスマンである彼女は、彼女が怒りを隠すことができない例を挙げた。ドイツ連邦交通省は、電気モビリティのプログラムで公金を370万ユーロをポルシェに与えた。電気エンジンを搭載したボクスターのスポーツカーが5.5秒間以内に0から100キロのスピードを出せるように、である。電気自動車でもこれだけスピードが出せるという経験をポルシェではほかの車種にも用いてきたい、とポルシェは言っているが、オーバー氏は別のプライオリティを要求している。「なぜ公金を出資する人たちは別のモビリティ・コンセプトの開発を優先しないのでしょう?」

気候・環境・エネルギーのためのヴッパータール研究所所長のウーヴェ・シュナイデヴィント氏も、このような「テクノロジー固定観念」を批判している。このようなイノベーションは重要かもしれないが、限られたものでしかない。ことに、いわゆる「リバウンド効果」が懸念されるからである。実際に、エンジニアたちは数十年以来、車、冷蔵庫、はたまた飛行機まで、より燃費・電力消費の少ないものを開発してきた。しかし、もっとモビリティの優れたもの、もっと電気消費の高い電気製品が新しく市場に出てきて、せっかくの節約を水泡に帰してしまってきた。持続性というのは、社会的イノベーションが技術的イノベーションを補足して初めて、達成できるのだ、とシュナイデヴィント氏は結論付ける。

政治と経済に続いて学界も「社会参加」を学ぶべきだ

不足しているのは、次のことだ。カーシェアリング、共同のエネルギープロジェクト、または長期間の使用に耐える物資の利用に対する効果的な刺激については、あまりに研究が不足している。例えば、ドイツ連邦政府のエネルギー研究では、支援金のうちたった1%しか社会学分野に流れていない。教育研究省が社会生態学研究に出そうとしている金額も、かなり小さい。この社会生態学研究基金(SÖF)と名付けられたプログラムの資金を使って、CDU・FDP連合政府が導入しようとしているエネルギー転換政策よりずっと前から、複数のエコロジー研究所は風力、バイオガス、太陽エネルギーと使った地方エネルギー供給網の開発で市民や地方自治体などを援助してきた。この実践との密な情報交換こそ、新しく得た知識を実行に移し、そして変化を導いていくものとなる可能性が高い。しかし、SÖFはこれまで、1年に、ようやく1千万ユーロを超える額しか得ていない。連邦政府のバイオ経済戦略だけでも、4億ユーロを貰っているというのに、である。政府はハイテクにばかり力を入れている ── もちろん、持続性の名のもとに、である。それはそうに違いない、公金をめぐる競争は論争の後ろにも隠れている。

それに続き、持続性を封鎖するものとして環境と自然保護連盟(BUND)が批判しているのは、体系的な思考を促進するはずの学問分野が「絶滅の危機にある」ことである。例えば、地域環境における生態系の相互作用が研究されていたランドスケープエコロジーは、なくなってしまった。自然保護やエコロジックな栽培のための戦略を考えていくためには、重要な学問分野となってふさわしかったにもかかわらず、である。その代わりにマイクロバイオロジーが増設された、と謳っているのは「持続的科学」の但し書きで、ここでのハイテク調査により、商品化できる種苗、薬品または診断テストが期待できる、としている。毒理学やその他のリスク研究、農業社会学、経済史なども「絶滅が懸念される」種に属するという。

「学問は『共和主義的』になる必要がある」と語るのは、ドイツ学者連合のシュテファン・アルブレヒト氏である。将来は、市民、国会議員、職業連盟代表者がもっと協議委員会に口を挟めるようにならなければいけない、とシュテフィ・オーバー氏も言う。「オキュパイ・研究」である。彼女がベルリンでコーディネートしている、研究に批判的なプラットフォームはリキッド・デモクラシー(訳注・海賊党が始めた、市民が直接参加して決断をしていく『液体デモクラシー』、インターネットを通じ、政策などに関与できる)のホームページを企画中だ。

本来なら政治や経済がもうずっと以前に言い始めていなければならなかったはずの「もっと社会参加」の呼びかけは、学界にも届き始めた。そして、この呼びかけは、研究の方向に関する決定だけでなく、その方法に関しても向けられている。この新ロビーであるプラットフォームは、「分野を股にかけた研究」を支援し、消費者、マネージャー、政治家や農業経営者たちの意図、経験、アイディアを研究プロセスに取り入れていきたい考えである。

そして「システム」自体は、これらの批判にどう反応しているのだろうか? 各省、研究共同体、大学経営者たちは、本当に持続性という言葉だけでなく行動に移するのをためらっているのだろうか? そんなことはない、と連邦教育研究省で未来への備えと持続性の部長であるカール=オイゲン・フットマッハー氏は言う。彼の目には、学界に対立していた人たちにとって道はもうすでに大きく開かれているそうだ。

もちろん、新しいテクノロジー開発は今後も常に重要な位置を占めていくに違いない、と彼は言う。それはドイツが経済を輸出に頼っていることからして当然である。しかし、SÖFの新賦課金をとっても、持続性研究プログラム(FONA)、エネルギー研究や、地方の持続的な都市型発展を研究する「明日の都市」プログラムをとっても、次の点は確かだという。つまり、専門的な重点は以前のように密室で隠れて交渉されるのではなく、公の「アジェンダ・プロセス」で行われている、とフットマッハー氏は協調する。この終日をかけて行われる会議では、どんな専門家も、あるいはどんな申請希望者も一緒に話し合うことができるという。だからBMBFの専門家も、「経済が必ず優先される」というNGOの批判はもう遅れている、というのだと。

