2012年11月21日水曜日

いい人生とはなにか?


いい人生とはなにか? 

いい人生とはなにか? 私もそれを聞きたい。そしてみんなが「自分にとっていい人生とはなにか」考えてほしい。どういうふうに生きたいか? どんなふうに子供たちに育ってほしいか? そういうふうに考える時間を多く持つことによって、リベラルな経済的な考えなどまったく馬鹿げた、非人間的なものであることを自覚するようになれば、少しはましになるのではないか? それとも、そういう私もナイーブなのだろうか? でも、こうした「ナイーブ」な問いかけを、ハーバードの先生もし続け、しかも信奉者が多いということなので、少し安心した。ことに、私がこの記事を読んで感心したのは、「練習と慣れ」の点だ。正義や民主主義も「練習」を積み、慣れていかなければできるようにならない、というのは、まさにそうだ!と思う。それで、この記事を訳した。(ゆう)

いい人生とはなにか?
Was ist ein gutes Leben?
資本主義批判
金がすべてではない。哲学者マイケル・サンデル(Michael Sandel)の新著は、資本主義にモラルによる限界を設定しようと試みる。ハーバードで彼にインタビューした。
エリザベート・フォン・タッデン(Elisabeth von Thadden)報告

ツァイト紙2012年10月25日付

彼は千切れた入場券をまだもっている。ミネソタ・トゥインズがドッジャーズと戦った7度目の野球の試合で、当時12歳だった彼はお父さんの横に座り、ドッジャーズのピッチャー、サンディー・クーファックスがトゥインズを破り、優勝杯を手に入れるのをがっかりして眺めていた。それは1965年のことで、入場券は当時、たった8ドルしかしなかった。今ではトゥインズの試合だと72ドルはする。それも、当時はまだなかったスカイボックスの桟敷席と比べたら、まだ安い方だ。今は金持ちと貧乏人の席は天と地くらいに離れている。そしてミネソタ・トゥインズの花形選手は年間2300万ドル稼ぐ。80年代前半からネオリベラルな数十年を経て、野性剥き出しの市場は、ミネアポリスのこの少年の情熱そのものであったスポーツもまんまと征服した。そのかつての少年が現在、人間を二極に分ける金がもつ力の話を語る。マイケル・サンデルである。

サンデルはとっくに「グラウンド」を替え、今ではハーバード大学で哲学を教えている。彼の正義に関する講義はとても有名で、数年前から世界中の哲学者の中で霊媒能力のあるスーパースターのような扱いを受けている。政治学者たちの部屋があるクネイフェル・ビルの4階で彼はジャケットを脱いで座っているが、決してだからといって貧相には映らない。サンデルはマスコミとの応対に慣れていることを顔に出さない。この日は、窓の外でも伝説的なインディアン・サマーの輝きは灰色の雨を駆逐することはない。サンデルはそこで、アメリカが遅まきながら、どう自分自身を理解するか、という論争をなぜ始めなければいけないか、説明している。

日常のあらゆる場にこうも長く浸透してしまい、モラルの条件まで腑抜けにしてしまった市場の力が、モラリストとしてのサンデルには不安でたまらないという。この市場の力が価値、基準、すべてを変えてしまう、本来なら貴重な大切なものまで、それも気づかないうちに。「市場は、公益を生み出すのに最適の道具だと、今だに考えられている。私が驚かずにいられないのは、金融危機があったにも拘らず、ほとんどなにも変わらなかったことです。過去30年来の市場信仰がもたらしたものは、政治のモラルにおける空洞化で、いい人生とはなにかという課題は、公共の場から駆逐されてしまったのです」。

だからこそマイケル・サンデルは問わずにいられない。社会が例えば子供たちを売り物とみなさない理由の条件を、社会はどう説明するか? 選挙権はどうか、国籍は、あるいは移植できる腎臓はどうだろうか?

不安を感じているのはサンデルだけではない。まるで磁石に引き寄せられるように世界中から学生たちが彼のところにやってきて、彼が出す問いかけから自分の考えの拠り所を見つけようとしている。サンデルの新著「What money can't buy. The moral limits of markets(日本では「それをお金で買いますか - 市場主義の限界」というタイトルで早川書房から出版されている)」は4月以来、ほとんど世界各国で翻訳され出版されている。11月には中国とドイツでも出版される。サンデルは夏学期が終わってから、この本のプロモーションで飛び回っている。彼が話をするところには、学生が大勢集まってくる、ブラジルであろうと、日本であろうと。12月には彼は中国を回る予定だ。