ドイツ研究共同体(DFG)の代表も、こうした批判をはねつけている。「私たちは持続性にまつわる幅の広いプログラムを促進しています」とマティアス・クライナー氏は語る。DFGでは、学者自身が申請の判断をし、その決断プロセスでは、特殊の方法が降りに扱われるということは決してないという。「ある単一の専門分野内に限られたものであれ、分野間での交流があるものであれ、分野を超えたものであれ、優れたものであればいいのです」と。

しかし、分野の間で相互関係をもつプロジェクトを審査するのは確かに難しい、とクライナー氏は認めている。審査には専門知識を代表する者が加わっていないといけない。でないと個々の参加する専門分野の品質が劣ってしまう可能性があるからだ。DFGの会長は、批判者たちの要求をすぐさまはねつけている。持続性を上位概念の条件として受け入れるわけにはいかない、というのである。「基礎研究をしているときに、その結果がどのような方向に発展するかなどということを、誰が始めから言えるでしょうか?」と彼は反論する。

このような留保の背後にあるのは、学者の研究が政治的な道具として利用されるかもしれないという不安だ。「社会的責任」というが、それは、持続性と同じようにかなり曖昧な要求だ、と彼は言う。ミュンヘンの工科大学学長のヴォルフガング・ヘルマン氏は、研究の自由を強調する。研究は「決して政治的教化的な立場から動機付けされてはいけない」し、「遺伝子工学などの特定の技術を悪者に仕立ててもいけない」と彼は言う。

しかし同時に、工科大学の学長は「学術的文化がもっと互いを刺激しあって実を結び、全体的な状況にうまく埋め込まれていく」ことの必要性を強く感じている。例えば、当工科大学は、現在丁度「Munich Center for Technology in Society(社会におけるテクノロジーのためのミュンヒェン・センター)」を新設中だ。ここで学生たちは、分野を超越した思考を学び、インスピレーションが得られるようになってほしいという意図である。チュービンゲンからアーヘンまでそのほかにも各種持続性を求める試みがあったが、批判が多かったにも拘らず、改革は成功している。

ほかにも変動はいろいろある。バーデン・ビュルテンブルク州の科学省は「学問における持続性」をテーマに専門家グループを招聘した。産業界に重点が置かれすぎだと批判を浴びたこの協議委員会バイオエコノミー委員会は、2度目の協議期間に社会的展望というテーマに道を拓いた。威信ある有名な研究センターですら、最近では市民が参加する場合がある、少なくとも「テクノロジー、イノベーション、社会」の研究同盟ではそうである。ここではエネルギー変換という課題は、発電所とケーブルでできあがっているシステムをもっと緑の電線や発電所に置き換えることではなく、「社会技術的に、社会全体を包み込むプロセスとして理解しているのです」とプログラムのスポークスマン、アヒム・グルンヴァルト氏は語る。

批判者にとっては、これだけではもちろん不十分だ。彼らはもっと大学でも新しい思考の取り組みが定着してほしいと願っているし、そのためには、ウーヴェ・シュナイデヴィント氏に言わせれば、「持続性のための科学者協議会」または「持続性ある大学開発のためのセンター」を作らなければならない、という。

曖昧な持続性コンセプトは、実際に実践可能なものにならなければならない

それで彼らは、分野を超越したモデルで作業を始めている。このモデルの先駆者はリューネブルクにあるロイファーナ大学だ。この大学は、6年前から「21世紀の市民社会のための大学」として発展してきている。例えば、ここでダニエル・ラング氏は地方共同体が曖昧な持続性コンセプトを実際に実行に移す際の手助けをしている。新しいマネージメントツールで、あらゆる部署の将来の活動をよりよく把握し、コーディネートし、矛盾する決断を防止できるようにするのである。ここで大切なのは、ラング氏が政治学者であり社会学者であるハラルド・ハインリッヒ氏やその他の分野の専門家たちと共同で働いているだけではないことだ。リューネブルクの持続性担当部長などの実務家やフライブルク出身の彼の同僚などが一緒になって、初めから問題点、計画の目標などを決定している。最終的に彼が目指しているのは、再生可能なエネルギーの新規の電気供給会社も古くからの供給会社もうまくコーディネートすることだ。フライブルク出身の同僚の女性は、持続性政策を金銭的に表現し、それにより審査しやすくするための指数が得られることを期待している。

専門分野を超越して研究を行っている別のパイオニアは、ポツダムにあるInstitute for Advanced Sustainability Studies(IASS)である。ここの研究者たちがことに把握しようとしているのはグローバルな相互関係だ。ここで研究されているのは例えば、世界中で荒廃している土地をどうやったら再生することができるか、二酸化炭素はどこで原料として利用することができるか、どのようなグローバルな政治形式が、変革を「画期的に効果を上げながら」進めていくことができるか、などである。そして常に、全世界から実践者が随行している。

IASSは国連環境計画UNEPの元会長を務めたクラウス・トプファーが設立した。彼は意識して、政治、学問、社会を一緒に集めたかったのだ、と語っている。「あとになって、本来はあれを研究しておくべきだった、と言わずに済むように」。

0 件のコメント:

コメントを投稿