大勢、とは。数週間前、韓国のソウルにある延世(ヨンセ)大学校で行われたサンデルの野外講義には、1万4千人の学生が殺到した。そして哲学者は、一人一人の顔があまりよく見えない聴衆と対話し、市場のモラルによる限界を説いた。明るく、対立する論を持ち出しながら、集中して。これこそサンデルのトレードマークだ。Youtubeのビデオでも、彼が数千人もの聴衆を前に歩き回りながら話すのが見える。「どんな場合に、市場が公益に奉仕し、どんな場合に価値を損なうか見つけ出すには、経済効率を見るだけでは充分ではありません」と、彼はわかりやすい言葉で説明する。するとすぐに例が続く。「あなたは、音楽で大衆を幸福にしている韓国のポップスターが、お金を払って兵役を逃れることができるという法律を許しますか?」10人も手は上がらない。それではその反対はどうか? ほとんど全員が手を上げた。「では理由を述べてください」。マイクが回される。舞台では同時通訳の字幕が流れている。

このメソッドは、サンデルがハーヴァードで学生たちと開発したもので、どんどん問いかけに問いかけを重ね、方法も理論も答えも一つである模型というべき古代のモデルは、ソクラテスがすでに実践している。純粋に答えだけがほしいと思う人は、サンデルに聞いても得られないだろう。大統領選挙戦の真っ只中の、このどんよりと曇った10月のある水曜日、ニューイングランドのケンブリッジにあるハーバード最大の講義用ホールであるサンダーズ・シアターではまたもや実践が続けられていた。1980年以来「Justice」講義は中断することなくずっと行われてきたが、年々聴講者数は増える一方だ。今回は、国家は市民に保険を義務付ける権利があるか、そして国家は、どんな税金を市民から正当なものとして要求することができるか、論議した。

保険、税金。あたかも、アメリカ人の思考には80年代前半から板が溝にはさまったまま取りたくても取れなくなっているかのように、税金の徴収は自由を奪うものと厳しく咎める言葉が何度も何度も繰り返されるが、それはこの講義ホールでも同じだ。この10月の日は夜遅く、これと同じ問いかけをめぐって大統領候補のオバマとロムニーが第1回目のテレビ討論で激論を戦わせることになっている。2週間後に行われたもう少し活気のある第2回目のテレビ討論とは異なり、ここでは彼らはまさにテクノクラートそのものとして硬い表情で数字をやたらに上げながら討論し、まるで政治的理想に関してどころか公益というビジョンなどに関して争点などなく、あるのは計算式のバリエーションだけ、という感じを与えた。ニューヨーカー誌はすぐさまこれを揶揄し、ありがたいことに国民は、この最初のテレビ討論で深い眠りから目を覚まさなかった、と評した。

サンデルにはこれが、ほとんど個人的侮辱のように思えた。と言うのは、理想やアイディアに関する戦いこそまさに、民主主義の核心をなすものであり、困難でとても手間がかかるが、ほかに代用がきかないものであると彼は信じているからだ。だからこそ彼は学生に、この講義時間にも、政治ではほとんど枯渇されたかのように思われるものを味合わせてやろうとする。つまり、いい人生とはどういうものであり得るか、という論争だ。価格ではなくて価値とは何か。サンダーズ・シアターで彼は壇上から聴講生が座っているところに下り、論客者たちにマイクを自ら向けていく。するととたんに彼は、彼の周りに座っている大柄でたくましいスポーツ万能そうな学生たちの間で、小さく、か細く映る。もう数十年も休むことなく、エリートコースを歩む学生たちと仕事をしてきたこの若々しい男性が、突然年取って見え、確かにもう少しで60に手が届きそうな人間であることがわかる。

それでも、そして今こそ、彼は問いかける。国家がなるべく口を挟まないことのほうがいいとするリベラルな考えに反論する論拠を述べよ。まず第一、人間は生まれたときから体の強さが違う、第二、貧しい人のほうが裕福な人間よりずっと緊急にお金が必要である、第三、税金は必要だと民主主義が合意した、第四、裕福な人間が成功したのは社会のお蔭であり、返す義務がある。実は簡単なことだ。どの論拠もサンデルはその根本まで、哲学史にもって行く。それからいろいろな例が吟味される。バスケットボールのスター、マイケル・ジョーダンは自分が稼いだお金を遣って、彼がトレーニングに車で向う車道を自分でつくったか? 車は、バスは? 違う。それでは、何を彼は差し出すべきか? 論拠を上げよ。

彼の新著「それをお金で買いますか - 市場主義の限界」では、計算ずくの「困った」様子を彼は次のように示す。なぜ大学の入学許可は、理想的には購買力でなく、適性能力が決断するべきか? 病院での急患の応急手当では、誰が次に番にあたるかを決めるのは収入ではなくて、緊急の度合いか? ある国家で誰が選挙権を持つかを決定するのは、なぜお金ではないのか?

サンデルはナイーブではない、これらがもうずっと前からすべて「金で買える」ものになっていることは、彼は承知の上である。この本のために彼は綿密に調査し、ある金額を払えば即刻の治療を保証する、と提供する医者のケースを挙げている(彼らは自分の携帯番号を1500から2万5千ドルで売っている)。彼は金で学生証を手に入れた人間のケースも知っているし、ある一定の投資額を払う企業や人間にグリーンカードを提供している国のことも報告している(アメリカでは50万ドル投資し、最低10人労働者に仕事を与えれば、滞在許可がもらえる)。そして彼の例は国際的であり、中国の病院の待合室の席の値段まで彼は知っている。

これが事実だ。しかしサンデルは、大多数の人間が事実だと思っていることをまた、問いかけに変えていきたいのである。なぜなら、哲学者とは規範的な文句を述べるためにいるのであり、それはつまり、理想の話ということだ。なにが稼ぎと困窮と偶然を分けるか? どのような結果をそれがもたらすか? サンデルは、人間が刺激にどのように反応するかをまったく中立に、価値観を与えずに説明できるとうそぶく名を知られた経済学者とも討論してみたいと思っている。「経済学の古典文献には刺激という単語はどこにも見当たらない、ましてや最近流行の言葉、Incentivize(刺激、動機を与える)などありはしない」とサンデルはまずはっきり確定する。それだけではない、彼はクリントンはほとんどその言葉を使わなかったのに、オバマがどれだけ頻繁にその言葉を口にするようになったか、数えてさえいる。経済学は今改めて、その始まりであるモラル哲学に戻っていくべきだ。経済学は、自分がどこから来たか、思い出すべきだ。哲学だって、自分の歴史を意識しているではないか。

サンデルはこの新しい本で、練習と慣れという、とても人間に独特な2つの特徴について注目している。筋肉をトレーニングするように、どの美徳も練習しなければいけないというアリストテレスの信条をサンデルは持ち出す。つまり、公平であろうとすることによって人間は公平になるのであり、市場に批判的な態度をとりながら市場に批判的になるのだと。サンデルが出す一番の例は、スイスの一村、ヴォルフェンシーセンの市民の話だ。彼らは、核の使用済み燃料最終処分場の必要性を迫られた時、お金で説得されるのを拒んだ。彼らは金で買われず、自分たちの自由な意志で決定したいと望んだのである。彼らは民主主義で育った市民として、決断は政治的なものであり、市場が決めるものではないということを練習を積んだからこそ知っていたのである。

悲しいのは、このような「練習を積む」にはとても長い時間がかかり、それでいて腐食も早いことである。イスラエルの幼稚園の例を挙げると、子供たちを引き取りに現れるのが遅い親から、罰金を徴収することに決めたところ、この罰金はただちに罰としての効き目がすっかりなくなり、「遅く子供を引き取りに来る親」の数をかえって増加させてしまうことになった。親たちは、お金を払うことで、遅く来ても当然だと思うようになってしまったのだ。罰金はつまり、「サービス料金」になりかわってしまったのである。サンデルは、これを論証している行動経済学ダン・アリエリーの研究について報告し、さらに要求している。「誰かが基準と義務と自由の差、刺激、手数料、費用と税金の差、そして価値と習慣の差を区別する作業をしなければいけない」、そしてそれは哲学者がするべきだ、と、経済学者と共同でそれをやることになるのか、または彼らを敵に回してやることになるのかはわからないが、金融危機以来やらなければいけないことは確実だ。

危機でハーバードも変わっただろうか? サンダーの経済、法律、倫理がテーマのコースでは学生たちはこれまでもずっと批判的に問いかけをしてきたので、その意味ではなにも新しいことはないが、このコースをとりたいという学生数が増えたという。経済学では初級コースにいる学生たちの一部がカリキュラムの変更を求めたが、金融危機は学問を根本から覆すことはなかった。

しかし、80年代前半からというもの、ジェームズ・トービン、グンナー・ミュルダールからジョージ・アカロフからさらにアマルティア・センに至るまで、ありとあらゆるアメリカで活躍する経済学者が何人もノーベル賞を受賞してきたにも拘らず、リベラルな経済学理論で知られるシカゴ学派がどうしてこれまで、あれほどの影響力を維持してこられたのだろうか? マイケル・ウォルツァーやチャールズ・テイラー、ひいてはその弟子であるマイケル・サンデルなどアメリカの哲学が80年代からずっと、価値を基礎にした社会的な生活を見直すよう、鋭い論争を続けてきたというのに、なぜアメリカの市場至上主義はそれでも社会を支配し続けてきたのだろうか?

「この力は、経済的には説明できない、これは政治的哲学を通じて、初めて理解できる」と彼は言う。個人の自由という理想が決定的で、その他のどのような慎重な検討も覆い隠してしまうのだ、というのだ。リベラルな個人主義は、民主党であろうと共和党であろうと同じくらい浸透しているほど強い、とサンデルは語る。そして彼自身は、国民のあり方、連帯、公益、人生の価値などという問いかけをするあらたな場所を創っていこうと尽力しているのだ、と。そのためには、新しい言語を作り出していかなければならない、という。講義の会場で、マスメディアにおいて、一般社会で、ありとあらゆる場所で、である。

この課題が際限のないものであることは明らかだ。メンタルなツールを求める需要も、然りである、サンパウロであろうと、ソウルであろうと。マイケル・サンデルはしかしこの興味を「需要」とは呼んでいない。彼は、「飢え」と呼んでいる。

マイケル・サンデル著『それをお金で買いますか──市場主義の限界』早川書房

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